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大乗仏教は活動主義なり(6) ―境野黄洋―

【淨寶 1928(昭和3)年1月1日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(6) ―境野黄洋―

 

●「法然聖人と時代の欲求」③

 「あの全盛の平氏が、昨日今日に斯くなろうとは」というのは、すべての人の感じであったでありましょう。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、生者必滅の理を現す、驕れるものは久しからず、終に亡ぶる習いなり」と、『平家』の作者が歌い出したのは、誠に、当時の人々の感じを、能く現したものでありましょう。京都に残されました一門の遺族は、今日は屋島の戦、明日は壇ノ浦と、評判を聞き、一ノ谷では誰それの討死、どこそこでは何某の戦死と、聞くだけでも胸はつぶれ、伝聞の都人士も、陰ながらの涙を絞ったことでありましょう。人世は無常、世相はままならぬが常であると、嘆ぜぬ人もなかったことと思います。法然聖人の念仏教は、この時代に現れたのであります。自らこれ時代に適合したものと見ることが出来るでありましょう。殊に当時の武士は、敵も味方も、敗れたものは、身の不運をかこち、運命の恐ろしさに悶え、勝ったものでも、人を傷つけ、人を殺し、直接讐でも仇でもないものを、武士のやむなき浮き世の掟で殺したという。自省心は非常にその心を苦しめたもので、いわく菩提の念しきりに、心を動かしたものであります。平重盛が、囚われの身となり法然聖人の教えを乞うた時の、聖人の答書には、「御栄華昔も今も異事なき御身也、然れども有為のさかいの悲しきは、いまだ生をかえざるに、かかる憂き目をご覧ずるうえは、穢土はうたてき所ぞと、憂いに思し召し捨て、ふかく弥陀の本願をたのみましまさば、ご往生疑う有るべからず」とあるのであります。戦場で多くの人を殺めた人は勝った後でも、「浮世のしがらみ、已むなき義理で、人の命は絶ったけれども、元来一人として、仇も怨みもない人である、まことに気の毒なことであった。この世は思うにまかせぬ娑婆、死んで死に損、活きたは活き得という筈はない。死んだ後は一連托生、必ずや手をとって、娑婆の昔を笑う時がなくてはならない。」鎌倉の武士は、みんな斯う思ったのであります。そうしてこれは鎌倉の武士ばかりではない。今でも、人世は、実はこんな戦場で、常にお互いに戦い合い、斬り合っているのではありますまいか。罪なきものが虐げられ、善良の人が苛まれているのではありますまいか。これでは、現世の審判は、割り切れない。未来主義はここに根ざしている。人生を深刻に見た人の、否定できないものであります。

●親鸞聖人の逆戻り

 この未来往生説は、法然聖人の滅後において、解釈の相違から、多くの派別を生じています。しかし正念往生は一つであります。長楽寺の隆寛律師という人は、臨終断無明と説いて、臨終に無明を断じ、立派な心になって弥陀の来迎を受けるというのであります。
 九品寺の覚明房長西上人という人は、臨終発定往生と申しまして、臨終の時に、禅定に入ったような心になり、来迎を受けるのだと申しました。これらは異派の説でありまして、大体唯今の心のままで、唯念仏を一心にして、来迎を受けると申すのでありますが、要するに正念往生の解釈なのであります。ところが真宗の親鸞聖人は、この臨終の正念往生に反しまして、臨終往生の説を否定して、平生往生を主張したのであります。往生ということは、臨終の時にきまるものではない、平生の時にきまるのであって、信心を得た時が、往生決定の時であるといい、「死に際」ということを、一切重く見ないという立場を取ったのであります。これが平生業生の説なのであります。これは未来主義の中でも、臨終から平生に逆戻りをして、信心を得た平生の時から、生活上に新生命を与えられるので、本当の生活はここからはじまると言って、現実主義をここに開いているのであります。それでありますから、信心獲得の我々は、お釈迦様のあとに佛になると予定されている、いわゆる補処の弥勒菩薩のようなもので、もう成仏するに決まっているものである菩薩である。信仰の上に生きる、極楽の生活を、この世で営むものであると説いているのでありまして、「有漏の穢身はかわらねど、心は浄土に遊ぶなり」と和讃にあるのはこれであります。「極楽の生活を、この世で営む」これが「補処の菩薩の生活」というのであります。親鸞聖人は斯くの如くして、臨終から平生に引き戻し、逆戻りをして、未来教の中に、現実主義の教義を開いているのであります。

 

