大無量寿経について(8)ー臼杵祖山ー

【淨寶 1928(昭和3)年5月10日発行分】

大無量寿経について(8)ー臼杵祖山ー

 

之について思い出すのは、彼の観無量寿経である。同一経文を見ても他師は定善十三観、散善三福九品を以て自己の息慮凝心の聖者、廃悪修善の善人、心を静めて修行して自ら仏に成る道を説かれた経文と見られたのである。これらは全く仏を客観的に見たものである。これに対して善導大師は、経文の教えの文字を拾い、道理を汲むだけでは自分自身に落ち着けない、その文字をその道理を、自己中心のものたらしめ、それを自己の実際生活としてのことである、するとその定散心の理想が高ければ高いほど自分の低く、そうして及第し得ない醜い落第相が見らるるのである。

他師の理想的に進むのと、善導大師の信仰的に進むのとは非常な相違がある。理知的に進むのは、例せば、幼稚園から小学校、小学より中学、大学へと進むに従って、麁より細に入り、浅より深に入るのである。が、これはどこまで行っても極言すぎるかも知れないけれど、結局幻影を追うに過ぎないのである。然るに、信仰の方は、はじめは高遠な理想に従って進むのであるが、しかしそれが先ず定善十三観の息慮凝心に落第し、更に散善三福九品の廃悪修善にも及第せず、定善の聖者の鏡に照らして、はじめて散乱常なき凡夫の哀れさを知り、散善の善人の鏡に映じて、はじめて悪逆止むなき悪人の悲しさを見るのである。口伝鈔に、

「観無量寿経は機の真実なるところをあらわせり。これすなわち実機なり。いわゆる五障の女人韋提をもって対機として、とほく末世の女人悪人にひとしむるなり。」

 との仰せに見るに、単に定散両門の益を説けるのみでなく、それを説いて以て、鑒照の鏡として、自己の真面目を知見するの仏意を体験せねばならぬ。

斯様なる意味に依りて信仰の面目は、深より浅に、精より麁に立ち還り、自照凝視が追々に出来ないようになったのが進歩したのである。理智の方は出来るようになったのが進んだのである。善導大師は、観無量寿経の三心を釈されて、至誠心の真実は阿弥陀如来の真実心の中になしたまえるを用いんことを明かすの意として、自分は全く内懐虚仮貪瞋邪偽奸詐百端悪性やめがたく、こと蛇蝎に同じき雑毒の善であり、虚仮の行であり、不真実の業であると自照され、深心の深信の心につきても、先ず自身は現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し、常に流転して出離の縁あることなしと信殺してある。廻向発願心は阿弥陀如来の決定真実心中に廻向したまえる願を用ゆるところの得生の想いにして、凡夫として秋毫の私心なしとの意味を道破されてある。この意味においての三心具足であるゆえに、凡夫はただ一心専念に無行不成の願海を仰信せざるを得ない自然の理数である。この仰信された表象は、ただ一名号の外はないのである。これらの意義を総括して、観無量寿経一部全体を結びて、

「上来、定散両門の益を説くといえども、仏の本願の意を望むには、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称するにあり」

と明かしてあることを信甞道味すべきである。

ー(9)へ続くー

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