被爆体験談(2)Bさんの場合①

被爆体験談(2)-①

Bさん(仮名) 85歳(2012年現在) 女性

《聞き取り時刻 2012(平成24)年8月24日 午後1時30分~午後4時30分》

 

【1】原爆投下時

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前8時15分

●場所 爆心地から直線距離で2.4㎞附近

●状況

Bさんは昭和2年生まれ。当時17歳で、日本電信電話設備株式会社中国支店広島出張所(左官町、現本川町)に勤務していた。3人の兄は出兵しており、母とBさん、そして3人の弟と2人の妹という家族構成だった。父親は前年に亡くなっていた。

原爆投下前日の8月5日は日曜日で、疎開していた祖母のために、堺町にあった祖母の自宅から疎開先の牛田本町まで、食器などの荷物を運んでいた。当時、「若いもんは歩け」という風潮にあり、学生は電車など交通機関を利用できず、専ら徒歩で移動していたという。朝の8時頃から片道4㎞の道程を3往復したため、荷物運びを終えた頃には夕方になっていた。さらに、その年の7月25日に引っ越したばかりの自宅(翠町)まで歩いて帰り、身体は相当に疲れ切っていたという。しかしながら、その疲労が、結果的にBさんの命を救うこととなる。

●体験談

 その日、前日の疲れが残っててね、朝寝坊しました。いつもなら6時40分くらいに食事をして7時には(通勤先へ)出掛けなきゃいけないんです。もう(起きたら)7時過ぎとって、遅刻するから、規則違反ですが電車に乗ったんです。県病院の電停(爆心地から3㎞)から乗ったんですが、市内行の電車は朝の通勤ラッシュで満員でしたから、4台から5台見送って、結局長いこと―10分以上待ったでしょうね、もう8時は過ぎとりました。それでようやく乗れたと思ったら、今度はたった6、7人ぐらい乗ってたかな、というほどでした。

 それから(電車が)走り始め、しばらくして左に曲がってちょっとしたくらいのところですね。御幸橋と交差点の中間にも行ってないくらい―今の猫田記念体育館にも差し掛かっていないところです(現広電皆実町6丁目電停附近〈爆心地から2.4㎞〉と考えられる)。曲がってちょっと行った思うたら、ドカーンってやられたんですよ、(電車が)走っている時に。何がなんだか分からんですよね。とにかくね、浮き上がった感じ。閃光は見えませんでした。ダーンていうような大きい音がして、下から持ち上げられたような・・・そこまでは頭の中にあるんですが、その後の記憶がぜんぜんないんですよ。それで気が付いたら、どうやって電車を降りたんか分からないんですけど、外におって、足元に瓦や何やらが粉々になった瓦礫が辺り一面ありました。家は傾いとるはね、塀も斜めになったり、どこが道路か、どこがどっちか分からんような状態でした。そっから記憶が始まっとるんですよ。火はなかったんです。辺りが真っ暗という印象もなかったです。ただ、歩いとる時に「広島ガス(ガスタンク)の裏のほうで火が上がっとる」いう声は聞こえました。

 

【2】避難行動

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前中(詳細不明)~午後2時頃

●場所 爆心地から直線距離で2.8㎞~3.1㎞附近

●状況

被爆したBさんは自宅を目指して歩き始める。普段、道に迷わないよう主に電車道しか通らなかったBさんだったが、その時は電車道を外れて一番の近道で自宅まで帰っている。原爆の爆風で周囲の建物が破壊され風景が一変していたにも関わらず、また引っ越したばかりで近辺の地理に疎かったこともあり、何故自宅へ迷いもせずに戻れたのか不思議に感じたという。

●体験談

 私は7月25日に翠町に引っ越してきて、まだ日が浅かったんですが、よう(自宅へ)帰れたと思うんですよ。通ったことがない道を通って。なんでその道に入ったんかも分からんですよ。それで、家(爆心地から約2.8㎞)に帰ってきたら、二階の屋根がもうぺしゃんこになってから、枠だけ残ったようになって。玄関はそのままだったけど、二階の屋根がどっかに吹っ飛んどって青空が見えるんですよ。二階へ上がる階段はブラブラになってた。

 それから母が、家に帰った私を見て「あんた、もう血だらけになっとるのに!」と言いました。私は(爆風を受けて気を失って)気が付いたらいつの間にか瓦礫の上を歩いていて、自分が血糊を浴びとるとか、ガラスの破片が両方の眉毛のあたりに刺さったままになっとるとか、気付きませんでした。痛いも痒いも記憶が全然ないのね。白い長袖のブラウスを着とったんですが、上半身は他人の血糊で真っ赤だったんです。真っ赤になっとるいうことさえ、私は分からずに帰っとるんです。母が「すぐ脱ぎんさい!」言うて、家におった弟に「お姉ちゃんの着るもの持って降りて」と、二階に上がらせて箪笥から持ってこさせました。