ー(了)ー

大乗仏教は活動主義なり(5) ―境野黄洋―

【淨寶 1928(昭和3)年1月1日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(5) ―境野黄洋―

 

●「法然聖人と時代の欲求」②

 平清盛は、保元の乱の功により、安芸守より転じて播磨守となり、更に太宰第貳に移り、平治の戦功があったので、弟の経盛は、伊賀守、頼盛は尾張守、敦盛は越中守、子の重盛は伊予守、宗盛は遠江守、基盛は左衛門佐に在ぜられ、清盛は、翌永暦元年九月に、正三位参議に昇進している。平氏一門の発展は、この時より漸く著しきを致すようになったので、同二年には、清盛右衛門督、検非違使別当、権中納言となり、それより四年目の長覚三年に権大納言となり、翌年六条天皇の仁安元年に内大臣に任ぜられ、同二年二月には、左右大臣を経ず一足飛びに従一位で、太政大臣となった。九条信長一人の外、先蹤なき特例となりと言われている。最もその五月に太政大臣は辞したが、八月には、播州印南野肥前杵島群、肥后八代郡南郷、上比郷を大功田として、子孫に伝えしむとある。平治の乱から僅かに八年の間に、清盛の累進は終に官位大臣の栄を極むるに至ったのである。そうして平治の公達中では、長子重盛は、正二位内大臣で左近衛大将を兼ね、同時に次子宗盛は従二位権中納言で右近衛大将を兼ね、三子知盛は、従三位左近衛中将である。嫡孫維盛は、正四位左近衛少将である。頼盛は正三位権中納言右兵衛督で、敦盛は正三位参議に、丹波権守を兼ね、経盛は非参議で、正三位の位であった。清盛の妻時子の兄弟平時忠は、この時従二位権中納言である。家内の繁昌、子孫の栄華、類もなく、例もなし「凡そ一門の卿相異客、諸国の受領、衛府、諸司、総じて六十余人なり、百官既に半に過ぎたり、世には又人なしと見えたり」と『盛衰記』の作者が驚いているのは最もな訳である。同じ書に、「太政入道の小舅に、平大納言時忠卿の、常の言に、この一門にあらぬものは、男も女も尼法師も、人非人とぞ申されける。かりければ、如何なる人も、相構へて、その一門、そのゆかりに、結ばれんとしける」とあるのは、以て常時の平氏の勢力の如何に盛んであったかを想像せしむるに足るのである。

 常時の公卿が、大納言の缺に補し、一代に一度は、大納言になりたいと神に祈り、仏に祈って競争をし、命がけで争ったことを思い、殊に近衛の将官を兼ねる公卿というものは、文武兼官で、非常な勢いであったのに、これら重要な位置は、皆平氏が独占し、重盛が、左近衛大将、宗盛が右近衛大将、知盛が左近衛中将、維盛が左近衛少将というのを見ても、平氏の勢いは推し測られるわけであります。これほどまでの全盛の平家は、その当時の人から見て、とても容易にその勢力が失墜しようなどとは、誰が想像いたしましょう。平氏の全盛は万代不易と見え、一門一家の公卿公達は、夢のような栄華歓楽に、身を浸して、人の世の苦ありとも知らなかったのでありましょう。この平氏が清盛が太政大臣になってから、僅か十八年にして、壇ノ浦の戦いとなり、火の消えたように、暗黒に失せたのであります。当時の人々は世相の変遷の甚だしき、人の世のはかなさを、眼の前に、まざまざと見せつけられたのでありました。

 

ー(6)へ続くー

大乗仏教は活動主義なり(4) ―境野黄洋―

【淨寶 1928(昭和3)年1月1日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(4) ―境野黄洋―

 

●「日本仏教の特色』

 特に私がここに申し添えておきたいのは、大乗仏教という中でも、「殊に活動主義の仏教は、日本仏教の特色である」ということであります。日本人は、元来現実主義の国民であります。それでありますから、仏教が初めて日本に入ってまいりました時には、この現実主義の幼稚な思想と結合し、これに迎えられて、一種の迷信的な祈祷仏教が、非常にその色彩を顕著にしたわけであります。しかるに鎌倉時代になって、新しい仏教の機運が開けて、いわく禅宗、真宗、日蓮宗といったような、新仏教が成立するようになって参りますというと、昔時とは違う、いわく幼稚な現実主義とは違いますけれども、とにかく日本人の国民性とも申しますか、この傾向が著しくこの新仏教の上に反映してきて、活動主義ということが、どの宗派にも明らかに顕れてきているのであります。真宗の如きはいうまでもなく、浄土往生の教でありますから、純然たる未来主義であるべきはずでありますが、それでさえうまく現実主義に逆戻りしているのであります。

