大乗仏教は活動主義なり(5) ―境野黄洋―

【淨寶 1928(昭和3)年1月1日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(5) ―境野黄洋―

 

●「法然聖人と時代の欲求」②

 平清盛は、保元の乱の功により、安芸守より転じて播磨守となり、更に太宰第貳に移り、平治の戦功があったので、弟の経盛は、伊賀守、頼盛は尾張守、敦盛は越中守、子の重盛は伊予守、宗盛は遠江守、基盛は左衛門佐に在ぜられ、清盛は、翌永暦元年九月に、正三位参議に昇進している。平氏一門の発展は、この時より漸く著しきを致すようになったので、同二年には、清盛右衛門督、検非違使別当、権中納言となり、それより四年目の長覚三年に権大納言となり、翌年六条天皇の仁安元年に内大臣に任ぜられ、同二年二月には、左右大臣を経ず一足飛びに従一位で、太政大臣となった。九条信長一人の外、先蹤なき特例となりと言われている。最もその五月に太政大臣は辞したが、八月には、播州印南野肥前杵島群、肥后八代郡南郷、上比郷を大功田として、子孫に伝えしむとある。平治の乱から僅かに八年の間に、清盛の累進は終に官位大臣の栄を極むるに至ったのである。そうして平治の公達中では、長子重盛は、正二位内大臣で左近衛大将を兼ね、同時に次子宗盛は従二位権中納言で右近衛大将を兼ね、三子知盛は、従三位左近衛中将である。嫡孫維盛は、正四位左近衛少将である。頼盛は正三位権中納言右兵衛督で、敦盛は正三位参議に、丹波権守を兼ね、経盛は非参議で、正三位の位であった。清盛の妻時子の兄弟平時忠は、この時従二位権中納言である。家内の繁昌、子孫の栄華、類もなく、例もなし「凡そ一門の卿相異客、諸国の受領、衛府、諸司、総じて六十余人なり、百官既に半に過ぎたり、世には又人なしと見えたり」と『盛衰記』の作者が驚いているのは最もな訳である。同じ書に、「太政入道の小舅に、平大納言時忠卿の、常の言に、この一門にあらぬものは、男も女も尼法師も、人非人とぞ申されける。かりければ、如何なる人も、相構へて、その一門、そのゆかりに、結ばれんとしける」とあるのは、以て常時の平氏の勢力の如何に盛んであったかを想像せしむるに足るのである。

 常時の公卿が、大納言の缺に補し、一代に一度は、大納言になりたいと神に祈り、仏に祈って競争をし、命がけで争ったことを思い、殊に近衛の将官を兼ねる公卿というものは、文武兼官で、非常な勢いであったのに、これら重要な位置は、皆平氏が独占し、重盛が、左近衛大将、宗盛が右近衛大将、知盛が左近衛中将、維盛が左近衛少将というのを見ても、平氏の勢いは推し測られるわけであります。これほどまでの全盛の平家は、その当時の人から見て、とても容易にその勢力が失墜しようなどとは、誰が想像いたしましょう。平氏の全盛は万代不易と見え、一門一家の公卿公達は、夢のような栄華歓楽に、身を浸して、人の世の苦ありとも知らなかったのでありましょう。この平氏が清盛が太政大臣になってから、僅か十八年にして、壇ノ浦の戦いとなり、火の消えたように、暗黒に失せたのであります。当時の人々は世相の変遷の甚だしき、人の世のはかなさを、眼の前に、まざまざと見せつけられたのでありました。

 

ー(6)へ続くー

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