素晴らしき世界

 先日、公開中の映画「素晴らしき世界」を観て来ました。主演は役所広司。刑期を終えて社会復帰を目指す、中年元ヤクザの悲哀を見事に演じておられ、幾度も涙を誘われました。

 

(※以下あらすじ。ネタバレ注意!!)

 元極道の三上は純真な人柄だけれども口よりも手が先にでてしまう直情型の性格で、人生の半分を少年院と刑務所で過ごしてきました。映画は殺人罪(しかし三上に言わせれば、先に日本刀で襲ってきた相手が悪い)の刑期を終え、13年振りにシャバに出てくるところから始まります。
50半ばを過ぎ、今度こそカタギで生きようと誓う三上。後見人やケースワーカーなど、社会復帰を親身になってサポートしてくれる人たちの優しさに触れ、思わず男泣きする三上ですが、世間の偏見の壁は厚く、しばしば挫折します。
劇中の会話によれば、結局、刑務所出所者の約半数が社会に居場所を見つけることが出来ず、犯罪に手を染め刑務所に戻ってくるそうです。三上も容易に受け入れて貰えない社会に絶望し、ついにかつて兄弟の盃を交わした組長のもとへ向かいます…

 前住職(諏訪了我)は約40年近く広島刑務所と広島拘置所で教誨師の活動を続けてきました。教誨の過程で受刑者からよく聞く言葉は、「刑務所から出たものに対して、世間の目が厳し過ぎる」ということだったそうです。それに対して前住職は、「それは当たり前のことだ。人間というものは自分に対して甘いが、他人に対しては厳しい目で見る。いわんや犯罪者に対しては特に警戒心を持つものだ。だから、それをクリアーしていこうと思えば、よほどの強い意志を持ち、努力していかねば受け容れては貰えない。世の中は甘くない。」そう戒めていたということです。そして、「刑務所に出たり入ったりしてだんだん齢をとっていく自分自身の人生をどう思うか。かけがえのない人生を無為に過ごして一生を終わるのは、何とも情けないではないか。今刑務所にいるのだが、一般社会にいては出会えない教誨の場が、もし自分を問い直す機縁になれば、今刑務所にいることが決して無駄にはならない。失敗しないことは立派だが、失敗から立ち直ることができれば、更に立派なんだ。」と励ましていました。
これはまさに主人公三上が聴くべき言葉であり、また、日々を忙しさにかまけて無自覚に過ごしている私自身が耳を傾けねばならない言葉でもあるように思います。

 

 映画を観ながら、ふと思い出した話があります。宮沢賢治の『よだかの星』という童話です。
よだかは姿がみにくく、他の鳥たちから嫌われ馬鹿にされています。ある時、よだかは鷹に絡まれて名前を変えろと脅されます。よだかが鷹の仲間と思われるのが気に入らないのです。さもなければ殺してしまうぞと凄まれ、よだかはすっかり落ち込んでしまいました。
その夜、よだかはいつものように餌を求めて飛び立ちます。口を開けると沢山の羽虫が入ってきます。そして一匹のカブトムシが喉にひっかかり、しばらくバタバタとしたのを無理やり呑み込んだ時です。突然よだかは大声をあげて泣き始めました。自分は何も悪いことをしていないのに、皆から嫌われ、果ては鷹に殺すとまで言われた。しかし、こうやって自分は毎晩、沢山の羽虫やカブトムシを殺している。よだかは自らの罪業性に気付いたのでした。もう虫を殺すのはやめよう。そして鷹に自分を殺させることもやめよう。よだかは住処を離れ遠い空の向こうへと去っていくことを決意するのでした。

 

 「すばらしき世界」を観て感じたことは、登場人物が善でも悪でもない描かれ方をしているということでした。皆、身の周りの事情を抱え、本人の意志で動いているというよりは寧ろ、運命に翻弄されているかのようです。場合によって強者が弱者となり、弱者が強者となる。そんな視点の移り変わりが話の進行に厚みを持たせていたように思います。
皆、正しいと言い切れないものを抱えている。そんな視点に立った時、私達は「偏見」という偏狭な世界から、一歩踏み出せるのではないでしょうか。

 

寺報「淨寶」第630号 令和3年3月1日号より

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