 何故かというと、一般浄土教では、皆、未来往生でありますから、「死んだ後の救済」ということを、大変やかましく申しまして、したがって、死ぬ時に心を取り乱してはいかん、臨終正念して、阿弥陀仏の来迎を受け、極楽からお迎いにお出で下さる仏様や、聖衆方に伴われて、極楽に行くのだと申したのであります。しかし、親鸞聖人は、これを逆に戻しまして、臨終正念ではない、平生の一念であると申したのであります。

●「法然聖人と時代の欲求」①

  法然聖人が、初めて一宗として、この浄土念仏教をお立てになりましたにつきましては、当時の世相が最も主要なる原因をなしていると思うのでありますが、それが、結局臨終正念往生という一つのところに帰してしまったのであります。法然聖人の時代は、平安朝末から鎌倉時代に遷る過渡期でございました。平安朝初期から政権を一門に握って、その全盛を誇って参りました藤原氏の勢力も、漸く末になりまして、武門のやからが段々とその頭を掲げ、鎌倉の武家政治に移る橋渡しのかたちで、平氏一門の横暴時代が現れたのであります。平氏の隆昌は殆ど花火のように瞬間的で、しかし非常に華やかでありました。清盛が、保元、平治の乱以来、トントン拍子で進んで参りまして、わずかに太宰大貳という、九州の地方官であった清盛が、平治の乱の翌年、朝廷に、いわば入閣して参議となり、それから八年の間に、終に太政大臣とまでなって、一門の繁栄、その極に達したのであります。私の書きました、日本歴史の一節を参考にここに引きます。

 

―(5)へ続く―

大乗仏教は活動主義なり(3) ―境野黄洋―

【淨寶 1927(昭和2)年12月10日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(3) ―境野黄洋―

 

●「各宗祖師の生活」

 独りお釈迦様ばかりではない、各宗の祖師、どなたの事績を調べましても一人として活動主義の体験者でない人はないと言っても差支えないのであります。浄土宗の法然聖人は、釈尊と同年八十歳で亡くなられたのでありますが、七十五歳にして流罪の難に遭い、本当は土佐に赴くはずでありましたが、関白九条兼実の計らいにより、伊予に行かれまして、ここに一年ほどおられました。伊予には今もその遺跡があるのでありますが、「この恩命によらなかったならば、何によりて辺鄙の群類を化せん」と言って、京洛を出られたことでありますから、この辺の人は、必ず大なる感化を受けたことでありましょう。それから赦免になって、四国から帰られましたが、やはり入洛は許されません。洛外にあって、教を説かれまして、漸く京都に入ることを許されたのが、七十九歳の時でありまして、その翌年に大谷の坊舎、即ち今の知恩院において御入寂になったのであります。八十歳まで絶えず働かれました事実が偲ばれるのであります。親鸞聖人は越後国府流罪から免されて、更に関東布教に志し、それから六十一の時に関東から京都に向かい、段々諸所を巡教をしながら、漸く六十三の二年目に京都に着し、これから九十まで京都に二十余年間、居られたわけでありますが、しかしどういう生活でありましたか、詳しいことは分かりませんけれども、兎に角、手に筆をとって盛んにその著述に従い、後の世までも永久にその真偽を遺すべく努力されたもののようであります。「文類聚鈔」の制作は八十の時であります。「愚禿鈔」の草稿が出来る八十三には「尊号真像銘文」がで出来、なおこれらの書を次々と修正したり清書をしたりして、八十六歳の時に「正像末和讃」の再治清書が終わったとあります。随分の老齢ではありますが、なかなかの精力であったことも察せられるのであります。それから以後には、著述のことは見えませんけれども、絶えず関東から来る弟子共を相手に、種々法門に関する話をして、これを門流のものに伝えさせたものの様であります。聖人九十歳の生涯は、非常に努力の一生であったのであります。蓮如上人は、八十五歳で終わりを告げられたのでありますが、一所不在を標榜し、一定の住所もなく、叡山の迫害から逃れて、北陸道から畿内摂河泉を経徊し、一旦廃れて殆ど認められなくなった親鸞聖人一流の教を再興し、今日の真宗あるを致さしめたのは、一に蓮如上人の力であったことは人の知るところであります。「御一代聞書」の「さいさい御兄弟衆に、御足を御見せ候」とある一段を見ただけでも、上人の奮闘のことは想像されるのであります。上人は兄弟を集めてこれを訓戒するに、何時も自分の足をお見せになったというのであります。その足を見ると、草鞋の緒の足に喰い入った跡が痛めしく残っていたというのであります。「御わらじの緒、くひ入り、きらりと御入り候」とある。「私は、斯うして京となく、田舎となく、辛苦労苦を嘗めて、兎に角聖人一流の教を興したものぞ」と言って、教誡せられたと言うのであります。上人が本願寺の後を承け継いでより八十五歳まで、その悲しい、苦しい、試練と忍従の下に、その目的を達し得た勇ましさの如きは、今は、一々申し上げる暇のないことは遺憾とするのであります。

