原爆

 「中島本町」 - 原爆投下の日まで淨寶寺のあった場所。現在そこは平和記念公園の一画となっています。

     平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑、奥には原爆ドームが見える。国旗前の広場辺りに淨寶寺は位置していた。

 「原爆は、民家のない公園に落とされた。」平和記念公園を訪れてそう思い違いをする方がいるといいます。しかし、原爆が落とされるまでのあの場所は、映画館や玉突場など、様々な商店の連なる賑やかな繁華街でした。その一角にあった淨寶寺は、本堂に図書室や音楽室、卓球台を設置して、子供たちに開放したり、管弦楽団や合唱団を結成したり、バレエや習字、お茶、お花などの習い事教室を開いたりするなど、さながら街のカルチャーセンターのようでした。

 アメリカは、民家のない公園に原爆を落としたのではなく、空襲に遭ったほかの都市と同じ様に、たくさんの普通の人々が生活を営んでいる街の上に落したのです。

 1945年8月6日、午前8時15分、原爆投下時刻。爆心地から半径500メートル圏内にあった淨寶寺は広島の街と共に跡形もなく吹き飛ばされました。当時、平和公園の敷地となっている場所には、約1300世帯、4400人もの人々が住んでおり、一部の鉄筋コンクリート製の建物を残して、その全てが破壊され焼き尽くされました。行方不明となった淨寶寺15代住職諏訪令海(当時57歳)とその妻クニ(当時56歳)もその中に含まれていたと思われます。そして、動員学徒として、爆心地より1.5㎞離れた軍需工場(東洋製罐)に派遣されていた長女玲子(当時16歳)も被爆死を遂げました。

  集団疎開をしていた小学校6年生の故諏訪了我(淨寶寺16代住職)は原爆孤児となりました。原爆投下後の9月16日、従姉に連れられて疎開先から広島駅に降り立った少年は、一面赤茶けた焼け野原に変わり果てた光景を見て、茫然と立ち尽くしました。焼け野原の向こうには、建物に阻まれて見えなかったはずの瀬戸内の島々がはっきりと見通せます。転がり破壊された墓石しか残っていない寺の跡地に戻り、うつろな思いで周囲を見回したといいます。

 原爆から5年経った淨寶寺跡地(昭和25年)、後方右手には被爆建物として今でも平和公園内に残るレストハウス(元大正屋呉服店)、後方左手には原爆ドームの上部が見える。諏訪了我(写真人物)は、門信徒で生き残った人々が墓参りに来られるかも知れないと思い、淨寶寺の住所を書いた立札を立てた。それにメモ用紙と鉛筆を入れたビンをぶら下げ、来た方の住所を記入してもらった。また、お盆や正月には焼け跡に出て墓参りの人に会いながら、少しずつ門信徒の方々の消息をつかんでいった。

 戦後、中島本町は都市計画により平和記念公園の一部となることが決まり、1951(昭和26)年、淨寶寺は現在の場所(広島市中区大手町3-1-24)へと移転、復興の道を歩み始めました。

 寺も家族も家も全てを失った、文字通りゼロからのスタート。寺院の再建は困難を極めましたが、門信徒の方々の多大な支援を受けながら、淨寶寺は広島の街と共に徐々に復興していきます。それと平行して前住職は、自分が味わった悲しい思いを二度と繰り返してはならないとの一心から、非核・非戦・平和を訴え続けてきました。毎年平和記念公園でつとめられる旧中島本町原爆死没者追悼法要、被爆建物の保存運動、テレビや新聞の取材、講演、寺報での執筆など、生涯の使命として最晩年に至るまで続けてきました。

平成最後の年、2019(平成31)年3月11日、85歳を一期として前住職は往生の素懐を遂げました。

死のほんの数十分前、病床にて編集を行っていた原稿を書き上げ、印刷会社に手渡していました。それは被爆死した父令海の遺稿のうち、現代でも色あせることなく人々の胸中に響く法話を厳選してまとめたものでした。

最後の最後まで安住することなく歩み続けた前住職の姿は、大乗菩薩道の精神のごとく、淨寶寺の規範となっています。