真宗学十回講座(第10講)①-梅原眞隆- 

【淨寶 1927(昭和2)年3月1日発行分】

「第10講 浄土真宗の社会的考察」①

 我々は社会的生活をするには、どんな生活が最も感じのよい生活でしょうか。

 それは、すべての人がのんびりと素直に生かされて行く生活でありましょう。自分は他人の邪魔をすることなく、又他人が生きるために自分が無用の犠牲を払うことのいらぬような生活こそは我々の願わしい、最も感じのよい生活でありましょう。

 かつて、ある雑誌が「今の日本でどんな心もちで生活することがよいのか。」という意味を往復ハガキで尋ねてきた時、私は返事をいたしました。

 すべての人に相談したいことは、他人を傷つけ、殺さねば生きられないということは、自分が本当に生きていないことではありますまいか。又、自分が他人のために殺されるということも、その生活には、どこかに大きな欠陥があるのでありましょう。お互いに他人を奴隷や手段にすることなしに、私も他人も心もちよく生きることのできる世界が欲しいのであります。

 こんなことは、平凡な答えではありますが、これは地上の長い願いであって、しかもいまだかつて、叶えられない世界なのであります。

 何れの世界にも何等かのかたちで、暴君と奴隷が存在するものであります。家庭でも主人が暴君であって、妻や子が奴隷であったり、時には妻が暴君で主人や子供が奴隷であるところもある。我々の願いは、そんな家庭でなしに、主人は主人であり、妻子は妻子のままで、しかも皆がより高い統一の上に生きることのできる世界が欲しいのであります。

 ところが、実際は家庭ばかりではない。全ての社会において自分が生きるため、独立するために、とかく他人の独立を束縛することになりがちであります。しかもこれは我々の心持でかなり、何とかできると思います。できる、できぬということは第二の問題として、せめてこの願いの下に、少なくとも反省していくことが宗教的生活であります。地上の実際生活はこれに反して、弱肉強食の実に恐ろしい状態であります。弱い者の肉を喰うのは強いものの権利であり、これはあたり前のことであるかのように思う。しかし、弱い者を最後の一人まで生かすところにこそ、真に強い者の尊さがあるのであります。

 新聞をみると随分気の毒なことが、色々面白そうに書いてありますが、書かれる人になってみると、どんな気持ちがするでしょうか。しかも、それを楽しみ半分にみるという社会はお互いに、もっともっと考え直さねばならぬことであります。一人の女、一人の子、これには親もあり、夫もあり、子もあるでしょう。それらの者が、情けない記事によって、地上ぬぐうべからざる傷をうける。そして、その人が一生立つことのできぬばかりでなく、子孫までも泣かすことになる。これらのことは、どうかして合掌して生きてい人達の念願のもとに浄められたいものであります。

                         〇

 仏教の道を修める人たちに、大体三つのかたちがあります。それは声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)の三つであります。

 声聞は声を聞いて教えを受ける者であります。貴き声に導かれ目を覚まして行く世界。云わば教育の世界であります。声聞という文字を解すればそうでありますが、この声聞の最も著しい性質は、俗に声聞根性と言うて、わが身勝手な心を持つものに名づけられてあるのであります。即ちこれが宗教上に現れると、この地上にどんなことがあっても、自分さえ救われたらそれでよい、つまり私自身が当面の問題で妻や子は捨ててから山に入って悟りを開くという、修行上の利己主義者であります。

 ある青年が申しました。「先生、私に自由に言わせてもらうなら、釈尊は嫌いであります。それはあまりに我身勝手である。愛すべき妻子の眠っている間に山に入ったことは感心できません。もし自分が救われねばならぬのなら、なぜ愛すべき妻子を連れて行かないか。もし、それがために迷うなら、共に迷うて行くことこそ宗教的生活ではありますまいか。」

 これは釈尊は自分を救うというだけに止まられたのではないから、この青年の考えには少し幼稚なところもありますが、とかく修道上の利己主義者になりがちの者に対しては、少なくともこの青年の批判の根底に同感してよいところがあると思います。

 帝大を出て、ある寺の住職をしている私の友人に、非常に真面目な求道者があります。そのお母さんも、奥さんも大変感じのよい、よくできた方々であります。この友人は「よろづのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに ただ念仏のみぞ、まことにておわします。」(歎異抄後序)という心で、今は熱心な念仏の行者になっているのであります。それもよいが、ただ念仏のみに熱心で、一方家族の皆が喰わねばならぬ、親しみ合わねばならぬことは忘れてしまって、門徒の方に対しても、葬式や法事などは、とんと念頭におかず「何より念仏が大事です。何事もさしおいて念仏申しなさい。」というような風であるので、お母さんは、「この頃は何もかも、とんとわけが分からなくなりました。尊いお念仏のために、今まで笑うて嬉しい日を送っていた私たちの家庭は、全く淋しい、暗い家庭に変わってしまいましたが、どうしたことなのでしょうか。」

 こんな形は世間によくあることであります。しかも浅はかな者からは、こんな形が、いかにも徹底した修道者であるかのように思われているようであります。

 この尊いお念仏を熱心に、こんなに称えているのがなぜ悪いのでしょうか、とかえって不審に思う者がありますが、人間のつまづきには不真面目な者の上にも、真面目な者の上にもある。畳の上でさえ、つまづくことがあるのであります。修道上のつまづき、これは道の正しい者と言うことはできません。

 第二に縁覚。これは天才的な知識階級の者で、仏の教えでなくとも、自分で天地の道を知るというような、自己体験の世界。これはつまり、独断の世界で全てを小さい自分の考えで支配しようとする者であります。

 以上の利己と独断は自分を亡ぼす、恐ろしい道であります。龍樹(紀元二世紀頃、南インドの高僧)は「地獄に堕ちるとも、声聞や縁覚にはなるな。」と言われました。それは声聞や縁覚になることは永久の生命を亡ぼすものであるからであります。何故なら、地獄に堕ちたものには恐ろしいということが分かり、自分の足らぬことを知る機会があるから、まだ浮かぶ時があるが、この声聞・縁覚の利己と独断の二乗地に入ると、永劫、真に進展の道が絶えるから、これは全く精神的な恐ろしい死であります。

(②へ続く)

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 吉田町福泉坊 坊守です。
    梅原先生のお話を探していて辿り着きました。
    貴重な資料を公開していただきありがとうございます。

    県北に来られることがございましたら、是非お立ち寄りください。

    今私が聞くべきことを聞かせていただき、時空を越えた慈しみに感謝するばかりです。

    ありがとうございました。

    • このたびは、復刻「淨寶」の記事をお読み下さり、誠に有り難うございました。
      コメントを拝読させて頂きまして、梅原眞隆和上のご教化が今もなお息づいていることに感銘を受けました。
      復刻「淨寶」の記事は長らく更新を怠っておりましたが、これを励みに再開(ぼちぼちと)させて頂こうと思います。
      温かいお言葉、痛み入ります。
      福泉坊様に寄せて頂く機会を楽しみにお待ち申し上げます。

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