 「大乗仏教は活動主義なり」と申すことは、その慈悲主義に一致する当然の帰結ではありますが、ここでは歴史的事実を挙げて、これをお話する一つの例とし、ご了解に便した次第であります。

 ―(了)―

大乗仏教は活動主義なり(2) -境野黄洋-

【淨寶 1927(昭和2)年12月10日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(2) ―境野黄洋―

 

●「釈迦如来の生涯」

 私は何時でも、仏教は果たして活動主義であるかないか、これを教祖大聖釈尊の生活に見るがよい、これが何よりの証拠だということを申すのであります。お釈迦様の生涯は、三十成道と申しまして、その道を得られましたのが、三十才というのでありますが―もっとも、これには歴史上多少の異論もありますが、そんなことはどうでもよろしい―とにかく、先ず三十として、これから八十才入滅まで、凡そ五十年間というものは、実に東奔西走と申しますか、中天竺の各地を、旅から旅の生活であったのであります。そうして最後の旅に於いては、途中ご病気にお罹りになりまして、非常な苦痛であったにもかかわらず、病をおして至るところ法を説かれ、とうとう鳩尸那城外の町までお出になりました時は、全く病に疲れて、お歩きになることは出来なくなり、終に鳩尸那城外の林の中で身を横たえられたのであります。この林は、沙羅という樹の林であったので、沙羅林と申します。ここに寝てしまわれました時に、そのお身体の両側の樹が両方から枝を交えて、自ら屋根を造って覆い奉ったのですが、それは伝説が段々神秘化して後に起こったものでありましょう。お弟子が悲痛に沈んで前後を囲む。多くの見舞いの人が集まる。伝説では、あらゆる動物が集まったと申しますが、この偉人の死は、天地を感動したという譬喩的伝説でありましょう。その時、この沙羅林の樹までがその色を失って白く、殆ど鶴の羽の如く白けてしまった。鶴林などと申すのは、これから起こったと申しますが、しかしこれは間違いでありまして、「大涅槃経」によると、釈尊の前後を飾るべく、この沙羅林が銀世界の如く変じたのが、その皎潔、神々しさは極楽を現じたというので、これを「なお白鶴の如し」といったのであります。白けてしまって、色を失った悲惨の形容としたのは、後の「涅槃荼毘分」という、偽経の説なのでありますが、それが却って一般に伝ってしまったのであります。これもただ一つの形容でありますから、どうでもよいのでありますが、兎に角、釈尊のご病気というので、この沙羅林は、一大悲哀の光景を現じたことは申すまでもないことでありました。それとは知らずに当時、鳩尸那に居りまして、須跋陀羅という老人がある。求道の念の高かった人であると見えまして、釈尊のここにお出になったということを聞き、特に教えを受けんがため、この林を訪ねて参ったのであります。ところがお弟子の阿難は、「今や世尊は大患におかかりである。ご入滅も近いと危ぶまれる。とてもお前にお話しは出来ない。」というような挨拶を致して居られると、釈尊は寝ながらこれをお聞きになりまして、特に枕頭にお呼びになり、須跋陀羅のために道をお説きになる。これが広く読まれております「遺教経」の中に「釈迦牟尼仏、はじめに法輪を転じて、阿若僑陳如を対し給い、終わりの説法に、須跋陀羅を対し給う。