Archive for 住職―原爆

平和公園レストハウス リニューアルオープン

昨年往生した前住職諏訪了我がライフワークとして長年携わり続けたものの一つに「被爆建物の保存運動」があります。特に、平和公園内のレストハウス(元大正屋呉服店)は、淨寶寺も所在した旧中島本町の中、唯一現存する被爆遺跡として、往時を偲ぶよすがとなっています。

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原爆時、燃料会館と呼ばれていたレストハウスは、天井が大破し窓も吹き飛び内部は炎上しましたが、建物が倒壊することはありませんでした。そのため、たまたま地下で書類を探していた野村英三氏ただ一人が奇跡的に生き残ることが出来たということです。戦後は改修され「市東部復興事務所」として、広島の復興に貢献し、その後は平和公園のレストハウスとして利用されてきました。原爆を耐え忍び復興を象徴する被爆建物、それがレストハウスの戦後の役割であったと言えます。
ところが平成7年、広島市は突如としてレストハウス地上部分の解体を発表します。その理由は、耐震性の問題、そして原爆遺跡は原爆ドームがあれば良い、というものでした。この発表は国内外で波紋を呼び、文化庁やユネスコからも保存を求める意見が出されました。結局、市は平成10年、事業の延期を決めましたが、解体の懸念がなくなったわけではありません。そこで前住職も所属した「原爆遺跡保存懇談会」は、レストハウスを爆心地の被爆の実相を伝える資料館として、また平和公園が元々は人の住む街であった事を伝えるメモリアルセンターとして再生するよう市に訴え続けて行ったのです。
そのレストハウスがこの度、耐震改修工事を終えてリニューアルオープン致しました。残念ながら前住職はその姿を見ることは叶いませんでしたが、レストハウスは広島復興の象徴として平和公園にとどまり続けることとなりました。前住職の念願が結実したのです。

本年、令和2年6月30日、翌日7月1日のリニューアルオープンに先立って内覧会が開かれました。

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入館すると中は見違えるようでした。一階は土産物売り場、二階はカフェと今風のおしゃれな装いで、展示された被爆ピアノを除けば以前の前時代的な風情は殆ど消えていました。

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あくまでレストハウスとしての機能を重視したのでしょう。全館空調にエレベーターと整備され非常に快適になりましたが、往時の面影は保存展示された元安川側の天井・階段と地下室を留めるのみになったようです。

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三階は前住職達の希望通り、旧中島地区のメモリアルスペースとなっていました。

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町の成り立ちから繁栄、そして戦中の様子などがパネル写真や映像を使って展示されています。中心には街のミニチュア模型がありました。

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「原爆は人の住んでいない公園に落とされた」平和公園を訪れる観光客の中にはそんな誤解をする人もいます。しかしながら、これらの展示によって改めて原爆の非人道性が明らかに示されることでしょう。
展示の最後には、これからの取り組みとして様々な継承活動が紹介されています。以前この寺報でも触れた、戦前戦中の写真をカラー処理して過去を鮮明化するプロジェクト「記憶の解凍」が一番に展示されており、取材を受ける前住職の姿がパネルに映っています。淨寶寺が提供した写真も数点、展示に上がっています。

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ところで、リニューアルしたレストハウスの一番の見どころは、やはり爆心地より超至近距離ながら唯一の生存者を出した地下室でしょう。剥き出しのコンクリート柱や壁は、野村英三氏の生々しい被爆体験談のパネルと共に、当時の惨禍を想起させます。

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平和公園にお越しの際は、是非レストハウスにもお立ち寄り頂き、亡き前住職の思いに触れて頂ければ幸甚に存じます。

「全戦争死没者追悼法要・原爆忌70周年法要」記念布教ー諏訪了我ー

「全戦争死没者追悼法要・原爆忌70周年法要」記念布教

            平成27年7月4日午前10時~ 於本願寺広島別院

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讃題『平和を願う言葉』

 「(前略)私たちの姿をかえりみる時、『さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし』という恐ろしさをそなえています。それが国家の危機、個人の危機に際して、どのような姿をとって現われるかは、先の大戦中に多くの人々が経験したところであります。私たち自身が傷つくとともに、他の多くの人々を傷つけたその反省に立ってはじめて、平和への願いが力あるものとなるでしょう。親鴦聖人は、そうした私たちのいつわりなき姿を罪悪深重の凡夫と受けとめられ、そこにそそがれる真実、無量寿・無量光の如来のまことを仰がれたのであります。そこにはすべてのいのちあるものが手をとり合い、信じ合える世界が開かれています。(後略)」

