真宗学十回講座(第9講)①-梅原眞隆- 

【淨寶 1927(昭和2)年2月1日発行分】

「第9講 浄土真宗の実践的観察」①

1、人間の知識と我々の信仰とが、どんな関係をもつか。(知識と信仰)

2、悪いことをやめて、よいことをせよという道徳的生活と、善人も悪人も助かる、もっときりつめていえば、悪人こそ救いの目当てであるという宗教とが、どういう関係を持つか。(宗教と道徳)

3、こんな信仰ともつ生活は、どんな形で行われていくか。(宗教と生活)

□知識と信仰

 私たち人間は考える者であるということは、一面から感謝せずにおれない尊いことである。キリストの神話には智慧の果実を喰うたことから、楽しい園を追われたとある。また中国には、文字を知ることは悩みのもとであるとある。成程、これには一面の理がある。知識に目覚めないで夢を見ている世界は楽しいであろう。そこに考える知識を与えられたことによって、やがて悩みを感ずるようになる。しかし、目を開いたことによって泣かねばならぬという事は、くやしくない。それはある意味において、人生を高めたことである。

 よく考えてみると、知識が我々の生活を、どれだけ豊かにして、どれだけ高めたか。我々はこの知識に対して、大いに感謝し、尊敬しなければならぬ。だが知識で計るよりも人生はもっと深い。そこには知識でくみつくせない深みがあることを味わわねばならぬ。ここで知識が謙譲にならねばならぬ。思惟―考えは大切であるが、これが人生のすべてであると考えてはならない。決して知識に値打ちがないというのではない。普通の理性論理で知る明るさだけでなしに、もっと思考の論理を超えて人生をくまなく知りたい。

 仏教では知に解知(げち)、行知、信知の三を説く。一の解知は分析する論理的、科学的知識。たとえば水とは何か。それは水素と酸素が化合したものである。これは何色か。赤と青でできている、という風に生きたものを概念の中へ分けている。

 憎み合うことに苦しみ、愛し合うところになつかしい世界を経験して、人に説教したとする。これは即ち解知である。一人の子の前に母親が涙を流した。これはただ愛することを考え、ながめることではない。愛を実行したのである。愛せずにおれず、そのものにぶつかって、ものそのものと一致した世界である。これは思考論理を通さず行為によって、ものの深さを知る。行為は完全な知識である。愛も理屈も考えただけでは解らない。実行は考えた世界よりも、より深い。解知は広いが直観は狭い。我々は広い全体が解って、しかも生命それ自体にふれたいものである。

 我々の生命の内部からぶつかかる。生命の内部直観。それは信知である。信ずることによってはじめて生命の深さがよくわかる。たとえば八万の法蔵を知る解知の人も、もし生命の後生を知らなかったらなら、それは聡明な愚者である。たとえ一文も知らぬ者であっても、もし後生の生命を知るならば、それは無学の智者である。普通の知識よりも深く総合的であって、生命のどん底から目をさます世界が信知の世界である。真の信念は、知識が邪魔にならず、またそれにとらわれないものでなければならぬ。知識が邪魔になって、それをなくせねば信ぜられない信仰は人生のものにはならない。しかし、知識にとらわれて、知識がなければ信ぜられないという信も不完全でだめである。真の信仰は知識を超えて、知識以上の智慧による生命の目覚めの世界である。

この知識を超えた世界は、すべての宗教に大なり小なりこれを見つけた。これを完全に見出したものが親鸞聖人の愚禿(ぐとく)意識である。人間の学問や修行でつかんだ知では、本当の世界、如来の世界は解らない。愚禿の意識をはっきり見つめられた聖人は、そのまま如来の魂に目覚めた方である。電気やロウソクの暗さは、太陽の光を見たものにこそ知ることができるのである。

そんな信念はどうしたらできるか。前二の解知、行知は人間の計らいでできる。即ち小学より中学より大学と進む。幼稚な自然生活より順次に高尚な道徳生活へと積み重ねて行くのである。ところが、次の信知は学問、修行ではできない。これは如来より回向せられるものであるから、すなおな心に与えられる。即ち愚者になりて信ずるのである。愚者になることが如来の恵みに逢っていることである。

 如来に生きる実際の道は、考え行うことによらないで、この愚かさを反省する謙譲な、拝んでいく世界であり、受け取る世界である。この驕慢(きょうまん)な私に尊い反省をさせて頂くのは、まったく背後の大きな智慧の光によるのである。しかし、それなら全ては如来から与えられるのだと言って、ただ如来を向こうに見て、棚から牡丹餅を持っていてはならぬのである。我々は全てに対して、愛すること。理屈を言わないで、だまって働くこと。拝むこと。この三つが揃わねば完全でない。ところが、これは中々容易ではない。我々は、ここに宗教的に深められた信知によって合掌しながら、亡びざる浄土へ一歩一歩進ませて頂くのである。

 ある奥様に一人の可愛い娘さんがいた。学校教育はもちろん、すべての躾け行儀などに大変注意深く、女学校も卒業した。これで一通りの術も教育したつもりであったが、しかも大変大切なものを忘れていたことに気がついた。それは、大事な魂を育てることを忘れていた。外形の衣食の生きる材料は与えていたが、本質的生命を与えていなかった。衣食の材料も大事であるが、生きた生命そのものを与えないで何になるか。そこに気付いて、それからは共に如来さまのお慈悲を聞くようになった。そして如来より与えられたものを受け取り、生かされている存在をはっきり認め、尊い生命を得ることができた。普通はとかく、魂の尊さをしらない。信知こそは生活の全体を動かして行くものであることを知らないで行くのである。

 信仰と言えば、とかく大事な自分を、信心の概念の中に入れたり出したりして苦しんでいる。つまり、信仰の概念によって如来を見失うことになる。

 小倉で、ある医学博士夫妻が共に熱心に手を合わせて聴聞していた。夫婦ともに如来の前へ合掌しているということは実に尊いことであり、感謝すべきことである。ところが真面目な奥さんはとかく信仰を得たと思えば、またくずれると言って訴えられたから、「あなたは信仰の概念はよく解っている。むしろ今まで覚えたもののために苦労してきたのである。信心じゃ、念仏じゃ、一念じゃ、多念じゃと、そんな難しい言葉には蓋をして、ともかくも如来さまに親しみを持ち、仲良しになり、仏さまと打ち解けて、かしずきなさい。」と、言ったら、「共に如来さまに親しみを持ちなさい。」と言うたことではっきり解りましたと大変喜んだ。とかく信心の概念の中に入って身動きならぬようになる。信心とは、寄りかかり、よりたのむ心である。如来の魂と私の魂と一つになった世界が信仰である。

(②「宗教と道徳」へ続く)

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