大無量寿経について(5)ー臼杵祖山ー

【淨寶 1928(昭和3)年4月1日発行分】

大無量寿経について(5)ー臼杵祖山ー

 

此に於いて大経一部の前後を対照して見るに、前には仏が衆生を合掌恭敬して仏が子となりて衆生を親として愛敬され、後には衆生が仏合掌恭敬して衆生が子となりて仏を親として念思される。即ち前の序分には、仏が純孝の子にして全く恒順衆生、また犢子大悲牛である。仏が衆生を合掌恭敬することが、これが道という道の総ての根本である。ものはよく両方面から味わわねばならぬ。たとえば孝行という道は、子が親に事るの道であって、それは親が子に向かって強いる道ではない。親は即ち不請の友となり、子に強いるのではなく子のために純真に尽くして行くことである。そこで親としての道は子に化ることである。この親が子を道とした反響が忽ちに子が親に尽くす道と化るのである。もしあやまって親が子に向かって強いる時は必ずや親に背く子が生まれるのである。ここにおいて今大経の「純孝の子の父母を愛敬する如し」とあるもの、これ子に強いざるもの、即ち子を理解し尊重して、親が親としての無理解な権威を振り立てざるもの、それは全く子に化りたる態度である。この理解ある慈愛と尊敬とに撫育教養されたる子にしてはじめて子としての道を踏み行い得られるのである。この意味が後に「仏のたまわく、我れ汝等諸天人民を哀愍すること、父母の子を念ふよりもはなはだし」との子としての道がはじめて子自身に実照されるのである。これを約言するなれば、親の道は子になることであり、子の道は親になることであるが如くに、仏の道は衆生になることであり、衆生の道は仏になることである。これを親鸞聖人は「普賢の徳に帰してこそ、穢国にかならず化するなれ」と仰せられたるによれば、世にもてはやされる浄化運動などの無意義なことは、遠くの昔に看破されていることに思い至らねばならぬ。如何ことあるも決して売名的妄運動は最も慎み且つ断じて退けなければならぬことである。これが大経の教育法にして、親鸞聖人が「真実の教とは大無量寿経是なり」と仰せられたのは、全くこの意味であることが尊ばれるのである。日蓮上人が法華経によりて体験された言葉に「凡夫は親なり仏は子なり」との仰せは、今親鸞聖人が「穢国にかならず化するなれ」との仰せと両々相照して、全く古鏡面前に灯火を藉らずと同一味である。親子は元来一体同身である。二筋のものを結びつけたものではない。親のままが子であり、子のありたけが親である。これについて又、涅槃経の文を思い出すのである。

「慈悲随逐すること犢子の如し。如来は即ち是れ衆生の母。慈心は即ち是れ小さき犢子なり。みずから衆苦を受けて衆生を念ず。悲愍の念の時に心悔いす」この経文の意を思うに、犢子となり母親となり、また犢子となるという一連一体であることが信嘗されるのである。仏は犢子となりてどこどこまでもつきまとうて行く。そこに如何に苦悩があろうとも厭はない。これを思うとき私一人がここに生活しているままが、不請の友となり、不請の法がましますのである。全く凡夫になりきって下さる仏の尊い、且つ親しいお心持ちに合掌せずにいられないのである。信仰の前には純真な赤子になれとよくいうのであるが、それももとより尊いことであるが、仏が先ず純真な子となりきって、私につきまとう同化円融される仏のお恵みを味わわねばならぬ。この仏心こそ、私の救われる所以であります。

近頃世間では反動思想ということをよく言います。思うにこれはただ近頃だけでないので、私たちは実は無垢以来、反抗心を以て生命としているものである。仏の本願のお心がどうもはっきりしないなどいうような心持ちを、よく考えてみると、それは全く反抗思想の変形とでも言われよう。助けてやると言われると、ただ何となく心の底に、「なに助けてはもらわぬぞ」というような心が頭を擡げる。「どうもはっきりしませぬ」と、これは優しく上品なようであるが、全く一種反抗思想の、それはまた上品に出て優しくくるだけ、それだけ、済度が難しいのである。斯様な反抗心がどうして起きて来るのであるかということを考えると、それは全く如来の喚び声を「助けてやるぞ」と上から強いてあびせかくる声のように解するからの反動である。弥陀如来はこれらの心理をよく理解して洞察して、決して強いるということなく、よく不請の友となってあることが、この大経の文によって信嘗せられるのである。仏の方から掌を合わせて、どうぞと本願を私衆生に奉られる。そこには反動思想など起こす間隙はない。

-(6)へ続く-

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