はじめに

 皆さん、おはようございます。本日は、ご門主さまのご親修により「本願寺広島別院・安芸教区全戦争死没者音庫法要並びに原爆忌70周年法要」が勤修されます。皆さま、ようこそお参り下さいました。私は、この法要に際して、記念布教を仰せつかりました浄寶寺住職諏訪了我でございます。

戦前の中島地区

 浄寶寺は、今は中区大手町にありますが、原爆が投下されるまでは、旧中島本町で、現在の平和公園内にある原爆慰霊碑から西へ10メートル余りのところにありました。今でこそ平和公園には人の住む家はありませんが、大正時代から昭和のごく始めまでは広島の繁華街で、私も子供心に覚えていますが、多くの商店が並び、映画館や飲食店、旅館などがあり、お寺も宗派はいろいろですが10か寺ありました。爆心地だったこの中島地区は、戦後、都市計画で公園になり、浄寶寺は換地として大手町に移ったのです。

集団疎開

 私は中島小学校に通っていました。当時は国民学校と言っていました。太平洋戦争も敗色が濃くなった昭和20年春、国民学校の児童はアメリカの飛行機による爆撃を避けるために、田舎に疎開することになりました。中島国民学校からは約260名が、今は三次市になっていますが、当時は双三郡と言っていました三良坂町と隣の吉舎町の7か所のお寺やお宮などに分かれて集団疎開をしました。昭和20年4月13日の朝8時、多くの保護者に見送られて、私たち疎開児童は広島駅を出発しました。私は国民学校の6年生になったばかりで、12歳でした。

 私がお世話になった三良坂町の光善寺には、相生橋のたもとから吉島の南端までの中島学区の中でも、爆心地に最も近い中島本町、材木町の児童かおりました。

原爆投下

 その年の8月6日午前8時15分、現在の原爆ドーム・旧産業奨励館の東南160メートルのところにある島病院の上空580メートルのところで、世界で初めての原子爆弾が炸裂しました。爆発の1秒後には最大半径200メートルの火の玉となり、地上の爆心地ではセ氏3千度から4千度の熱線、それに音速の2倍に相当する秒速700メートルの爆風、その上強烈な放射線によって人も建物も破壊され、広島は焦土と化しました。亡くなった多くの方は安芸門徒の方々でした。

家族を失う

 私の家族は両親と姉がいましたが、3人とも亡くなりました。それまで、空襲で誰かがどうかなるかもわからないということは考えないではありませんでしたが、皆死んで一人になるということは全く考えていませんでした。遺体を見たわけでもないので信ずる気にはなれませんでした。こんな思いもかけない人生は嫌だと思いました。しかし「それは気の毒なことだ。あなたの人生を私か代わってあげよう」と言って、私の人生を代わってくれる人はありません。思いがけない人生であろうと、意に沿わぬ人生であろうと、私の人生は私か生きていかねばなりません。『大無量寿経』の中にも

「人、世間愛欲の中にあって、独生、独死、独去、独来(独り生まれ独り死し、独り去り独り来る)。行に当たりて苦楽の地に至り趣く。身みずからこれをうくるに代わるものあることなし」

と説かれています。人生の代理人はないのです。厳しいようですが全くその通りです。

 ところで、先ほども言いましたように、私かお世話になった光善寺にいたのは爆心地の児童でしたから、家族が皆亡くなって一人になったものは私だけではなく結構多くいました。そうでなくても家族の誰かを亡くしていました。

 光善寺はちょっと小高い所にありましたが、夕暮れになると、みんなお寺の前の石段に腰をおろし、広島の方の空を眺めながらシクシク泣く日が続きました。そして肉親や親戚の人が迎えに来るたびに、1人2人と、疎開児童の数は少なくなっていきました。

