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被爆体験談(2)Bさんの場合②

被爆体験談(2)-②

Bさん(仮名) 85歳(2012年現在) 女性

《聞き取り時刻 2012(平成24)年8月24日 午後1時30分~午後4時30分》

 

【5】原爆の惨状 3日目

●日時 1945(昭和20)年8月8日 時間不明

●場所 爆心地から直線距離で、130m~580m附近

●状況

会社(左官町、現本川町)と祖母の家(堺町)の様子を見に行くため、電車道を通って市内中心部を歩く 

●体験談

 (原爆投下から)3日目くらいですかね、電車道を通って、白神社(爆心地から約560m)の辺まで行きました。手前(神社の南)の、今の100m道路(平和大通り)は建物疎開で、ある程度建物がないような状態でした。いざ言う時には、そこが滑走路になるということでしたから。その白神社の手前のところで、電車の、丸こげの、焼けた鉄枠だけの姿を見ました。それから少し(北へ)行くと、また同じような丸こげの電車がある。ほいじゃから、ああ、これが私が乗り過ごした電車か・・・あれもこれも無理に乗っとったら、私もこん中で焼け死んどったんじゃと思いましたもん。

 それで、この辺(旧日本銀行広島支店附近、爆心地から約360m)、日銀の前だったかしらん、(丸こげの)電車の中に―写真でも見ておられると思うけれども、電車の焼けた骨組みだけの―その中に、白い灰が山のように薄っすらと、ふわっと積もっとるんですよね。中が見えるわけですよ、鉄骨の枠組みだけですから。何でああいうに白いもんがあるんだろうか思うとったら、横を通ってる4、5人の男の人が、「あれ、人間の骨で」って言われたんですよ。骨の形に残らんくらい焼けて全部灰になっとるんじゃ、言うて。骨の形も残らず、灰になるまで焼かれるとはどういうことなんかなと思って・・・真っ白じゃないけど、ちょっとグレーのような色の、鉄骨じゃったらああやって(骨組みで)残ってるし、鉄じゃったら鉄の色なんだろうに・・・。私は電車に乗り過ごして助かったから、特に電車に惹きつけられたわけですね。あれに乗っとったら、満員電車で外に出るに出られず、ああいう形で焼かれとったんじゃと。真っ白じゃない、少しグレー・・・あれが頭の中に焼き付いてますね。

 もう火はなかったですね。焼け焦げた臭いはしてましたよ。死体はたくさんありました。御幸橋や日赤で(遺体を)見た時はこの世の地獄と思いましたが、その時より麻痺してしもうたんですね・・・私はそこまでようせんかったですが、死体が転がっとっても人がその上を跨いでから踏んづけて歩いていってんですもん。ただ100m道路の辺りは人影はなかったです。 

 広銀のところ(爆心地から約260m)、当時は芸備銀行って言いよったんですけど、あれはおしゃれな建物だってね、玄関前に鉄柱が4、5本建ってたんです、今じゃったらイタリア風じゃなんじゃ言うような。その鉄柱が倒れてから、壊れてぐしゃぐしゃになっとるんですが、男性が下敷きになって、頭、顔はきれいでまともなんですよ、ほんで足はもうお骨になっとるんですよ、目はパッチリ開いとるわ・・・体がぞーっとしましたよ。足はきれいに焼けとるのに頭は焼けなんだ・・・そりゃ頭のほうから焼けとったら記憶が早よ無くなるけえどうもない。なんぼ苦しかったんじゃろう思うて・・・もがいたって、鉄柱が押さえつけとるんだから、動きもスンともしないじゃないですか、あの丸太のような大きい鉄柱が折れたのに下敷きになって・・・生きたまま焼かれたんですよ。私は足が釘付けになって前に進まんかったんです。金縛りにあったみたいになって、大げさでなく本当に動けんかったですよ。なんぼか苦しかったんだろうな思うて、気の毒に・・・。

 それから西練兵場(爆心地から約160m、旧広島市民球場辺り)の前を通って―西練兵場は軍の広場ですからね。ここらも一杯死体がありましたよ。

そして相生橋を渡ったら、相生橋(爆心地から約260m)も半分はダメになっとりました。橋の南側は歩けんかって、北側の欄干のほうを歩いて行ったんですよ。それで本川小学校の前を少し西に過ぎた電車通りの北側のところ(爆心地から約500m)に、軍人さんが15,6人でしたかね、軍服も靴も焼けずにきれいなまんまで、隊列が整列した状態で、皆頭を同じ方向(己斐方面)へ向けて、倒れて亡くなっていたんです。胸にはみんな襟章を付けたまんまですよ。ずらーっときれいに並んでましたもん、それが不思議なかったね。