対すべきところのものは、皆既に対し終わって、沙羅双樹の間において、まさに涅槃に入り給わんとす。この時、中夜寂然として聲なし。」とある一段であります。釈尊悟後の最初の弟子、初転法輪で救済のお弟子が阿若僑陳如という人であり、最後のお弟子がこの須跋陀羅であったと申すのであります。「中夜寂然として聲なし。」とありますから、いずれ林閑とした四隣閴寂、バサとの音もない最夜中でありましたろう。既に須跋陀羅に対する説法も終わりまして、愈々多くのお弟子達に対し、最後の説法、言わば、御遺言がはじまったわけであります。この説法が、後の「大般涅槃経」というものになったのであります。この最後、御遺言の説法の要点は、どういうところにあるかと申すならば、大体先ずこうであります。「自分はもう八十という老体になった。この世の因縁が尽きて死ぬるということは、やむを得ないことである。車の輪が壊れた、もう運転が出来なくなったのである。凡そ人の世は、生あるものは必ず死し、遇うものは必ず離る。これは人間の常、今更驚くべきことはない。汝ら悲しむことなかれ。」と、こう仰いまして、それから、「第一に(弟子たちに)尋ねたいことは、我が今日まで説いてきたところの、この道において、或いは疑いの存するところはないか?凡そこの道を得る者は、永久に我を見るものである。我がこの身体がよし死んでも、我が説ける道は永久に存する。道の存するところに、我は永久に生きているのである。」―「若曹 但當案経戒奉行之 我亦在此僧中」と、「泥洹経」には出ております。「遺教経」の中には、一層適切に、「如来の法身は、常に在して滅せざるなり。」と言うているのであります。「我は死なんぞ」と、力強く遺されました。このお言葉は、後の大乗仏教にとっては非常な大事な問題となり、「法華経」では「常在霊鷲山」で、仏は霊鷲山に常住して死し給わずといい、「涅槃経」では、佛の法身は常住にして不滅であるといい、仏身常住不滅の信仰となって、大乗仏教徒の根本理論の立場を築きあげているものであります。如何にこの最後の一言が、遺弟等にとって感銘深いものであったかを知ることが出来るのであります。仏はまた「もう疑いはないが、死んだ後に、疑があったというような後悔をするな。」、「遺教経」には「佛斯くの如くとなえ給うこと三度に及ぶ。」とあります。そこでお傍におった阿莵楼陀尊者が進み出まして、「世尊、月は熱かしむべく、日は冷かならしむべくとも、佛の説き給える四諦は異ならしむべからず。」、あなたのお説きになりました、四諦の真理については、疑のところがございません。疑なきが故に問い奉らないのでございます。」と申し上げたのでありますが、やがてこれを最期として、大聖釈尊はこの世の影を隠し給うたのであります。何と尊い生涯でありましょう。八十の高齢になるまで、旅から旅と、道を説き、いわゆる一所不定の形で、一定の住所もない。そうして、歩き詰めに歩いて、最後に歩けなくなって、鳩尸那の沙羅樹林中に仆れ、最後まで循々として道を説いて止まない。そのはたらきは目覚ましいものであります。この大聖釈尊を教祖として有する大乗仏教が、独り理屈の上からばかりではない、この歴史的事実に顧みても、何として非活動的な宗教などと言われ得るでありましょう。