 親戚の者が私を迎えに来てくれて、芸備線に乗り広島駅に降り立って、変わり果てた広島の街の姿に茫然としたのは、原爆投下後、1か月と10日過ぎた9月16日でした。赤茶けた焼野原の向こうに、広島湾に浮かぶ安芸の小富士の似の島だけが、昔と変わらぬ姿で、すぐ目の前に見えました。1発の爆弾でこのようになったことに驚きました。

 駅前から電車道に沿って歩いて、中島に向かいました。爆風で歩道が浮き上がった相生橋を経て中島に入り、全て焼き尽くされた寺の跡地に立って、これから先いったいどうなるのかと、うつろな思いであたりを見回した時の感慨は、今も忘れることはできません。今年、あれから70年が経ちました。

戦争とは

 戦争は、武器を持った軍人だけが行い、軍人だけが影響を受けるというものではありません。いったん戦争が始まると、年寄りも子供も、男も女も、みんなその渦の中に巻き込まれてしまうのです。そこに戦争の恐ろしさ、悲惨さ、やりきれなさがあります。

 人間はなぜ戦争をするのでしょうか。お互いに自らに問うてみねばなりません。仏さまの教えを聞く身として私自身思うことは、自分さえよければよいという自己中心の考え、また自分は正しく悪いのは相手であるという独善性が、戦争を招くもとではないかということです。

 戦争を行う時、双方が、相手が悪く自分の方が正しいのだと主張します。日本もかつての戦争を「聖戦」と言っていました。平和への願いも、その起点が単に戦争の悲惨さ、恐ろしさ、恨みというところに留まり、被害者とか加害者ということに固執しているならば、立場を異にした人間の自我の衝突は免れ得ないでしょう。

 先程、ご讃題で読みました『平和を願う言葉』は、昭和57年3月6日に開催された安芸門徒結集大会の時、平和公園の慰霊碑の前で、大谷光真前ご門主が述べられたもので、その一部を読みました。その中で「私たち自身が傷つくとともに、他の多くの人々を傷つけたその反省に立ってはじめて、平和への願いが力あるものとなるでしょう」と述べられています。

平和の原点

 如来さまのお心を聞かせていただくことを通して、我を是とし、他を非とする独善性の恐ろしさに気づかされ、仏さまの大慈悲のもと、すべてのものが煩悩具足の凡夫として救われればならぬ命であることに目を開き、同じ立場で同悲同感していく心こそ、平和の原点ではないでしょうか。

被爆親鸞聖人像について

 ここで是非皆さまに聞いていただきたいことがあります。それは、広島で原爆に遭われた親鸞聖人の銅像が、今、国連本部のあるアメリカ・ニューヨークの浄土真宗の仏教会の玄関入口の横に立っておられます。時間の関係で詳しいことは話せませんが、これは昭和12年に大阪の信仰篤い実業家・広瀬精一氏が南無阿弥陀仏の六字にちなんで、六体の旅姿の親鸞聖人の銅像を制作され、その一体をご法義篤い安芸門徒の広島にということで、広島市街を一望できる三滝の高台に安置されました。昭和20年8月6日、原爆が投下され、爆心地から約2.5キロメートル離れてはいましたが、もろに強烈な熱線・爆風を受けられ、市中が破壊・焼失してゆく惨状を見つめられた聖人像です。

 戦後、広瀬精一氏が二度とこのようなことがあってはならぬと、核兵器廃絶と平和を願う像として、国連本部のあるニューヨークにお渡りいただきたいと発願され、昭和30年に実現したものです。

 実は、私は昭和35年から38年まで、南米開教師としてブラジルに行きましたが、帰国の途中、ニューヨーク仏教会に参りまして、この親鸞聖人像に手を合わせました。 しかし、その時、それが被爆聖人像とは分かりませんでした。

 それから19年後の昭和57年、当時の光真ご門主が『平和を願う言葉』を述べられたのを機に、安芸門徒を中心に反核・平和の署名運動を展開し、30万を越える署名を得て、安芸教区代表として三篠の光隆寺前住職・光寺重信師と湯来の西法寺住職・吉崎哲真師の2人が、第2回国連軍縮総会開催中の国連本部に届けました。その時光寺師が、仏教会の前に立っておられる親鸞聖人像が被爆聖人像であることを確認しましたが、その由来を語る何ものもありませんでした。帰国後、その報告を聞き、是非顕彰碑をということで募金活動を行い、縦70センチ、横1メートルの広島産赤御影石2枚に和英両文を刻んだ顕彰碑が完成し、昭和60年、前述の光寺師と草津の教専寺前住職・故選一法師の2人が代表として参列し、除幕式が行われました。

