宗教的信が内に展開する願の世界(2)―曽我量深―【講演断片】

【淨寶 1927(昭和2)年12月10日発行分】

宗教的信が内に展開する願の世界(2)―曽我量深―【講演断片】

※曽我先生のお話はわからぬことで有名であります。それはこちらが浅くて、先生があまりに深いからであります。法正寺(広島市中区比治山町、真宗大谷派)での六回のお話をただ二回しか聞きませんでした。この断片は浅い記者の心にただ味わい得ただけの境地で、これが先生の全体で正しい記であると思うて頂いてはなりません。先生どうかお許しください。―諏訪令海

 

 四十八願荘厳浄土とある。この浄土を荘厳するということは、弥陀仏の本国は四十八願であるということである。荘厳とは象徴することである。形のないものが形をとることである。浄土を荘厳するには、如来の本願の形のないものが形をとること。それはあながちに空間的の形ではない。形而上の精神が形の上に顕れて来るのである。

 浄土には真実報土と方便化土とがある。

 信仰によって浄土を求める。その求めて得ようとするところが方便化土で、求めても得られない、しかも求めている世界である。

 求めずして得る世界が真実報土である。

 この二つは全然別のように思うが、信仰的自覚の上からは信一念の背景が方便であり、一歩前にある前景が真実の世界である。それは一念の前後に開けた世界である。

 人生に対しては如何なる態度をとるか、これに二つの道がある。

 捨つべきもの(方便化土)と、生るべきもの(真実報土)、この二つは信一念を離れては何れもない。ただ信一念の上に、前後の世界が離れない関係にある。方便化土は精神と物質との二つの関係が永久ではなく、一時的関係、偶然的関係にある。これが方便化土で、これは一つの独立せるものでなく、真実の影となって顕れて来る。

 普通には、物質が精神を妨げると考える(キリスト教の二元、カントの道徳哲学等)。これは対立的に二つを横に見る。これを段々徹底していくと、この二つは空間的の対立でなく、精神は物質の本体である。精神が姿を変えて物質となる。これは空間的でなく時間的である。

 物質は不完全である。けがれているというが、物質をけがれていると見るのは、即ちその見る心がけがれている証拠である。このけがれていると見る物質によって、けがれた精神を自覚反省するところに、初めて心の清浄を得る。この精神が、精神の尊厳なる絶対不可思議なることを自覚するところに、やがて物質の清浄を見得る。

 精神が変わる物質の上に変わらぬ精神を見出した時に、これは浄土の境地である。

 真実報土に生まれる者にして、初めて方便化土を自覚する。方便化土にいることが分かったところに、真実報土がある。ただ方便の中にいるものにはそれが分からぬ。

                 

― 未完 ―

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