 

―(3)へ続く―

大乗仏教は活動主義なり(1) -境野黄洋-

【淨寶 1927(昭和2)年12月10日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(1) -境野黄洋-

 

 どうも、仏教というものは、どういうわけか、日本では、古くから非活動的なもの、隠居仕事のように考えられて来たので、今以てそういう習慣が残っているばかりではなく、識者の間にさえ、往々そういう考えがあるのであります。私たちが仏教のお話をすると申しましても、恐らく「何かお寺で、お説教があるというから、婆さんお前は用がないで、行って聞かっしゃい」なんていう家も、少なくあるまいと思うのであります。「用がないから行って聞かっしゃい」、用のないものの道楽に、仏教は聞くものであるということになるのであります。お釈迦様は、迦毘羅の王宮にお生まれになり、どうも安楽な、勝手な生活の出来るお方であるのに、その王宮を捨て、妻子までも捨てて、そうして命がけでお聞きになりました。この仏教、しかも世界の大偉人が、命をまとにしてお聞きになりました。爺さんや婆さんの、道楽仕事に聞かれては、たまるものではないのであります。

 

●「一面は寂静」

 大乗仏教は精神主義である。精神主義であるならば「心あるものは皆救われる」のであるから、当然、平等主義であるべきはずである。既に平等主義である以上、誰彼の差別はない。同じ様に解脱の域に進み、同じ様に救済されなければならない。そこに無縁の慈悲が行われる。慈悲のはたらきの根源は、無我の道である―という順序になるわけであります。さてこの慈悲主義と無我主義との必然の結論は、どうしても活動主義ということになるのでありましょう。無我の力の上に活きる、その力の発動は、必ず道に合して、利他的には、慈悲行となって顕れるはずであるからです。それがどうして、従来の様に、仏教は退隠的なもの、静止的なものとなったのでありましょう。それにはまた、それぞれの理由がないわけではない。仏教には非常に静かなしめやかな思想が伴っていることは事実です。お寺の本堂に行ってご覧になりましても、本尊様は、非常に静かな態度で、眼を半眼に開いて、ジーッと坐っていられる。いわく「八風吹けども動ぜず」といった形であります。「精神の安静」、これ宗教にとって、我々の魂に休息を与えるところで、最も必要な要素の一つなのであります。悲哀とか靜寂とか、安静とかいう感じの仏教にあるというところに、私共は、大いなる共鳴を感ずるのでありまして、そのことは前のところでも既にお話いたしたことであります。しかしその方面は、つまり仏教の一面でありまして、仏教は全部悲観的なもの、安静寂静を旨とするもの、やがては退隠的なもの、非活動的なものというわけではないのであります。佛の寂然と坐って居られます、その寂静の坐には、大いなる活動の発する潜勢の力を蓄えているのであります。「無我の力」を湛えている佛の精神が、慈悲の活動となって、顕発せずにはいられないはずであります。もう一つは、日本では兎角、社会の敗残者、つまり世の荒波にゆられて、その動揺に堪えなかった人々、社会の競争に打ち負けたという人々が、仏教の中に逃げ込んできて、いわく安静の休息を求めることが、一般の習いとなり、お終いには、仏教というものは、それが仏教自身の本来の面目でもあるかの様になってしまって、隠遁者の避難所になってしまった形がるのであります。坊さんと言えば世捨て人と言われ、まるで情というもののなくなった、枯木の如きを理想として、「人には木のはしの様に思わる」などなど、清少納言にも言われるようになったわけであります。しかし、これも仏教の一面の話でありまして、仏教が日本に参りました最初の時代の如き、かの聖徳太子の仏教の如きは、決してそんなものではなかったのであります。

 太子は仏教の魂をもって、政治も軍事も、一切の活動を為されたことは、恐るべきほどのことでございました。仏教には静止の方面と、活動の方面とあるのでありますが、いつの間にか、活動主義は全く失われてしまったという形になってしまったわけであります。

 それに念仏教の流行につれまして、「後生を願う」ということが、非常に一般に盛んになりました為に、「この世はどうでもよい、死んだら極楽に参る」という考えが、なかなか広く行われるようになり、「後生願い」は老後の仕事、それまでは世間で働く、働いて後、後生に取り掛かるといったような、一般の考えが段々盛んになった傾きもあるのであります。これも非常な間違いでありまして、浄土念仏門の教えといえども、決して現在生活を無視して、それはどうでもよい、「仏教は後生一つ」とそんなことを教えるはずはないのであります。殊に真宗などでは、平生業生と申しまして、往生の後生願いは、平生の時に決まる。すなわち信仰を得た時に決まるので、信仰を得た後は、信仰生活に入る。その信仰生活、すなわち感謝の生活であると言って、現在生活の力を、「信仰的感謝」というものの上に、築こうとする努力を説くのであります。

 

―(2)へ続く―

必然と偶然(2)―境野黄洋―

【淨寶 1927(昭和2)年10月10日発行分】

「必然と偶然」(2)―境野黄洋―

 人は与えられた運命以上にも、また以下にも行けるものではないのです。故に人は、努力の最後に逢着(ほうちゃく)した、どうすることも出来ぬというハメに行ったら、そこは、喜怒哀楽を離れた安住がなくてはならない。エライ位置に進んだ、オレは大臣となったとか、ヤレ一躍幾百万の富を得たとかいうと、どうもすると、オレはエライと思う。それは俗人の人情でありますが、しかし、それは自己誤解です。エライから大臣になれるのでも、富豪になれるのでもない。それは与えられた運命にぶつかった人のことです。自分で自分を買い被ってはいけない。これと同様に悲境に陥っても、生涯浮かぶ瀬がなくとも、それは自分がつまらないからではない。どんなにエライ人でも、与えられない運命は、つかむことが出来るものではない。この道理を悟れば、運命に安んずるものには、悲喜の拘束はない。安住地に立てば、首を斬られても、笑っているだけの別個の境地があるはずです。

