救済の宗教(1)―新宅博雄―

【淨寶 1927(昭和2)年8月1日発行分】

「救済の宗教」(1)

●人間について(宗教的主体の問題)

 さきに救済仏について述べた(※1)ので、今回はその救いの一要素たる人間について考えることとする。一体人間の本性は善いものであろうか、悪いものであろうか。

 これについては、昔から東洋にも西洋にも道徳家の間に、色々説がなされた。中国の孟子のごときは人間の本性善なりと言い、荀子は悪なりと述べ、子思のごときは善一面にもあらず、悪一面にもあらず、中庸なりと言っている。その他仏教思想の縁起論系の思想や、西洋倫理の快楽主義の説のごときは、性善の立場に立ち、仏教思想の実相論系の思想や、西洋倫理の克己主義の説のごときは、性悪の立場に立っている。而して仏教思想の中道論系の思想や、西洋倫理のパウルゼンなどの思想のごときは、善悪中庸の立場である。

 つまり人間の本性について、斯様に善とか悪とかの説の立つのは、これ人間にこの両面あることを物語るものである。宣なるかな、近代の心理学や哲学の立場からは、人間の本性について次の如く言っている。

 人間は神仏の性質と、悪魔の性質との二つを具えている。それは理想性と、自然性、なお言い換えるならば、理性性と本能性とである。前者は人間を向上せしめんとする善良の本性であるが、後者は人間を堕落せしめんとする不良の本性である。人間はこの全く反対せる二つの性質よりなれる矛盾の存在である。ここにおいて人間は、内面において絶えず葛藤をまぬがれない。

 人間はもし、その理性性が自然性を征服し尽くしたならば、神か仏となり、その反対に、自然性が理性性を放逐し去ったならば、人間は動物となってしまう。しかし人間始まりてよりこの方、人間が動物となりきったことも聞かないが、また人間が神や仏となったことも多くは聞かない。ここから見ても、三つの矛盾せる性質は調和も統一も、極めて困難なるものの様である。その何れかへ容易に片付くものならば、好都合であるが、この矛盾が永遠に続いていくとこに、人間の焦慮も、人生の苦悩もある。

 人間は斯様に善悪両面の性質を持っているもので、ある者はその善なる方面に重きをおいて性善説を立て、ある者はその悪なる方面に重きをおいて性悪説をたて、折衷派はまた両者を考慮に入れたのである。つまり矛盾の存在であることは間違いない。

 キリスト教の神学は、人間を罪の存在となしている。いわゆる原罪説がある。アダムとイブのエデンの園における原罪物語に基づいている。また仏教教学は業の思想があって、人間を罪業の存在となしている。人間は十界中の迷界に属するものとされているので、決して高く評価されていはいない。この原罪と呼び、業と名づくるは、人間の持つ上記の本質的矛盾の存在を意味しているものであろう。

 ポーロは「人は善を行わんとするも、悪に堕ちざるを得ない」と言い、又ある人は「夜、静かに内観する時、地上一人として懺悔しないですむ人間はいまい」と、告白しているが、これは誰しも承認しないわけにはいくまい。

 人間の起源については、古今東西その説くところを異にしているが、馬鳴菩薩という聖者の作である大乗起信論の中に「忽然々起名為無明」というのがある。これは忽然として、宇宙法界に、無明というものが現出したということであるが、吾人は、人間の始めは、この無明なりと信ずる。大聖釈尊も十二因縁というのにこれを説いておられる。

 この無明から業を生じ、煩悩を生み、苦を受けるに至る。これ人間の生死流転、生滅変化のすがたである。

 もとより大乗仏教には、一切衆生悉有仏性の思想はあるが、現実相としては、無明、煩悩の相であることは明白である。

 今少し歩みを進めて、救済の宗教を体現され、且つ宣布されたる、わが親鸞聖人の人間観を伺うこととする。

 聖人は二十年間比叡山に修道せられたが、その間人間並みに人生を随分と深刻に観察し、内省せられた。かくて最後に人間を、矛盾、罪悪、煩悩熾盛の存在と確認された。愚禿鈔には「愚禿が心は愚にして外は賢なり」と言われ、一念多念証文には「凡夫はすなわちわれらなり」とのたまい、歎異抄には「とても地獄一定すみか」と表白されてある。

