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仏道へ入るの第一歩  -大内義直-

【淨寶 1927(昭和2)年11月15日発行分】

仏道へ入るの第一歩  -大内義直-

 

 釈尊の求道の煩悶、その心的の経過をたずねるといっても、決して釈迦如来の古めかしい伝記をここに書き連ねんとするのではない。仏陀は実に正道獲得の事実を自ら体現し、吾人求道者に模範を示し給うことの一端をここに語らんとするのである。

 「太子老病人を見て世の苦悩を知り、死者を見て世情滅し、沙門を見るに及び廓然大悟し、賓車を降りて出家の途に上れる時、歩々轉た縛著に遠かれり、是真の出家、是真の遠離なり」と、長阿含経に出ているように、太子は四門出遊によって、生来憂鬱の情はますます深く憂愁の念を抱かしめる人にいったのである。

 太子の父浄飯王は、その太子の世を逃れんとする志の、日に日に切なるを見て、如何にしても、この一子の考えを翻し、その尊い祖宗の位を、この太子に継がしめんと苦心し、迦毘羅園の国民も、またこの聡明なる太子が、老い給える父王の心を安んじ、国民の興望に随い、速やかに離俗脱塵の念を棄てんことを希望した。それがため当時美人の噂高かりしヤシュダラを迎えて太子の妃とせられ、三時殿は新たに築造せられ、諸ゆる快楽の具は整えられ、日となく夜となく、花の如き幾百の宮女は、前後を擁して、歌舞歓笑に太子の心を浮き立てんと勉め、肉に酒に媚従の臣僚、ひたすら太子の一笑を買わんとあせれども、首をたれて長大息する太子は、この騒然たる観声笑語の間にあって毫も人生の真摯なる問題に心を悩ますことを止めない斯くの如き一切の物質的快楽は、太子にとっては、ただ耳を掠むる一陣の風の音、暫時の幻に似たるものであった。

 またある時、宮内に釋種に属する一婦人ありしが、太子を見て恋慕の心を生じ、歌うて曰く、「かかる子を得たる父母の身は楽しきかな。かかる郎君にかしつかん婦女の身は楽しきかな」と。太子は更に耳を傾けることなく、寧ろこの「楽し」の語をもって「涅槃」の義に解し、自分を励まして向上の一路に進ましめるものであると思い、甚だ感奮するところがあったという。かくの如く太子には恋慕せる一婦人の歌が、かえってその出家の意をかたからしめたことは仏伝によって明らかである。

 如何に小なりといえども一国の王位、その王位を継ぐべき太子として、金殿玉楼に無上の快楽を極めた生活をしている。これを物質的生活の外に、何物をも見ない人の眼から見たならば、これほど羨ましい生活は恐らくあるまい。

 しかし、道を求める念の熾なる太子の心よりこれを見れば、世にこれ程の苦痛はまたとあるだろうか。「観無量寿経」の中に、金鎖をもって縛られるということが出ているが、この語をここに借りて言うならば、王侯貴人の生活は金鎖をもって縛せられているとでも言うのであろうか。金鎖で縛られても、鐵の鎖で縛られても、縛られているに二つはない。王侯貴人の快楽は如何に快楽でも、その物質的牢獄に繋がれて、精神の自由を得ないことは、日夜営々として、漸く口を糊しておって、その他を顧みるにいとまなきものと何の違ったところがあろう。太子はかくの如き境遇を、一日も速やかに逃れんと考え、精神生活を求めるの情はいよいよ切実であった。

 一夜、夜半定まって、四辺閑寂の時、ふと眼をさまして、太子は前後を見廻した。殿内銀燭明滅の下、杯盤狼藉の間に、幾多の妃嬪媵嬙は、縦横に横たわっている。書間媚を献じ、笑を呈した、粉黛紅脂の美人も、その泡を吹き、歯を鳴らし、涕唾交も流るる醜態を見ては、太子は実に悚然たらざるを得なかった。世には偽れるものが多い。その表面の偽を脱露し来れば、社会の実情はすべてこの類である。太子は決然としてこの夜窃に迦毘羅の王城を出た。

