大無量寿経について(4)ー臼杵祖山ー

【淨寶 1928(昭和3)年4月1日発行分】

大無量寿経について(4)ー臼杵祖山ー

 

《恒順衆生とはいわく尽法界虚空界十方刹海、所有衆生種々の差別、いわゆる卵生溼生化生乃至無足二足四足多足有色無色有想無想非有想悲無想、かくの如きらの類、我みな彼において随順して転じ、種々に承事し種々に供養すること、父母を救うが如く、師長及び阿羅漢乃至如来に奉るが如く等しくして異りあることなし。諸の病苦において為めに良醫となり、失道者においてはその正路を示し、暗夜の中においては為めに光明となり、貧窮者に於いては伏蔵を得しむ。(中略)衆生を因として大悲を起こし、大悲を因として菩提心を起こし、菩提心を因として正覚を成就す。譬えば曠野砂磧の中に大樹王あり、若し根に水を得れば枝葉莖果ことごとくみな繁茂するが如し、生死曠野の菩提樹王も亦た復たかくの如し。一切衆生を樹根となし、諸仏菩薩を莖果となす。(中略)この故に菩提は衆生に属す。もし衆生なかりせば、一切の菩薩は終に無上正覚を成すること能わず。(中略)衆生に随順して、虚空界尽きるとも衆生界尽きるとも衆生煩悩尽きるとも、わがこの随順は窮尽あることなし。念相々続して間断あることなし。身語意業疲厭あることなし》

衆生を離れて如来あり、如来以外に衆生の存ずるように思うのであるが、今この恒順衆生の願の意味をよくよく按ずるに、弥陀を助けた如来は全く十悪五逆の凡夫である。私自身からは凡夫であるが、如来の眼から見れば凡夫のままが如来である。弥陀からいう如来は凡夫である。そこで弥陀は久遠劫来今日今時にいたるまで清浄真実にして合掌作礼の愛敬をささげられるのであるとの意味が恒順衆生と顕れたのである。

これを又、涅槃経に依りてみるに、釈迦が純陀という一工匠の信者に対して、

《南無純陀南無純陀、汝今すでに檀波羅蜜を具す。なお秋月十五日の夜、清浄円満にして諸の雲翳なく、一切衆生の瞻仰せざるなきが如し。汝も亦かくの如し我らの瞻仰するところたり。(中略)南無純陀、このゆえに汝は月の盛満して一切衆生の瞻仰せざるなきが如し。南無純陀人身を受くといえども心は仏心の如し。汝今純陀真にこれ仏子なり》

と、釈尊が信者の純陀に対して、南無純陀の言を幾度も繰り返されたということは、そこに最も敬虔なる態度を以て合掌作礼されたこと、即ち我釈迦が純陀を導いたのでなくして、反って彼純陀こそこの自分を教えられたのであるとの意味が信甞されて尊いのである。これらの意味から涅槃経にまた更に説いてあります。

《世の救いは要求して然して後に得、如来は請うことなけれども、しかもために帰したもう。仏世間に随うこと犢子のごとし。このゆえに大悲牛と名づくることを得る》

この頌文は今大無量寿経の「諸の庶類のために不請の友となり。(中略)不請の法を以て諸の黎庶施すこと、純孝の子の父母を愛敬するが如し。」とあるに同じく、又、華厳経の「諸の衆生のために不請の友となり、常に勤めて無帰向の者を守護して世間を捨てず」とあるに等しく、又恒順衆生の願の意趣と同一味であることが道味されるのである。

ー(5)へ続くー

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