 なおも少しく聖人の人間観の詳細を伺わんとするに、教行信証の信巻の三心釋は、最も適切である。そこに聖人がいかに人間を罪悪深重なる者と見られたるかを伺うことが出来る。先ず至心釋を見るに、

 「一切ノ群生海無始ヨリコノカタ乃至今日今時ニ至ルマデ、穢悪汚染ニシテ清浄ノ心ナク、虚仮諂偽ニシテ真実ノ心ナシ」と述べられ、信楽釋には「無始ヨリコノカタ、一切群生海、無明海ニ流転シ、諸有輪ニ沈迷シ、衆苦輪に繋縛セラレテ、清浄ノ信楽ナシ、法爾トシテ真実ノ信楽ナシ。ココヲモツテ無上ノ功徳値遇シガタク、最勝の浄信獲得シガタシ。一切凡小、一切時ノウチニ、貪愛ノ心ツネニヨク善心ヲ汚シ、瞋憎ノ心ツネニヨク法財ヲ焼ク。急作急修シテ頭燃ヲ灸フガゴトクスレドモ、スベテ雑毒雑修ノ善ト名ヅク。マタ虚仮諂偽ノ行ト名ヅク。真実ノ業ト名ヅケザルナリ」とのたまい、欲生釋には「微塵界ノ有情、煩悩海ニ流転シ、生死海ニ漂没シテ、真実ノ回向心ナシ、清浄ノ回向心無シ」と仰せられてある。

 要するに三心釋は、人間は真実の心なく、明信仏智の明無く、大悲回向の心無く、生死海に沈淪せる罪と不安の凡夫なることを告白されたものである。

 仏教には、人間は日に八万四千の煩悩を造るといい、又、日に八億四千念、皆これ、三塗の業と言うが、迷の存在、罪の盆夫の身心の活動は実に驚くべく多くの罪業を造っているのである。先年、西晋一郎先生が京都大学で、「悪について」の講演の際、人間の念々これ罪なりと、仏教の八億四千念の説を参照されたことがあるが、まことにその通りである。

 私共が、外面的の生活にのみ、とらわれている時は、何ら自分の罪にも気付かないが、少しく精神的に生活し反省の生活に入る時は、容易に自分の姿の醜きことに気づくであろう。西洋のある道徳家が言った。「世界中の人を、法律上の裁判所にて審判した時は、無罪の宣告を受け得る者は多々あるであろう。しかし、世界の人を、道徳上の裁判所において審判したならば、恐らく一人として無罪の宣告を受け得る者はいまい」と実にその通りである。

 足利義山師は御臨終の時、門弟の講によって与えられた詩の中に、「八十余年罪山ノ如シ、決定必定無間ニ堕セン」と述べられたのである。学徳すぐれた法然聖人も十悪の法然と懺悔されてある。古来熱心なる求道者が家を捨て、妻と別れ、子を捨てて、出家得道されたのも、この罪と不安の自分に目覚め、はかなき人生の解決を要求されたのである。

 慧可禅師であったか、手を切ってまでも達磨の弟子となった。人間一度自己の真相に目覚め、人生の如是相に眼を注ぐ時は、宗教を求め、仏にあこがれ、救いの御親に呼び掛けずにはおれなくなるものである。

 げに宗教は弱者のためのものである。しかも人間一人として弱者ならざるはない。

                      (了)

                                                       

 

※1 この号の前号(第7巻7号)と前々号(第7巻6号)は失われているため、内容は不明。

※  一部破損によって判読できない箇所等は省いて掲載しています。

 

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