 迦毘羅の王城とは何であるか。この物質的欲望の城壁を繞らした、社会生活そのものである。本来仏であるところの吾人も、この物質的生活の束縛は甚だ緊しがたく、時には真心の中から萠え出で、吾人に反省の念を起こさすことがないでもないが、四面の諸ゆる事情は、なかなかこの境遇を抜け出ることを許さない。かくて本来「天上天下唯我独尊」の響きは声を収め仏陀の自覚も何ら影を認めずということになれば、迷は迷を重ねて、六道を奔るのであるが、一旦真摯な求道の熱情の止むべからざるものあるに及べば、ここに一大煩悶が起こる。仏陀の迦毘羅脱出までの生活は即ち求道の第一歩たる、この煩悶の経過を示したものである。 

―(了)―

家庭本位・信心本位 -大内義直-

【淨寶 1927(昭和2)年11月15日発行分】

家庭本位・信心本位 -大内義直-

 

 親鸞聖人の宗教と言えば、難しいようでありますが、その特徴として、その最も大切なものと言えば、先ず、第一に自力方便主義ということと、在家止住主義ということであります。自力方便主義ということは、他力をもって真実となす信心為本のことで、在家止住主義ということは、家族本位の宗教ということであります。それ故、約(つづ)めて言えば、一つには信心本位、一つには家族本位の二つとなるのであります。

 これはただ親鸞聖人の宗教の特徴のみでなく、遠く教主釈尊を始めとし、我が祖国の教主聖徳太子の宗教をも一貫したもので、その根本の主義が親鸞聖人に至って初めて発達の極度に達したものであると言えるものであります

 インドでは、常時、階級制度が非常に厳重で、四姓の差別は神聖にして犯すべからざるものであったのですが、釈尊は平等主義を称え、この階級的差別を平等にするのが急務であると考えられ、ここに差別を平等にし、社会の平和を維持せんとせられたのであります。

 この考えが日本に入った時は、聖徳太子は、形式を考える暇もなく、ただその根本の仏教の真精神を入れねばならないということに力を込められ、戒律、儀式の末を考えず、外形を捨て、内容をとられたのです。それで、日本において、僧俗平等ということを実現せられ、ご自身は俗にありがながら、三衣を着して法華経の講義をせられ、ご自身には妃も子もあって、摂政として、太子として、国政を料理せられて、政教平等の主義を行われました。それ故、太子が常に尊崇し講説せられ、その義疏(ぎしょ)まで書かれたお経を見ても、その意が表れているのであります。すなわち法華経を以て僧生活の理想を教えられ、勝鬘経(しょうまんきょう)を以て婦人生活の理想を教え、維摩経(ゆいまきょう)を以て、居士生活の理想を教えられた。この三経によって一乗主義の純粋大乗を日本に植えられたもので、太子の人格にあらわれたのは、僧俗平等主義の上に婦人も加えられて、僧俗婦人平等をお唱えになったのであります。これは釈尊の宗教が四民平等であった当時の習慣上、婦人は平等でなかったものに一歩を進められたものでありまして、親鸞聖人の至って更に、それが一段進んで、どれ程僧俗婦人の平等主義は、その極、家族を本位として平等主義を主張せられ、山の宗教を市の宗教とせられ、寺院の宗教、僧侶の宗教を「人間の宗教」とせられたところに親鸞聖人の宗教の徹底があると思うのであります。

 仏教において合掌することは大切な敬礼の一つになっております。十指を合わせて一つとなし、胸辺に立つれば、自ら精神も統一せられ、身心共に端正になることを感じます。しかし少しでも理想の乱れることを感ずる時は、合掌も正しく出来ぬことが往々あります。人間同志がお互いに、なつかしい心持ちで一つになりたいと思いながら、自分の心に毒せられて、中々一つにはなれない悲しさ。懐かしい親子、夫婦の間でさえも中々思うようには一つにはなれません。しかし、親子、夫婦が、本当に本然の姿にたち帰って、お互いに懐かしみ、愛し合う心持ちになって、真実の心を保たせて頂くことは、ただ一つみ仏の前に静かに跪(ひざまず)いた時、不思議に怨み、憎み、恐れる心は散じて、限りなき慈雨に浴し、自ら心の端正になることを覚える。宗教は人間に限りなき心のあたたかさを与う。

