如来の存在と未来の意義(1)ー曽我量深ー【講演断片】

【淨寶 1928(昭和3)年3月1日発行分】

如来の存在と未来の意義(1)ー曽我量深ー〈講演断片〉

 

宗教の名はついていても、多くの宗教は外に求める宗教である。真宗の信者であるという人でも、信心である、本願である、おたすけであると言葉だけは、お経の中の言葉を聖人の謂われた通りに使っているが、肝心の意味はお不動さんやお稲荷さんに対して、病氣の平癒を祈り、商売繁盛の現世の祈祷をするのと何ら変りはない。

いや彼は現世であるが、此は未来の往生を願うのであるから、彼と此とは大いに相違するというかもしれんが、すべての願を外に求めるという根本の信の本質が共通している、それでは共に迷心に止まると言わねばならぬ。

自力迷信の域を脱して真実に仏をたのみ信ずるという純粋な信仰たらしむるためには、我々は与えられたる仏様を、その仏様の意味を内に求める。仏様は外にあるとしても差し支えないが、姿は外にあるようであるが、仏の原因を内に求める。弥陀仏をたのむと言えば、その実体を偶像的の仏が外にあると考えるが、実際は「仏が眼前にましますが如し」と感ずることの外にない。仏のほんとの体は信仰の前に、或は外にまします如く、実際は味わい感ずるのである。これを道理事実として偶像的に論断確定する必要はない。ただ、「まします如し」即ち、まします如くあるのである。仏の正体は信の外にあるのでなく信の内にある。我々の欲求としてある。信仰意識の内面に、一切衆生の欲求の中に仏様の正体がある。これは如来の原理であると共に信の原理である。

弥陀は何処にましますか。西方浄土に、十万億土の西にという。

お経に書いてある。だから間違いはないから、信ぜねばならぬという。それで納得できれば差し支えないかも知れぬ。

お経に書いてあることはつまり、あるからあると書いてあるというが、果たしてそれだけの意味で心が満たされるのであろうか。

大経の中には、法蔵、弥陀、浄土が書いてあるが、果たしてそれらのものはあるのであろうか。あるとも思えない。それならないのか。ないとも思われない。自分は曾て行ってみないでもフランスや英国はあることを信ずるような意味での確かさには、弥陀やお淨土があるようには思われない。それではないと思うか。ないとも答えられない。ないということも、それを確かめられねばいうこともできない。実際にお経を読んでいると、まんざらないことをあるように書いたものとも思われない。読めば読むほど有り難い。始めはたぶらかされたようで疑っているが、段々読んでいくうちに有り難くて疑われないようになる。ないものどころではない。全く真理であって疑われない。あるようであるというよりも、なければならないと思える。

世の中のものは、あればある、なければないと簡単に決まるが、宗教上の如来や浄土はあるともいえず、ないともいえず、それならいい加減な宙ぶらりんとかいえば、決してそうではない。宗教上のあるというのは、ここにコップがある、水差しがある、或はイギリスがある、フランスがあるというようなあり方ではない。それとは全く本質が違って、もっと確実な存在である。宗教の世界は有ではなく無ではなく、それならどういう世界か。それはあらねばならぬ世界である。現にある世界でなく、現に全くない世界でもなく、常にあらねばならぬ未来、当来の世界である。当にあるべき、又は来るべき世界である。

ー(2)へ続くー

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