大無量寿経について(2)ー臼杵祖山ー

【淨寶 1928(昭和3)年4月1日発行分】

大無量寿経について(2)ー臼杵祖山ー

 

この一人という信甞道味の大地に立ってみる時、そこからどこどこまでも拡げられて、万二千の大比丘衆が現れて来ることは必然である。それはただ、いわゆる宗教とか信仰とかの上についてのみに、左様あるのでなくして、私達の生活の全体が全くそれであります。一例を挙げて申しますれば、汽車に乗ってもこの私一人が汽車に乗せて頂くことを簡単に考えれば、乗車券一枚で総てが尽きるが、しかし深く思わねばならぬことはそこである。それは、私一人が汽車に乗るためには、古今東西の学者が頭脳をいためて研究し、また世界遠近の工場が昼夜不断に働いてくれてこそ汽車もできる。その汽車に乗っている私一人の上に、あらゆるお恵みがおさまっているのであることを思う時、釈尊一人の周囲にあらゆるものがこの尊い心持ちを味わうことが出来るように、境遇を与えられたことを喜ばれたに違いない。それはただ汽車ばかりのことではない。たとえ一粒の米も一滴の水も、また斯くの如き意味が含まれて、そうして一切の口腹を飽き満たさしめ、一切の枯渇を潤し生かすものである。また、仏教には影響衆、或は擁護衆ということを説くのである。説法するには草木土石に向かっては出来ぬ。聞いて下さる方が即ち擁護衆である。釈尊には、おれが法を説いて聞かせてやるというような御心は全然なかったのである。文珠普賢に対しては、常に往昔の諸仏として先輩というお考えを持っていられたのである。それはただ、文珠普賢などばかりではない、一切大衆に対せられたる敬虔なる釈尊の心象である。

又、この万二千人等の意を拡大する時、釈尊はこの世界だけではない、十方世界で説法せられているのである。大経の上でははっきりしないけれども、簡単なことは、釈尊と阿難との物語に、去来現の仏は、仏と仏と想念するとある。この意味は、ただ今この釈尊一人が、この経を説かれつつあるだけでなく、今、南無阿弥陀仏の経と説く釈尊を中心に、竪は三世、横は十方の御仏が私を念じ護っていて下さるという感を持たれたのであるとも味わわれます。それは一仏の所説は、一切仏の説かれるところであるからであります。かの五徳瑞現についても、釈尊がそのまま全阿弥陀仏の相を顕わされたもので、これは仏々想念の具体化された相にして、釈迦は弥陀を、弥陀は釈迦を想念せられたものにして、即ち釈尊自身の信心歓喜乃至一念の信仰の相が、五徳瑞現として顕れたものである。また阿弥陀経について見るも、その仏々想念の相が判然と知らるる。

【 舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議を讃歎するが如く東方にー中略ー上方世界にもー中略ー是の如き等の恒河沙数の諸仏ましまして各其国において、広長の舌相を出して遍く三千大千世界を覆うて誠実の言を説きたもう。汝等衆生まさにこ不可思議功徳を称讃せる一切諸仏所護念経を信ずべしー中略ー舎利弗、我今諸仏の不可思議功徳を称讃するが如く、彼の諸仏等もまた我が不可思議功徳を称説して、しかもこの言を作す。釈迦牟尼仏よく甚難希有のことをなして、よくこの娑婆国土の五濁悪世の刧濁見濁煩悩濁衆生濁の中において、阿耨多羅三藐三菩提を得て諸の衆生のために、この一切世間難信の法を説きたもうと】〈仏説阿弥陀経より抜粋〉

この経文中にも、よく仏々想念の意味が表されてある。斯様な意味をもって、私たちの日々を反省してみる時、今私がお話をしていることを中心として、三世十方無量の諸仏に念願され擁護されていることによって、ここに始めてこのご縁を得させて頂いていることを慶ばずにはいられない。また私がただ一人歓喜することができるのも、また三世十方無量の諸仏が、百重千重囲繞して仏々想念のお恵みによってのことであることが尊まれます。此界に一人念仏すれば、彼土に一連生ず。私の念仏と極楽と、また私と阿弥陀仏が全く一心同体になる。仏々想念、古鏡面前燈火をからすという底の仏法味三昧食である。古人の歌に、

ひと聲に 三世の仏の名をこめて 称ふるたびに となえぬはなし

と、言えるは希有最勝の極まりであります。

 安心決定鈔に、【弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆえに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが迷倒のこころのそこには、法界身の仏の功徳、みちみちたまえるゆえに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は、宝樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行成就せる御かたちなるゆえに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心、二法、三業、四威儀すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば、いずるいき、いるいきも、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。】

 身心二法、身口意三業、行住坐臥の四威儀、一挙手一投足が、ことごとく三世十方諸仏の擁護を蒙りているのである。またそれが三世十方諸仏の一挙手一投足であるとも味わわれる。ここに至りては、南無阿弥陀仏と合掌するまでが、自分自身の尊重さを拝まずにはいられないところが、仏々想念である。

ー(3)へ続くー

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