私たちはこの世へ何しに生まれて来たのでしょう-諏訪令海-

【淨寶 1927(昭和2)年4月1日発行分】

「私たちはこの世へ何しに生まれて来たのでしょう」

                                ◆日曜学校(※1)追弔会講話(昭和2年3月10日)◆

 淨寶日曜学校と言えば、すぐ童話劇「浦島」を思い出します。それは、創立当時に開いた大会の時、大変評判が良かったからであります。「浦島」と言えば、すぐに浦島太郎になって非常に好評を得た瑛三(てるぞう)さんを思い出すのであります。

 しかしその瑛三さんはもうこの世にいないのであります。瑛三の亡くなる前には、小田の喜久治さんも、諏訪の令爾(れいじ※2)さんもいなくなりました。

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 「私たちは、いったいこの世の中へ何しに生まれて来たのでしょう。」

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 私は、この間、学校の生徒たちの通りの多い鷹野橋のところを、丁度授業の終わった時刻に通りかかりましたら、とても数えることのできぬ程の沢山の男女生徒は恐ろしい勢いで、河に満ちてくる潮(うしお)のように実にものすごい様でありました。

 「これは、まあ何という盛んなことか。」といかにも生き生きとした賑やかさと、喜ばしさとを感じましたが、その次の瞬間・・・

 「今、この元気なやさしい生徒たちの前へ60年という時間(とき)をなげかけたら、どうであろう。」

 こんなことが、ふと私の胸に浮かんだのであります。

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 「そこの花組のすみさんは、今年いくつになったのですか・・・11ですか。そのとなりのまさえさんは?・・・12。小早川先生は21。瀬川先生は26。私は38です。」

 「今、私たちに60年ずつの年を貰ったら、どうなりますか・・・。すみさんは今11ですから60年後には71。まさえさんは72の白髪頭にしわくちゃ顔のお婆さん。小早川先生は81。瀬川先生は86のキンカ頭(※2)のおじいさん。私は98の・・・いや、そんなにはとても生きられますまい。」

 今から60年の後には、恐らく世界中にいるあの沢山の人たちの半数以上はいなくなるでしょう。何せ、今年やっと生まれた1歳の赤ちゃんが60のおじいさん、おばあさんになるのですからね。今ここにいる、懐かしい私たちのお友達の八分方は裏のお庭の、瑛三さんや喜久治さんや、令爾さんたちが入っている、あの私たちのお墓の中へ一緒に入っているでしょう。

 やがては、懐かしいお父さんや、お母さんとも、兄さんや姉さんとも、可愛い弟や妹とも、好きなお友達とも別れねばならぬ時が来るのであります。何という淋しいことでしょう。

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 みんなは、よくうまいものが喰いたい喰いたいと言いますが、私たちはこの世の中へうまいものを喰いに生まれて来たのでしょうか。それとも面白くてみたくてたまらんという、あの活動写真(※3)を見るために生まれて来たのでしょうか。

 すきな遊びをしに来たのでしょうか。それとも勉強をしに来たのでしょうか。

 それでなければ、お金をためるために生まれてきたのでしょうか。立派な家を建てたり、或いは倉の中へよい道具やお宝ものを積み込むために生まれて来たのでしょうか。

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 令爾さんは死んで行きました。

 大事にしていた学校の本も、クレヨンも、洋服も、帽子も残して行きました。

 毎月、月の初めに本屋さんからもって来てもらうのを待ちかねて、楽しみにしていた絵本の「コドモノクニ」も持って行かないで、今は毎日皆さんに見てもらっております。絵本の一番終わりのページには、大きくはっきりと「スワ レイジ」と書いてありますが、書いた持ち主の令爾さんはもうこの世の中を、どこを尋ねてもおりません。色々なおもちゃも二階へ残して置きました。

 会館建築の話が持ち上がった頃、

 「早く、僕らが思うように、とんだり、はねたりして遊べるような、広いのを建てて頂戴。」と言いますから、

 「お金が沢山たくさんいるんだから、そんなに簡単に建てるわけにはいきませんよ。」と言いますと、

 「お金が足らねば僕が貯めているのを出すから・・・。」と言った、貯金が60円余りになっていましたが、それも皆残して行きました。

 すきなお友達の皆さんや、このお父さんや、お母さんや、おばあさんとも別れて行きました。

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 「私たちは、いったいこの世の中へ何しに生まれて来たのでしょうか。」

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 令爾さんは病気で寝ている間、なんまんだぶつ、なんまんだぶつとよくお念仏を申しておりました。

 「令爾さんは、もし今死んだらどこへ行くの?」

 「みほとけさまのところへ・・・。」

 と、はっきり答えました。

 「そうです。そして、みほとけさまの所には令爾さんの兄さん(※5)や、おじいさんや、誓導さん(※6)や、日曜学校の小田の喜久治さんが待っていて下さいます。そしてお父さんやお母さんや日曜学校のお友達も、一所にみほとけさまの所へ行く。みんな仲良く楽しく暮らすのです。だから、今でもこの世の中から、みんな仲良くしましょうネ。」

 とお父さんがお話をしますと、

 「エーッ・・・。」

 と言って、どこかひと所を見つめた瞳は、いかにも楽しい世界に憧れるようにして、にっこりとほほ笑みました。

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 キンエン(筋炎)という苦しい病気で、長い間床についていた尋常四年(※7)の小田喜久治さんは、死ぬる二日前にお父さんやお母さん、兄さんや姉さんを枕元へ呼んで、

 「僕は今度どうしても死ぬような気がします。しかし僕は死んでも、どこへ行ったろうかと気遣うては下さんな。日曜学校で聞かしてもらっております。僕はみほとけさまの所へ参らしてもらいます。みんなも、きっと間違いのないように後から来て下さい。待っておりますよ。」

 と、合掌して、なまんだぶつ、なまんだぶつとお念仏を申しながら、

 「兄さんは一生懸命勉強して、えらい人になって下さい。姉さんはお裁縫を勉強してお母さんのお手伝いをしてあげて下さい。そしてみんな、みほとけさまのお話を聞いて、みんな仲良く、暮らして、あとから来て下さい待っておりますよ。」

 お母さんは、たまりかねて泣かれますと、

 「お母さん泣きなさんな、そんなに泣きなさると僕は気に掛かるけん。みんな一所にみほとけさまの所へ参らして頂くのじゃけん。泣きなさんな。」

 と、悲しむお母さんを、なぐさめておりました。

 それから苦しい中から、ただお念仏を申しておりましたが、

 「淨寶寺の日曜学校の先生へよろしく・・・。」

 と、だけで、あとは聞き取れないで、これを最期に息をひきとりました。

 

                   (了)

                                            

(※1)毎週日曜日に近所の子供を集めて開くお寺の私塾。

(※2)諏訪令海の次男。大正13年寂、享年8歳。

(※3)禿げ頭の意。

(※4)映画

(※5)諏訪令海の長男、令我。大正9年寂、享年7歳。

(※6)三上誓導、大正10年寂。淨寶寺衆徒(所属僧侶)。

(※7)現在の小学校四年生

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