 家におった弟三人とも無事でした。上の二人は普段は吉島の金属なんとかという所に学徒動員で行っとったんですよ。でもその日は二人ともずる休みをして、八畳の部屋でパンツ一枚になって本を読んどった言うて。そしたら、ドーンというた拍子に、玄関から玄関戸二枚が吹っ飛んで来たらしいです。二人ともドーンと音がして咄嗟に1メートルくらいよけた言うてました。もしそのままおったら玄関戸のガラスやらを浴びとったと思います。一番下の弟は仏壇の後ろにしゃがんどって、倒れてきた仏壇の下敷きになり気を失ってましたが、私が引っ張り出してやりました。

 母は掃除を済ませて休んどるところで、やはり無事でした。弟が二階から私の着るものを持ってきたら、母が何を思ったか、土間の土を掘ってからね、私が脱いだ(血染めの)服を埋めてしもうたんですよ。で、あれ、埋めずにのけとったら(保存してたら)、資料館(広島市平和記念資料館)へ(資料として)持っていけたんじゃないか思うてね。

 妹二人はね、上は小学校四年生で、下は二年生かな。大河(おおこう)の小学校(爆心地から約3.1㎞)へ転校したばっかりで、そこへ行っとたんですよ。それで私が探しに出ました。当時のバス通りに出て、小学校の方、東を見たら黒い煙が上がっとたんですよ。それで、今でこそ住宅になっとるんですが、少し小学校のほうへ歩いたら、レンコン畑(現南区西旭町、爆心地から約3.1㎞)があって、レンコンの大きい葉っぱが皆茶色になってましたよ。それだから、爆風か放射線かが当たったんでしょうよ。

 更に進んだら、昔の宇品線(軍専用の線路)の手前のところで、私の姿を見つけた二人の妹が「お姉ちゃーん!」言うて走って抱きついてきたんです。そしたらね、左側の顔半分の髪が、二人ともジリジリになっとる。それだから熱風を浴びたんですよね。花火やなんかで髪に火が移るとジリジリってなるじゃないですか。二人とも同じように。だから、横に並んでじゃなくて、後ろ前に並んで歩いて学校行きよったんですよ。建物もない逃げる場所もない畑の中を歩きよったですから、左のほうから熱風を浴びたんでしょう。その年の暮れまで、火焼け(ほやけ)いうんか、顔半分が真っ赤になってましたよ。いつまでも治らん。そしたら、母がどっから聞いたんか、人骨を純粋な日本油で練ってそれを(患部に)貼ったらいいと。それで前の年に父が亡くなって、ずっと遺骨を持ってたものだから、母が「お父さんごめんね、お骨が少のうなるけど子供のためじゃから堪えてね。」言うて、それをすり鉢で粉にしちゃって油で溶いてネルのような布に塗り付けて、妹ら(の患部)に貼り付けたんです。そしたら、それが効いたんかどうか知らん、綺麗に跡形もなくその火焼けがなくなったんです。ただピカ(原爆)におうた人のお骨じゃダメなんじゃそうです。

 後年、妹らが被爆手帳を申請した時に、係の人が「大河の方のレンコン畑で、そうようなこと(熱風を浴びたこと)は聞いた事がない。ええ加減なことを言うな!」って役所の人が言うたそうです。

 その後は、もう家は天井がないから住むことが出来んじゃないですか、だから、近所の畑の一画に軍が防空壕を作っとったんですね、そこに避難しようかということになって。ある程度の毛布や器なんかを持って皆で避難しました。三畳ぐらいの広さでしたかね。午後2時くらいのことでした。

<備考>

Bさんの妹二人は、学校のある北東の方角へ向けて歩いていた。その位置から爆心地は北西に当たり、そのため身体の左側面が熱風を受けることとなった。

原爆手帳申請の時、役人がその熱風について疑問視していたとのことだが、爆心地周辺の原爆投下直後の地表面温度は、熱線によって摂氏3000度から4000度に達している(因みに鉄の熔ける温度は1500度ほど)※1。Bさんの妹二人が被爆したのは、爆心地から約3.1㎞地点だが、爆心地の強烈な熱線が爆風によってもたらされていたと考えられる。

※1 図録「ヒロシマを世界に」(広島平和記念資料館発行)p54

 

【3】原爆の惨状 当日

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午後3時頃

●場所 爆心地から直線距離で2.2㎞~1.9㎞附近

●状況

一旦、近所の防空壕に避難したBさんは、近所の様子を見て回ってくると御幸橋方面へと向かう。

●体験談

 それから私は、(街が)どうようなか(どういう風になってるのか)見てくる言うて、御幸橋(西詰、爆心地から約2.2㎞)のところまで行きました。そしたらもう、死体の山ですもん。中国新聞のカメラマンが写した写真(松重美人氏撮影、午前11時過ぎ)もありましたでしょ、橋を渡って、あの(写真に写っている)派出所のところを通って少しのところまで行きましたよ。あの写真には、あんまり人は写っとらんですけど、原爆直後の昼前ぐらいの写真ですからね。私は午後3時くらいに、どこまで行けるもんかなと思って行ったんです。そしてら、御幸橋のところは、もう人の、息絶えた人の山ですよ。

