講演断片(1)歎異抄に就いて-足利淨圓-

【淨寶 1927(昭和2)年10月10日発行分】

講演断片(1) 歎異抄に就いて -足利淨圓-

※この断片は第三回特別講座(昭和2年5月28・29日)のお話を載せたのであります。全く先生の校閲も経ないものであることをおことわり申します。諏訪令海

 歎異抄について少しお話をさせて頂きます。歎異抄と言えば私はいつも、私が初めて歎異抄に接した時のことを思い出すのであります。それは私がまだ学生で東京に居た頃のことでありますが、ある日のこと清沢満之先生がこの歎異抄を講ぜられることを伝え聞きまして、先生のその第一回の講義から終わりの回まで聞かして頂きましたが、その時私の今でも忘れることのできないことは、先生は肺病のために、いつも袂から小さい痰壺(たんんつぼ)を出して血を吐き吐き講義をせられたことであります。その頃、佐々木・暁烏・多田の先生たちが、短い袴をはいた書生姿で、清沢先生の前席をつとめておられました。時には三人がみんなで前席のお話をせられることもありました。先生はご病気のため、いつも僅かな時間のお話でありました。初めの間は集まる者が僅か6・7名ばかりでありましたが、終わりには庭にまで人が立つようになりました。歎異抄は私には忘れることのできぬ貴い思い出のお聖教であります。

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 この歎異抄は全部を通じて味わってみますと、中々組織立ったお聖教であります。

 1.信仰は絶対の世界(第1・2・3節)

 2.人間の踏むべき道と念仏(第4・5・6節)

 3.一般宗教と念仏(第7節)

 4.念仏を称える者の心持ち(第8節)

 5.厭離穢土・欣求浄土の心のない者がお目当て(第9節)

 以上は全く真宗の信仰の規範を示されたものとも言うべきものである。

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 第1節は、弥陀の本願はどんな者でも救うて下さるということ。

 第2節は、お救いの道は理屈や学問を超えているということ。

 第3節は、善悪を言っている理論や哲学を超えているお救いであると言う、救いの大きさを明かす。

 第4・5・6節は、人間の道徳と念仏の関係を明かす。観経の中に人間の踏むべき三つの道を説いてある。第一に慈悲の心をおこして殺生をせぬこと。第二は親に孝行の心を持つこと。第三は自分を導き真実を教えて下さる師長を大切にすること。これらの三つを持つことのできる人は、人生に三福を持つ人である。これは人生の道の基調である。この三つと念仏との関係は、即ち 第4節は社会と念仏、第5節は家庭と念仏、第6節は教育と念仏との関係が説いてある。

 第7節は他のあらゆる廃悪修善の宗教と念仏の心を与えられた者との相違を明かす。

 第8節は念仏申す者の心持ち。私が申すのでない、如来様に称えさせられる念仏であるということ。

 第9節は、普通浄土門の教えでは、ほんとに浄土に参る心持ちには、厭離穢土、欣求浄土の心がなければならぬ、これがなければ救われぬと言う、普通浄土門の型を破って、こんな当然の心持さえも持たぬような者を救うて下さるお慈悲の如来様であるということを明かす。

                      -「講演断片」(2)へ続く-

 

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