 世には愛する自分の愛子のために、金銀財宝を遺さんとして日夜心を砕く者は多い。しかしながら、永遠に滅びざる信仰の実を我が愛子に与えんとする者は少ない。

 この根本の生命としての実を与えることを忘れるならば、折角の金銀財宝は、寧ろ、愛子自らを苦しめる糧となります。

 かく考える時、在俗の生活の中に転法輪(てんぼうりん)の姿を見、家庭を中心として親子睦まじく集い、み仏の前に合掌して道を求めるということが、本当にどれ程、尊いことでありましょう。

 

                                  ―(了)―

求道のとびら(2)-大内義直-

【淨寶 1927(昭和2)年10月10日発行分】

求道のとびら(2) -大内義直-

 真理は中道にある。中道は即ち正道である。

 『涅槃経』の中に、「一切衆生悉有仏性」と説かれている。人は本来仏とは異なったものではない。然るに事績において、吾人は仏と相隔たることが甚だ遠い。まことに吾人と仏との距離の遠さは十万億土を隔つると言ってもよいであろう。「阿弥陀経」にいわゆる、「従是過西方十万億土有世界名曰極楽」と言うのも、吾人と真の仏との相違の甚だしきを言ったものと見ることが出来ないでもあるまい。しかし、『観無量寿経』には極楽をまた、「距此不遠」とも説き、この現に迷える衆生を以てただちに仏の位を相続すべきものとして、『法華経』には、「一切衆生悉是吾子」と説かれている。されば斯く表面相違っている仏と衆生も、本来一なるものであるという自覚が、吾人の心の中にひらめいた時が、即ち天上天下唯我独尊の声の、胸に響き亘った時なので、この大自覚が実に人生の根本解決なのである。

 しかしながら、今現に物資欲望の宮殿に閉じ込められて、いわゆる深窓の中を一歩も出ることが出来ない。仏陀伝の中に「四門出遊」の談柄が記されてあるが面白いと思う。悉多太子、その臣阿誡多と共に城外に遊ばんとし、迦昆羅の東門を出づ。時に一老衰の人に遇い人生の哀れを感じ、悄然として駕を廻らして王宮に還御になった。他日、また南門をお出になった時には、病者の、肉落ちて骨立ちし哀れなるものの来るを見て、また出遊の思いを碍られて王宮に還られたが、次に西門を出た所が今度は死者の道に横たわれるに遇い、三たび悲痛の情に打たれて引き還し、第四に北門を出た時には、修行者の来るに会し、彼は何者ぞと問われしに、道を求めんとして修行するものなりと聞き、ここに出家の念忽然として禁ずべからざるに至ったということである。これは全く一つの譬喩であって、吾人がこの世を生に托して、唯利、唯欲これに逐うて、夢と過ぎ現と暮らしているものの、遂に来るべき運命は、曰く老、曰く病、曰く死の三つで、これは必然にして免るべからざる運命である。人はどうしても、この三つの門を潜らねばならない。五十年の生涯、如何に力を尽くしても、骨を折っても、一笑国を傾ける美人、力山を抜く勇士、観じ来れば、皆この山門を通り、最後は西門に一抹の煙と化するものだと思うと、誰人も衷心失望悲哀とに沈まぬものはあるまい。幸いにして、我々はこの失望と悲哀から逃れることの出来る唯一つの門が開かれている。求道のとびら、ここに開かれたることを見たる我々は、いつまでも深き迷いの宮殿に閉じ込められて、安んじていることが出来よう。しばらく釈尊求道の煩悶、心的経過を尋ねて、我々仏教徒の正道獲得の機縁としたい。(未完)