 しかし、この運命という言葉は、あまり天地の理法を無視した言葉です。何となれば、宇宙間には、どんな大なる現象にも、どんな小さな事実にも、偶然ということは絶対にない。運命という言葉は、偶然ということを露骨に表明している者です。偶然ではない、我々の自由意志の予期を超越しているが、必然です。因果必然です。さらば私共が貧乏人のわらの上に生まれたり、錦の上に呱々(ここ)の声を放ったりするこの運命は、どんな必然の理由に基づくのでしょう。生まれる時ばかりのことではない、我々の生涯には、こういう類いの必然の絆が、生涯に絡みついて、我々の五十年の一生を左右してます。何の理由があるのでしょう。こう考えた時に私は何の理由だかは知りません。例えば、どんなわけがあって、甲は貧乏人のコモの上に生まれ、乙は富豪の錦の褥(しとね)の上に生まれましたか、それは私には分からないが、何かそう生まれて来なければならない理由があり、原因があったのでしょうとだけは、明に言い得ると思います。即ち原因があってこの結果を見たので、決して偶然ではない。これを運命と言ったのでは物足りない、因縁だと申すのです。因縁というのは、過去の原因に基づき、この原因をして結果を成熟せしむる四囲の事情ということです。この因縁だということは、昔から言う前世の約束事ということではありませんか。前世なんというものが果たしてあるだろうか、そんなことが誰にわかるものですか。何か証拠らしいものでもあるか?あるものですか。しかしそう考えるより考え様がないではありますまいか。私はこうして、運命を信じ、いや因縁を信じ、因果の法則が我々を支配しているということを信じております。

 仏教では、この因果の法則が人間の上に行われていることについて、順現業、順次業、順後業ということを申しております。この世で為した行為に対し、この世で報いられ、結果の現れるのが順現業です。これは誠に明瞭なことで、我々は、現にこういう事実をいくらも見ているのでありますから、ここに多くを言う必要はない。しかしこの世の行為総てが、必ずしも皆この世で報いられていないことも、現見の事実であります。故にこの結果は、必ず次ぎの世以降に報いられなければならないというので、順次業と順後業ということが言われているのです。順次業は、この世終わって次の世で報いられることで、順後業は、次の世を終わり、その次の世以降の世に報いられるということです。しかし、これも前の世と同じことで、次の世というものがあるか無いか、そんなことは誰にも分からず、何の証明があるものでもない。ただ因果必然の理法が人間を支配しているならば、即ち今日我々が説明の出来ない、予期の出来ない、多くの運命に遭遇している、この運命なるものが、必然の因縁であるならば、現世と後世にもこの因縁関係、即ち因縁の連絡があるべきであるという推論に基づく説明に過ぎないのであります。

 最後に一言注意までに付け加えておきますが、仏教でかくの如く三世因果の理を説くのは、世界の存在、人世の存在を説明する、当然の理を述べているので、必ずしもこれによって、勧善懲悪の意のみと解してはならないのです。もし勧善懲悪の意味があるとすれば、それはほんの付け足しの方便の意味で、この三世因果論の根本の意義ではありません。なぜかと言うに、人の道徳上の行為は、そんな結果を望んで、功利的な意味で行うべきものではない。道徳は取引関係とは違います。仏教の道徳観は、そんな功利的道徳説ではないからであります。世間には往々ここに、古い迷信的伝説による誤謬(ごびゅう)と誤解がありますから、ちょっとこれを弁明しておく必要があると思います。
                    

                        (了)

必然と偶然(1)―境野黄洋―

【淨寶 1927(昭和2)年10月10日発行分】

「必然と偶然」(1)―境野黄洋―

前世の約束など言うことを申したならば、今の新時代の教育を受けた人々は、随分古めかしいことを持ち出したと思わるるでありましょう。何だか、古い講談本にでも出てきそうなことで、今の世に、こんなことを持ち出すものがあろうとは想像も出来ないほど、時代離れのした題目だと思われるに相違ない。ところが私は、それを極めて真面目に、極めて厳粛に、この新時代に提出しようというのです。