 それから広電の本社(爆心地から約1.9㎞)まで行きました。そしたらもう、電線が切れてシューシュー、シューシュー火を噴いて、花火みたいになってのた打ち回っとるんです。こりゃ危ない、火傷したら危ない、これ以上行けん思って引き返しました。

 私が人間の死体を見たのは、その前年亡くなった父を見たのが初めてで、御幸橋の上で人が死んで、こんなにたくさん死んで・・・この世の地獄ですよね。

 広電の車掌さんなんかは、昔は切符切りで腰の辺りにカバン下げとっちゃったでしょ、カバンだけが身体に着いとるんですよ。服も何もない、皮膚が垂れ下がっとんですよ。もうあれを見た時には、背筋がゾーッとしましたよ。まあ、こういうことになるんか思うてね。私は、畳の上で死ねるいうことは幸せなことなんじゃなあ、いうて子供心にねえ。皆、ここまで逃れてきて、息絶えて、皆、着とるもんも、身についてる人はまだ幸せですよね、着とるもんも焼けただれて、皮膚か衣服か分からんような状態で、丸くなっとる人もあるし、大の字になっとる人もあるしね。こんな死に方して・・・。皮膚が赤銅色言うんかね、なんと言うんじゃろう、ああいう色のを見ました。

 帰ってから、お母さんにこうこうこうだったんよと話をして、その晩は防空壕で過ごしました。畑の中の防空壕から空を見たら、首を東から西へくるっと回すぶんだけ、空が火の海ですよ。市内が焼けよるのがね、空が真っ赤でから。もう真っ赤ですもん、ずーっと、火が上のほうまでね、入道雲みたいに。

 昼間は市内のほうは黒い煙が街を覆うように立ち込めたようになって、黒い雲が上がったように見えるんですね。それが夜になったら赤く見えるんですよ、二日目も三日目も。まあ、びっくりしましたよ。

 母がこんなことを言いよりました。(亡くなった方々は)どれだけ残念で悔しいじゃろうけど、幽霊になって出れるもんなら出で恨みを晴らしたらええのにね、そんなことを言ってましたよ。

 

【4】原爆の惨状 2日目

●日時 1945(昭和20)年8月7日 時間不明

●場所 爆心地から直線距離で1.6㎞附近

●状況

市内の様子を見に千田町の日赤(現広島赤十字・原爆病院)まで足を運ぶ

●体験談

 翌日は千田町の日赤(現広島赤十字・原爆病院)の前まで行きました。電車道から日赤に入る道路のところに、ざーっと、動員学徒の死体が積み上げてあったんです。中には一般人の人もあったんかも分からんけど、中学生の国防色の服装ですね、あの服の色が全部同じだったから、動員された学徒だと分かりました。頭をそろえて、4、5段くらいあったでしょうね。

 それで、その前を通りよったら、「お姉ちゃん」って声を掛けられたんですよ。(積み上げられた遺体の)山の中から、真ん中へんぐらいじゃったかしらね。私はもうびっくりしましたよ。それで振り向いたら、「お水ちょうだい」言うじゃないですか。ふっと周りを見たら瓦の欠片やらの中に、どんぶりらしい半分欠けたような器を見つけてそれを拾いました。当時市内を歩いとったら、人家のあちこちで、鉄管の水道の蛇口から水がジャージャージャージャー流れ放題でしたから、その器で水をすくって、こぼさんようにやっとこさ、その子のネキ(そば)へ持っていったら、警防団の人―襟が黒い、エラそうにしとる人がおるんですよ、それが来て、「飲ましちゃいけん!」ってオラブ(怒鳴る)んですよ。まあ、今じゃったら口が立つけえ、飲ましてあげりゃあいいじゃないねって言えるけど、その当時はねえ、17歳で言い返すいうこともようしないから、飲ましちゃいけんのかねえ?思うて・・・息絶えるのに、飲ましてあげりゃあ良かろうに、なんでそんなにオラバにゃいけんのか・・・胸の内でそう思っとっても、口に出せんじゃないですか。そこへきて、警防団が器を奪うもんですから・・・。

 後からだんだん同じ様な話を耳にしました。「もう何日も生きるような命じゃないのに、警防団がエラそうに、水を与えたら死ぬるじゃ何じゃ言うて、はあほっといても死ぬるじゃないか、飲ましたいだけ飲ませたらええじゃろう・・・」。