求道のとびら(1)-大内義直-

【淨寶 1927(昭和2)年10月10日発行分】

求道のとびら(1) -大内義直-

 仏陀一日、弟子阿難にいいけるは、「汝、この城中に、一人の牧牛者あり、毎朝幾百の牛を追いて野外に出で、牧草を食(は)ましめ、これを養いつつあるを知れりや」と。阿難答えて曰く、「ただ爾(しか)り世尊、これを知れり」と。仏再び阿難に告げ給いけるは、「阿難、爾り、世の人は、皆悉くこの牛の如くなるを知るべし。牛は牧者に伴われ、その腹を充たさんとて、嬉々として城門を出づるにあらずや。夕には一日の食に満足して、いそいそとして城内に入り来るにあらずや。されど牛は、自分、牧者が、群羊の肥え太るを待ち、その生命を取らんとし、己が仲間の日に日に幾頭ずつかを減じつつあるを知らず。ただ牧者は己を美味に飽かしむるものとのみ思えり。惑える人も、またこの牛に似たらずや」と。仏なお語を続いて曰く、「阿難よ、時はなお牧者の如し。時の進むと共に、人はその富を得、その名を得、その位置を得、人は皆思えり、時は己をして飽かしむと。何ぞ知らん、その飽ける己の仲間は、暫時この牧者によって撲殺せられ、時によりて得たる一切の満足は、その機至れば、悉くこれを一杯の土中に埋めんとしつつある所のものに非ずや」と。

 これは「法句譬喩経」の中に仏の説き給える譬喩談の一節である。

 そもそも人は精神生活と共に、勿論肉体的生活を遂げなければならない。しかし普通の人情として、十中の八、九は、先ず重きを肉体的生活に置いている。肉体的生活は、物質的の快楽ということが重なる目的となるので、この目的にのみに重きを置くことになると、即ち利益欲望のためには全ての分別・判断を失うことになってくる。これが即ち利欲に目が眩んだ人で、五十年の生涯をただこの利欲のために過ごして、人生の高尚な意義も少しも理解することなく終わってしまうことになるのである。人はもとより肉体的生活をも遂げて行かなければならぬものではあるけれども、ただ営々として一生の行動を一つの墓の中に夢として埋めてしまうことは、あまりに果敢ない話ではあるまいか。人の真の道に入らんと欲するものは、先ずこの物質的生活の束縛から脱却するを以て、第一歩となさねばなるまい。

 しかしながら、人は到底肉体を離れて生活することの出来るものではない。物質的欲望を全て取り去って、いわゆる寒厳枯木の様になることは大変不自然のことであり、また畢竟不可能のことである。高尚なる精神的生活ということを重んずるのは尊いことであるが、しかし肉体を強いて罪悪視し軽蔑することは、矢張り人生の一面のみを見て全体を見ない、つまり円満な見方とういことは出来ないのである。とかく人生における一般の人は、牧者に追わるる牛の如く、精神的生活を顧みないという迷惑を脱することが難しいのであって、これに反して、精神生活を重んずるという学者、求道の人、いわゆる道学者的見解では、ともすれば、この物質的生活を極端に拝するの幣がある。真に道に入らんとする者は、またこの道学者的偏見から脱するを以て、その第二歩としなければならない。

 大聖釈尊がインドに降誕し給いし当時、世に行われておった九十六種の外道という、いわゆるバラモン教の中には、大体二つの区別があった。その一つは快楽派で、一つは苦行派である。快楽派というのは、即ち順生外道の類で、つまり順生は順俗派とでも言うか、世俗普通の考に一致して、物質的快楽を求るを以て人生の本面目なりと主張するところのものである。しかしかかる順俗派は、比較的類の少ないものであって、そのほかのバラモン教の諸派中の大部分は、先ず苦行派に属するものであった。苦行派というのは、純粋な精神生活に入ろうとするには、汚れた物質的生活を脱し、肉体的繋縛から離れて、本来清浄の精神をして独立せしめなければならぬというので、あらゆる手段を以て、肉体を苦しめ。物質的快楽を奪い、その欲念を絶たんとするところの宗教であって、世界の宗教には、何れも皆この意味を、多少は有しているのであるけれども、しかしその極端なる主張は、実にインド宗教の特色と言ってよいと思う。

 仏陀は、吾人に二種の煩悩を有することを説かれている。一つは修惑で、一つは見惑である。修惑というのは、普通の物質肉体の誘惑によって起こすところの煩悩で、見惑というのは、学者の迷見を指したのである。

 仏陀の教え給うところに従えば、吾人はこの二種の迷惑を脱し、快楽説の深坑に陥ってはならないと共に、物質的生活を軽蔑する邪路に踏み込んでもならない。

                           -(2)へ続く-