総永代経・春彼岸法座

去る、3月16日、恒例法要「総永代経・春彼岸法座」をお勤めいたしました。

永代経とは、浄土真宗のみ教え(経)が永久(永代)に守られ伝えられていくことを目的として、お亡くなりになられた方やご自身の名前で寺院に布施を行うものです。仏法2500年の歴史、それは人類の至宝ともいうべき教えですが、その仏法を次世代に繋ぐという崇高な行為と言えます。ご進納者のお名前は「永代経台帳」に記名され、それをご縁として、毎年「総永代経法要」をお勤めさせて頂くというわけです。

「春彼岸」、彼岸とは正確には「到彼岸」といいます。仏教では、われわれの住む世界を「娑婆」と定義します。娑婆とは古代インド語「サハ―」の音訳。意訳すれば「忍土」。耐え忍ばねばならない悩ましき世界ということです。そんなわれわれの世界を「此の岸」とたとえるならば、清らかな悟りの世界は「彼の岸」。つまり「到彼岸」とは、悟りに到るということ、即ち仏道修行のことを言います。

ところが浄土真宗には修行がありません。ないというか、人間はあまりに煩悩が激しくて心が汚れているので、何一つ修行が成り立たないのです。それを浄土真宗の開祖親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄一定すみかぞかし」(歎異抄)と告白されています。どんな修行も叶わない身、つまり仏道にすら立てない身、ならばどうしても地獄が私の棲家とならざるを得ないのだと。

しかしながら、そのような地獄行のものをこそ救わんとするみ教えが、本来の仏教でした。「此岸」から「彼岸」へ自力で泳いで渡れる者には救いは必要ありません。溺れるものこそ救いは必要なのです。それを説いたのが「仏説無量寿経」であり、その中核にあるのが阿弥陀仏の「本願」、すなわち仏様の根本の願い、全ての生きとし生けるものを必ず救わんとする絶対救済の誓いです。

ですから浄土真宗における「到彼岸」とは、自力の修行で「彼岸」=「悟りの世界」へ到達するというよりも寧ろ、修行出来ない身がいかに「本願」によって「悟りの世界」へと導かれていくのか、既に仏によって定められているその道筋をお聞かせ頂くことなのです。

つまり「ご法話を聞きましょう」ということですね

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ということで、今年は福岡県築上郡築上町築城、金剛寺前住職、大江智朗先生(85歳)にご講師としてお越し頂きました。

大江先生は私の京都時代の上司であり恩師であります。

あたたかいお人柄の滲み出るお説教は、聞く人を和やかにします。

ユーモアに溢れ、時には鋭く人間の有り様を言い当てるお言葉に皆惹き込まれていきました。

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「地獄に行くものが救われていく。浄土真宗はよろこびの宗教である。皆さん、笑顔になんなさい。」

その笑顔を見たお子さんやお孫さんに、浄土真宗のみ教えは伝わっていくんですよと、お話になられた大江先生。確かにしかめっ面をしていたら、人は寄ってきませんよね。

と、最近むっつり顔の多い自分にとって、貴重な気づきのご法縁でした。

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