 このことを知っておられる方もありましょうが、知らない方も多いのではないかと思います。是非語り継いでいきたいものです。

 私の話はこれで終わります。ご静聴有り難うございました。

講演録「戦争・被爆の証言」-諏訪了我-

●原爆投下

 満55年前(平成12年当時)の8月6日午前8時15分、産業奨励館(現在の原爆ドーム)の東南160メートルの島病院の上空600メートルのところで、世界で初めての原子爆弾がさく裂しました。その瞬間の熱線はセ氏100万度、一秒後には最大半径約200メートルの火の玉となり、地上の爆心地ではセ氏3000度から4000度の熱線と音速の2倍に相当する秒速700メートルの爆風、その上強烈な放射線によって人も建物も破壊され、4平方キロメートルにわたって焦土と化しました。

 私が生まれたお寺は、現在の平和公園内にある原爆慰霊碑の西、約10メートルのところにありました。今でこそ平和公園には人の住む家はありませんが、先ほどのスライドでも見られたように、当時はたくさんの家が軒を並べ、多くの人びとが生活を営んでいました。記録によれば、被爆前、現在の平和公園内に約1300世帯、4400人の人が住んでいました。この住民だけでなく、被爆当時、今の平和大通りにあたるところで強制建物疎開作業が行われ、市内・近郊から約1000人の義勇隊員、またその応援のために11の中学校、女学校の1・2年生約2000人が動員され、さらには県庁や県病院がありましたのでその職員など、多くの人々が被爆死しました。戦後・都市計画により盛り土をして公園として整備されましたが、1メートルも土を掘れば、今でも人骨が出てきます。私の家族は両親と姉と私の四人でした。原爆が投下された時、私は小学校6年生で、集団疎開で中国山地の三次市の隣の三良坂町にいて助かりましたが、両親と姉は被爆死しました。両親はいわゆる行方不明です。

●戦時教育

 私は昭和8年4月8日生まれで、今年67歳(平成12年当時)になります。私が生まれる2年前の昭和6年に満州事変が勃発し、満州国が建国されましたが、それが日本の傀儡(かいらい)政権だということで国際社会の非難を浴びて、私が生まれた昭和8年に日本は国際連盟を脱退し、孤立するなかで戦争への道を突き進むことになります。

 昭和12年には日中戦争が始まり、中国大陸への侵略が本格化しました。皇紀2600年にあたる昭和15年に、私は中島小学校に入学し、その翌年の昭和16年12月8日に太平洋戦争が勃発して、日本はドイツ、イタリアと共に世界を相手に戦争をすることになりました。

 こうして考えてみますと、私の子供時代は、日本のため天皇陛下のために命を捧げることが、日本国民としての使命であるという、いわゆる戦時教育の真っ只中にあったわけです。アメリカやイギリスのことを「鬼畜米英」と教わっていましたが、子供心に、本当にアメリカ人やイギリス人は鬼や畜生のようなものだと思っていました。教育による影響の強さを痛感します。

●集団疎開

 太平洋戦争も敗色が濃くなった昭和20年春、国民学校(現在の小学校)児童は空襲を避けて、田舎に疎開することになりました。中島国民学校からは約260名が双三郡三良坂町と吉舎町の七ヵ所のお寺やお宮などに分かれて集団疎開をしました。4月13日の朝8時、多くの保護者に見送られて広島駅を出発しました。

 先ほどのスライドにも疎開生活の写真が出てきましたが、今思い出して最も心に残っていることは、いつも「ひもじい、ひもじいい」という空腹の思いでした。食べられるの草はほとんど食べましたし、イナゴやトノサマガエルも食卓に載りました。麦刈りや田植えの時期、農家に手伝いに行くと、白いご飯の「ぎんめし」が腹いっぱい食べられるのですが、子供のことですから限度をわきまえず、必ずあとで上げたり下げたりして先生を困らせました。

