大乗仏教は活動主義なり(3) ―境野黄洋―

【淨寶 1927(昭和2)年12月10日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(3) ―境野黄洋―

 

●「各宗祖師の生活」

 独りお釈迦様ばかりではない、各宗の祖師、どなたの事績を調べましても一人として活動主義の体験者でない人はないと言っても差支えないのであります。浄土宗の法然聖人は、釈尊と同年八十歳で亡くなられたのでありますが、七十五歳にして流罪の難に遭い、本当は土佐に赴くはずでありましたが、関白九条兼実の計らいにより、伊予に行かれまして、ここに一年ほどおられました。伊予には今もその遺跡があるのでありますが、「この恩命によらなかったならば、何によりて辺鄙の群類を化せん」と言って、京洛を出られたことでありますから、この辺の人は、必ず大なる感化を受けたことでありましょう。それから赦免になって、四国から帰られましたが、やはり入洛は許されません。洛外にあって、教を説かれまして、漸く京都に入ることを許されたのが、七十九歳の時でありまして、その翌年に大谷の坊舎、即ち今の知恩院において御入寂になったのであります。八十歳まで絶えず働かれました事実が偲ばれるのであります。親鸞聖人は越後国府流罪から免されて、更に関東布教に志し、それから六十一の時に関東から京都に向かい、段々諸所を巡教をしながら、漸く六十三の二年目に京都に着し、これから九十まで京都に二十余年間、居られたわけでありますが、しかしどういう生活でありましたか、詳しいことは分かりませんけれども、兎に角、手に筆をとって盛んにその著述に従い、後の世までも永久にその真偽を遺すべく努力されたもののようであります。「文類聚鈔」の制作は八十の時であります。「愚禿鈔」の草稿が出来る八十三には「尊号真像銘文」がで出来、なおこれらの書を次々と修正したり清書をしたりして、八十六歳の時に「正像末和讃」の再治清書が終わったとあります。随分の老齢ではありますが、なかなかの精力であったことも察せられるのであります。それから以後には、著述のことは見えませんけれども、絶えず関東から来る弟子共を相手に、種々法門に関する話をして、これを門流のものに伝えさせたものの様であります。聖人九十歳の生涯は、非常に努力の一生であったのであります。蓮如上人は、八十五歳で終わりを告げられたのでありますが、一所不在を標榜し、一定の住所もなく、叡山の迫害から逃れて、北陸道から畿内摂河泉を経徊し、一旦廃れて殆ど認められなくなった親鸞聖人一流の教を再興し、今日の真宗あるを致さしめたのは、一に蓮如上人の力であったことは人の知るところであります。「御一代聞書」の「さいさい御兄弟衆に、御足を御見せ候」とある一段を見ただけでも、上人の奮闘のことは想像されるのであります。上人は兄弟を集めてこれを訓戒するに、何時も自分の足をお見せになったというのであります。その足を見ると、草鞋の緒の足に喰い入った跡が痛めしく残っていたというのであります。「御わらじの緒、くひ入り、きらりと御入り候」とある。「私は、斯うして京となく、田舎となく、辛苦労苦を嘗めて、兎に角聖人一流の教を興したものぞ」と言って、教誡せられたと言うのであります。上人が本願寺の後を承け継いでより八十五歳まで、その悲しい、苦しい、試練と忍従の下に、その目的を達し得た勇ましさの如きは、今は、一々申し上げる暇のないことは遺憾とするのであります。

 「大乗仏教は活動主義なり」と申すことは、その慈悲主義に一致する当然の帰結ではありますが、ここでは歴史的事実を挙げて、これをお話する一つの例とし、ご了解に便した次第であります。

 ―(了)―

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