 人は自由を持っている。意志の自由を持っている。この意志の自由により、我々は各自の判断力により、自分自分の生活の針路を自由に選択し、決定し、そうして生きているのです。我々の世界は、即ち自由の世界です。しかしながらまた一方から考えて見ると、この自由の世界の半面には、必然の世界があります。この必然の世界は、我々の自由意志ではどうすることも出来ない世界で、ただ自分の自由をそのまま乗せて、この必然の世界に服従しなくてはなりません。例えば、私が今東京から広島に参ると決定して、東京駅に出る、そうして午後八時なら、午後八時の汽車に乗り込むと致します。その広島に行くときめたことも、東京駅から出かけるとしたことも、午後八時と定めたことも、皆私の判断力で、私の自由意志で決めたことでありますから、広島へ着いた時は、私は私の考えで来たことと思っています。これは私の自由の世界の出来事です。けれども更に翻って考えてみると、広島に来ると決心したのは、来なければならないわけが起こったためで、私の意志をそうしたのは、他に私をそうさせる事情があったからです。東京駅に出たのも、まさか中央線や中仙道線を通る必要がなかったからで、他の線路によるよりも、東海道線に乗り込むべく、必然の理由によったのです。時間もこれと同様で、自由意思の選択は、いつでも必然の事情と境遇によって支配されていることを発見いたします。そうして広島に着いたということは、私の自由意志で来たのではない、イヤでも来なければならない必然性に押されて、来させられたのだということを自覚致します。即ちそこに必然の世界があるので、自由の世界のそのままが必然の世界なのであります。

 植物や鉱物には思惟がありませんから、彼らの世界は単なる必然の世界です。動物には、低級の思惟がありますから、ここには狭い自由の世界が発現しています。しかし、その自由はなお極めて低度のもので、寧ろ必然性が多くのその生活を支配しています。人に至っては、その自由が特に顕著になっているのでありますが、しかし人も他の動物や、植物及び無機世界と同じ様に、宇宙全体の一部としては、宇宙自然界の法則による必然の運命の下に存在しているものなのでありますから、我々を動かしている大いなる力は、矢張り必然ということであります。この必然を自由の世界に立って眺めました時に、これを偶然というのであります。

 必然を偶然と言うと言うのは、全く反対のことでわけのわからぬことの様でありますが、しかし自由の世界には予期があります。自由の世界には、自己の意志による選択と、この選択の結果、どうなるかという予期がありますが、必然の世界には、必ずしも予期がありません。何となれば、必然の世界のことは、自然の力に支配されるもので、我々の自由意志には関係がないのでありますから、予期することが出来ないことがあるのです。たとえば大地震が起こるというようなことは、科学的に必然の現象でありますが、我々の自由意志とは関係ないのでありますから、これを予期することが出来ません。故に、この大地震によって善人も悪人も一斉にひとゆすりで皆破滅してしまいました時に、人皆偶然こんな目に遭ってしまったと申します。この偶然の出来事を名付けて運命と申します。故に必然の世界があるということは、人間の力では、どうすることも出来ない運命の世界があるということと同一であります。

 人は皆自己の自由によって生きていると思っておりますが、実は運命によって支配されて生きているものです。生まれながらにして貧しい家の子として生まれ、わらやこもの中に産声を揚げるものもありますが、反対にオギャアと世に現れた第一声が、綿布や錦繍の上に挙げられる人もあるのでありましょう。それがどちらが幸福かは別問題です。貧しい家の人として生まれたのが幸福となる人もあるでしょうし、富豪の家庭に生まれたことが、却ってその人の不幸の種になる場合もありましょうから、それは別問題として、兎に角かかる産まれ場所が、自分の自由意志にはよらない、純然たる運命の下に置かれているということ、既にその一生涯が、この必然の世界より、その第一歩を踏み出しているということではないでありましょうか。そうです。人はこの世に生まれ落ちた時から、既に運命の力の下にその生涯を托しているものなのです。

 運命は総てを支配している。そう申しますと、それでは努力しても甲斐がない、手を束ねて運命の到来を待つ他ない、「運命は寝て待て」だと思う人があるかも知れない。しかしそれは大なる誤解です。与えられたる運命は、人の予期を超越しています。必然の世界には、自由意志の予期はない。自分に与えられた運命を、誰が予期することが出来ましょう。自由意志によって選択され、これに向かって進んで行くのが努力です。この自由の世界の努力が、やがて自己の運命を発見する第一の道なんです。努力して行く中に、終には行くところまで行くということです。行くところまで行く、そこが運命です。どんなに働いても、どんなに善行を積んでも、どんなに立派な人でも、一切の予期を裏切って、ひとゆりの地震で死んでしまった時、誰がこれだけの運命なんだと思わない人がありましょう。この世界に踏み込んだらそれまで、それ以上は我々の自由意志の如何ともすることの出来ない世界です。さりとて予期の出来ないこの運命を、あてなしに待って、「運は天にあり、牡丹餅(ぼたもち)棚にあり」と、口をあいて待っている者が何処にありましょう。努力は、蔵されている運命を、盲目的に探っていく唯一の手段であり、この手段が自由意志の生活であり、それが人間の生活であり、人生であります。 

                    ―「必然と偶然」(2)へ続く―