 それともう一つ、ホームシックにかかって親の元に帰りたいという思いが強かったことです。今ごろ両親はどうしているだろうか。姉(4歳上)はどうしているだろうかと思うのです。そして親と一緒に暮らしてきたことを振り返るのです。しかし、私の場合、親孝行をしたとか、親を喜ばせたという思い出は出てこず、親を困らせたこと、よく姉弟げんかをしたことばかり思い出されて、子供心に後悔をしたものです。

 疎開生活の間に、一度だけ親たちが訪ねて来てくれました。親に会えることが嬉しく、どうやって親を喜ばせようかとみんなで相談して、暑い時でしたので、冷たい井戸水で手ぬぐいを冷やして、親たちを待ちました。親たちも都会の貧しい配給の食料のなかから、工夫して子供たちの喜ぶ食べ物を用意してきてくれました。ほんの半日の短い逢う瀬でしたが、多くのものにとってこれが最後となりました。

 8月6日、広島に原子爆弾が投下され、広島は全滅しました。私がお世話になっていた光善寺には、爆心地に最も近い中島本町、材木町の児童がいたので、両親・家族が皆亡くなったものが多く、そうでなくとも、ほとんどのものが家族の誰かを失いました。私も両親と親が亡くなり独りぼっちになりました。このようなことは思いもせぬことであり、遺体を見たわけでもないので、信ずる気にはなれませんでした。どこか周辺に逃げておって、今日は迎えに来るのではないか、明日は迎えに来るのではないかと待っていましたが、それは詮のないことでした。皆死んだことを信ぜねばならぬと思った時、もう親を喜ばせることはできない、親の喜ぶ顔を見ることはできないと思い、じだんだを踏みたいほど悔しい思いをしたことを思い出します。夕暮れになると、みんなお寺の石段に腰をおろし、広島の方の空を見つめながら、シクシクと泣く日が続きました。そして、肉親や親戚の人が迎えに来るごとに、一人二人と疎開児童の数は少なくなりました。

 従姉が私を迎えに来てくれ、芸備線に乗り広島駅に降り立って、変わり果てた広島の街の姿に茫然としたのは、原爆投下後1ヶ月余り過ぎた9月16日でした。赤茶けた焼け野原の向こうに、広島湾に浮かぶ安芸の小富士の似ノ島だけが、昔と変わらぬ姿でよく見えました。駅前から電車道に沿って歩き、歩道が浮き上がったT字形の相生橋を経て中島に入り、すべて焼きつくされた家の跡地に立って、これから先いったいどうなるのかと、うつろな思いであたりを見回した時の感慨は、今も忘れることはできません。

●なぜ戦争をする

 戦争は武器も持った軍人だけが行い、軍人だけが影響を受けるというものではありません。いったん戦争が始まると、年寄りも子供も男性も女性も、すべてのものがその渦の中に巻き込まれてしまうのです。そこに戦争の恐ろしさと悲惨さがあります。

  「誰も戦争の好きなものはいない。みんな平和を愛している」と言います。しかし、現実には人間の歴史始まって以来、この地球上で戦争の絶えたことはないと言われています。この矛盾をどう考えればいいのでしょうか。人間はなぜ戦争をするのでしょうか。みんな自分自身に問いかけ、考えねばならぬことです。

 私が問題意識として抱いていることは、自分さえよければよいという自己中心の考え、つまりエゴイズム、また自分は正しく、悪いのは他のものであるという独善性が戦争を招くもとではないか、ということです。私自身の心の中に、あなたがた自身の心の中に、エゴイズムや独善的なものがありはしないでしょうか。もしそうであれば、目をそらさず、まずその心を直視する目を持つことが大切です。自分のあさましさに対して素直に「相済まぬことだ」と顧みて反省することが大切です。そこから、相手の痛みや悲しみを、自分の痛み悲しみとして同感する心が恵まれます。それこそが平和の原点だと思います。自分だけが正しい、自分だけは違うという独善が、自他共に傷ついてゆくもとになるのです。

