如来の存在と未来の意義(2)ー曽我量深ー【講演断片】

【淨寶 1928(昭和3)年3月1日発行分】

如来の存在と未来の意義(2)ー曽我量深ー〈講演断片〉

 

過去、現在、未来の三世に二通りの考え方がある。

A 過去、現在、未来の次第

B 未来、現在、過去の次第

Aは普通業感の三世で、業因によって結果を感得する次第である。即ち過去によい種をまけば、よい現在を得る。現によい種をまけば、未来によい結果を得、つまり外なる物質世界を説明する範疇形式である。

Bは純粋精神世界が展開する順序で、眼に見えない世界を説明認識する形式である。

Aは現にある世界を認識する。Bは当来を主としての精神の世界を認識する形式である。

Aは三世の中で過去が主であり土台となる。

我々はよく現在現在というが、普通に現在と考えているものが果たして現在であろうか。眼を開けばここにコップがあり水差しがあると考えるが、それが本当の現在にあるのであろうか。現にあると思うものは、その実、現にあるものでなくて、それはすでに過去にあるものではあるまいか。現在の粕である過去にあったのを現在にあると思うているのではなかろうか。

我々が普通に現在現在と言うているのが、その実過去であって、未来未来と考えているのが本当の現在ではなかろうか。眼に見えないのが本当のもので、眼に見えた時は、もはや過去ではあるまいか。我々が相撲を見る、一方に土がついて、一方に扇が挙ったのを見て初めて勝負があったとみるが、真の勝負はすでに土のつかない先にある。我々の見えた時は、すでに過去ではなかろうか。

田舎の流行のようなもので、これが流行であると思うているが、その実、その頃の真の都会の流行からみれば、それはすでに過去に属している。過去のダシガラを現在に思うて、我々はただ後を後を追うて行く。現在を知らんとすれば過去を見よ。現在の本当は過去にある。このAの場合の未来は、この過去と現在を延ばしただけである。主が過去にある。物質を求めても求めても満たされない所以がそこにある。

Bの精神世界の場合は、未来が主となり土台となる。我々が未来未来と言うているのが、実は本当の現在で、現在現在と言うているのが過去である。未だ現在しない未来、当に現わるべき未来のところにこそ現在がある。勝負はまだ未来であると思うているところに、実は現に勝負があって、現在に扇が挙って勝負があったと思うところは、すでに過去に属している。

感覚世界は過去が土台になっていて、常に影を追うているに過ぎない。精神世界は未来が主であって、それにはかたちがない。純粋要求にはかたちはない。かたちがないところに本当の実在がある。如来は一如より来生するものである。これこそ真実の現在である。それは未来をして現在せしめ、かたちのないものをしてかたちあらしむるものである。

Aの世界は常に過去の影を追うているに過ぎず、未来を持たない。Bの要求の世界では過去はない。

精神世界の現在とは、即ち未来が本当の現在である。未来の浄土浄土と言うが、これは物質世界によせて言うているので、この未来が本当の意味での現在である。浄土は未来の世界であって現在でないと思うが、実はそれが現在で、普通現在と考えるのが、その実は過去である。普通に娑婆は現在で、未来は浄土であると思う。この意味を深く正しく考えてみたい。未来にこそ真の生命があるので、普通現在と思うているところには、その実すでに生命は失われている。

未来往生に対立して説くところの、現在往生(娑婆即寂光)は此土を浄土のように思うが、そこには真の浄土はない。未来にこそ浄土がある。未来こそ現在である。即ち現生は正定聚である。有漏の穢身はかわらねど、心は浄土に住み遊ぶ。これは浄土は本当の意味での現在である。

大経に書かれた浄土は未来でなく、西方十万億土を過ぎて現にある世界である。また永劫の時間が現在である。物質世界からいえば僅かな時間であるが、精神的には永い時間がみな現在である。この意味から大経は、単に主観的のものでなく、客観妥当性の確実さをもって書かれたものであり、これは動かすことのできぬ真理である。

ー(了)ー

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次