  その当時は昭和19年頃から、警防団の人間が、夜になると街の橋のあちこちに2、3人のグループで立っていて、橋を渡ろうと思うたら、エラそうに「どこへ行くんか!」言うてね、検閲しよりましたからね。市内におったら危ないから(広島市は軍都として栄えていたため、大規模な空襲が予想されていた)、(市内の人は)皆疎開しなきゃいけんいう雰囲気じゃったから、(そういう人々を)外(市外)に出しちゃいけんいう軍の指令が内密にあったんかどうか知りませんが・・・。

 これは警防団とは別の憲兵のことですが、私らも昭和19年の12月10日に三番目の兄が招集されるんで、12月初めくらいに堺町のおばあちゃんのところへ一緒に報告へ行ったんですよ。その帰りしな、夕方だったですが、自宅の近くまで帰ってきたら、憲兵に捕まってから、「お前ら、女と男が何をいちゃいちゃ歩いとるか!」と。今でこそ、子供でも彼氏や彼女じゃ、付きあっとるじゃ何とか言うけど、あの当時はそんな知識、学生の私らには全く頭にないですからね。何のことか分かりませんでした。兄が、「妹です、祖母のところに召集の報告に行った帰りです」そう言っても、「みんなそう言うんだ!」と信用しないんですよ。そしたら兄が両ビンタされたんですよ。あの時私は叩かれませんでしたが、兄は口から血を出しましたからね。母が、入営するのにあと日にちもないのに腫れが引くかしら言うて、心配したくらいです。

 それで、その憲兵の顔が、私は忘れられんのですよね。そしたら、知らなかったんですが、私が当時勤めてた電話設備(日本電信電話設備株式会社中国支店広島出張所)に、その憲兵の妹さんがいたんです。その妹さんはピカで亡くなられたんですが、昭和20年の秋頃に、そのお母さんが、同じ会社に勤めてた私が生き残っとるいうのを聞きつけられて、尋ねに来られたんです。「娘はどういう状況で亡くなったんでしょうか?」て言うてじゃから、よく知らないけれど、「同じ会社で被爆した男の人がお嬢さんの声を聞いた言うておられたから、会社の中で亡くなられたらしいです」というようなことを答えたんです。そしてたら、そのお母さんが私に、「一晩でいいから家に泊りに来て」言うてね。夜明かしして、会社の中のことを色々聞きたいから私を一晩だけ連れて帰りたいって。それで、そこまで頼まれたら嫌と言えず、そのお母さんと西観音の家まで歩いていったんです。そこで色々話をしてる内に、そのお母さんが「あの娘の兄も憲兵だったんだけど、元気で帰ってね。ちょっと離れたところにバラックを建てて住んでるんですよ、呼んできます」言うて、その兄を連れて来ました。そしたら、その憲兵だったんですよ。偶然いうことがあるもんですよね、私の兄を叩いた憲兵はこの人だったんじゃと思うて、びっくりしましたよ。

 その時は私は何も言えませんでしたし、向こうも私の顔を覚えてなかったみたいで、それ以上のことは何もなかったんですが、後年、私が結婚して今の町に移ってきて知り合った方が、偶然そのお母さんの親戚だったんです。それで戦時中に憲兵でおられた方は?って尋ねると、あれ亡くなりました、って。もうね、人さんから責められて、気が狂うて。憲兵の威厳いうんか何いうんか、そういうものをチラつかせて、あっちもこっちも殴り飛ばしてきとったんでしょうじゃない。戦後、あいつ(憲兵)があそこに住んどるいうことが分かって、あっちからもこっちからも攻撃を受けられたんじゃないかしら。結局最後は精神異常になって亡くなりましたと。

 二番目の兄も外地(中国)から船で帰る時に、軍隊でも悪い将校がおるじゃないですか、部下を痛めつけるような。それで、玄界灘を通る時に突き落としてやろうかと皆で相談したと言ってましたよ。そしたら、その将校は内地(日本)に帰るまでね、船の底から一歩も上がってこなかったって。もう何かといえば、ムチでピシピシ殴り飛ばしてね。フンドシまでアイロンかけろって言われたりしたそうです。権力を笠に着てね、人間を人間と思わんとやってきた。肩の肩章がモノを言うてね、威張って、人を使い放題使うてきた。そんな人でも、軍を離れりゃただの人ですよ。「よう甲板へ上がってこんかったで」言うてね。

 戦争は不幸ですよ。お互いがお互いにね。憲兵は憲兵で、自分の職務に忠実にやろうと思って、そういう風になっていったんでしょうよ。警防団も警防団で町内を守らにゃいかん、一歩も外へ、橋を渡って向こうへ行かしちゃいけん、っていう責任から、そういう風になっていたんでしょうね・・・。

                                 【被爆体験談(2)-②へ続く】

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