 私たち人間が、核兵器や化学兵器を持つに至ったことによって、地球が破壊される危機に直面しています。46億年とも言われるこの地球の歴史を、またその中で営々と続いてきたすべての生命を、人間の性によって破壊することがあってはなりません。その愚かさに気づき、倣慢さに歯止めをかける努力をしなければなりません。

 最後に、私の母が書き残した句を紹介します。これは私が昭和20年4月に集団疎開で旅立った時のものだと思いますが、母の実家に届けていた疎開荷物のなかにありました。

 「生きのびて ともにまた見む 桜の春」

(了)

手記「念仏を称える意味」-諏訪了我-

 「念仏」とは、「称名念仏」を略して言ったもので、南無阿弥陀仏(ナモアミダブツ)という仏の名を称えるということです。

 親鸞聖人の師法然聖人は、念仏はすべてのものを浄土に往生せしめ、究極の幸せである仏の悟りを開かせようという願いを起こされた阿弥陀仏の本願(根本の願い)に誓われた行であるから、念仏ひとつでどんなものも救われると言われました。念仏は阿弥陀仏の智慧と慈悲のすべての勝れた功徳を具えており、またどんなものにも適う易しい行であることを明らかにされました。この法然聖人の他力念仏の教えに、親鸞聖人は心を開かれたのです。『歎異抄』第二章には、親鸞聖人のお言葉として、

 「この親鸞におきましては、念仏一つで阿弥陀仏にお救いいただくのです、と勧められたお師匠さまの仰せを聞いて信ずる以外にはなにもありません」(意訳)と示されています。

 ところが、この念仏の教えを聞いた人のなかに、自分の称えぶりの善し悪しにとらわれる人がありました。つまり、称える人の器量(学問、智恵、身分、財力、僧俗などの違い)や称える時の心ぶり、環境、生活ぶり、称える数の多少などです。

 これに対して法然聖人は、自分のこざかしい自力の計らいで念仏を考えるのではなく、南無阿弥陀仏に込められた、すべてのものを一人子(ひとりご)として見られ、放っておくことができぬ、必ず救い遂げねばおかぬという阿弥陀仏の親心に安んじて称える念仏は、誰が、いつ、どのような状況のもとで称えようとも、その一声一声には無量の功徳があると言われました。これが他力の念仏です。

 念仏が勝れていると言われたのは、称えぶりによるのではなく、称えている南無阿弥陀仏の名号のそのものに勝れた徳があるからであり、易しい行だと言われたのは、称えることが易しいということではなく、阿弥陀仏の親心に安心した信心によって、なんの計らい心も持たずに称える念仏だから易しいのだということです。南無阿弥陀仏は私のこころに信心となり、口に念仏となってはたらいている活動体なのです。

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 私の姉は16歳の時、学徒動員として工場で働いていて原爆で亡くなりました。十数年前、尾道市に住む姉の友人から手紙をもらい、当時の様子を知りました。

 「原爆のその日もご一緒で、天満町の東洋製罐で航空魚雷の推進機の部分を作る職場でした。朝、玲子様(姉)は私方の仕事場に何時もの如く『おはよう』と言って見えられ、玲子様が2、3メートル離れたご自分の仕事場につかれるかいなかの時、隣の棟に直撃弾でも落ちたような轟音と赤き火柱を感じ、思わず伏せました。(中略)梁や柱のすきまを縫って出口の方に行きました。出口のちょうど梁の下に玲子様の姿を見つけ、4、5人の友達と力を合わせて、やっとの思いで玲子様を外の広場まで抱きかかえました。

 外に出て驚いたことに、どの方も血だるまのような姿で、地獄絵どころではございません。その時、玲子様は小さい声でハッキリと『お母さん、お母さん』と何度かおっしゃいました。私の腕の中で、玲子様は外観からは無傷でございました。お顔も美しく平安そのものでございました。

 やがて救護班が来ましたので、その方達にゆだねて、私たちは川の中を渡って打越町の当時教頭先生でした菅原教信先生のお宅に避難致しました。(後略)」

 この手紙を読み、姉が死の前に小さい声ではありますが、ハッキリと「お母さん、お母さん」と母の名を呼んだことを知り、胸が熱くなるとともに、姉をして母の名を呼ばしめた母親の偉大さを改めて知らされました。

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