 それが、翌日(同じ場所を)通ったら(軍人の)上の服がない。その次の日は靴がない。そうやって結局はパンツ一枚になってました。だれかが持っていくんですね。(身に着けているものに)名前が書いてあるんだから、残しておいてあげたら、だれのだれべえ、いうのが分かるのに。真っ裸にしてしもうたら、軍人さんかも誰かも分からんじゃないですか。まあ、人間いうのは酷いことをするもんじゃと思いましたよ。

 会社(当時の左官町、現本川町。爆心地から約500m附近か)は全部焼けてましたが、高さが1mくらいの防火用水の水槽が残ってました。その壁が伝言板みたいになって、生き残った人が焼けた木材の炭で伝言を書いとりました。

 それから、堺町の祖母の住んでた家(爆心地から約580m)のところまで行きました。ここらはもう焼けて何にもないですからね。きれいに焼けてしもうてから。ただ、祖母の家の焼け跡に、ぬか漬けの樽だけ残っとりました。おばあちゃんが何十年いうて大事にしてきたのがね。残っとるいうたら、あれしかなかったですもん。その日はおばあちゃんの家を見て帰ったような気がします。

 

【6】黒い雨の痕跡 4日目

●日時 1945(昭和20)年8月9日 時間不明

●場所 爆心地から直線距離で、2.8㎞附近 

●状況

防火水槽に書かれた伝言を頼りに、会社の上司の自宅を訪ねる。

●体験談

 次の日(9日)に、結局同じ道(翠町から電車道を伝って)を通って、さらに己斐の旭山神社の下に、私の勤めてた会社の課長さんの自宅があって、そこに行きました。この方が何で助かったかというと、病気をされて、今で言うと胃潰瘍か何かじゃったと思うんですけどね、7月頃から会社を休んでおられたんですよ。ほいで、課長さんに、会社は全部焼けてしまったとか事情を話したり、他の社員さんの消息を尋ねたりしました。

その時、その奥さんが、外に布団を干しておられたんですよ。そしたら、黒いちょぼちょぼが布団について染みになっとるんです―黒い雨ですよね、「黒い雨が降って、取り込むのがちょっと遅くなったからね、布団がこういうようになったんよ」って言うことを聞きました。そこで初めて、私は黒い雨のことを知りました。

<備考>

 この日から終戦の8月15日まで、Bさんは会社の連絡係として市内を駆け回った。時には、大野町や可部町の遠方まで足を延ばす日もあったという。Bさんは、基本的に電車道しか歩かなかったので、どの場所で何を見たか、という記憶が鮮明である。

 

【7】学徒動員の従妹を探す 5~9日目

●日時 1945(昭和20)年8月10日~8月14日 詳細不明

●場所 爆心地から直線距離で、580m附近

●状況

会社の連絡をする傍ら、Bさんは、動員学徒の従妹を探す。

●体験談

 100m道路のところの建物疎開で、私の従妹が学徒動員されてましたので、会社の連絡の間に探しに行きました。能美島で医者をしとる人の長女なんですけどね、四月に県女(広島県立広島第一高等女学校、現広島県立広島皆実高等学校)に入ったばかりのコじゃったんです、12歳でした。おばさん(従妹の母)が、どこにおるんじゃろうか、死んどるんじゃろうか言うて。

市女(広島市高等女学校、現広島市立舟入高等学校)があっち(現平和大橋西詰辺り、爆心地から約520m)で建物疎開しとったから、県女はこっちじゃろうと見当をつけて探しました。それで、NHKの前(南側、爆心地から約580m)辺りの防空壕の中に(従妹の)非常袋だけは見つかったんです。着物の帯芯で作った袋で名前が書いてありました。中へノートやらハンカチやらが入ってました。でも本人は見つからなくて・・・皆(動員学徒が)、大の字になって焼けた姿ばっかりですよ。これ(非常袋)があるんだから、ここで死んどるんです。ほいで、何十人いう人の遺体を・・・もう腫れるだけ腫れて真っ赤になって・・・大の字言うけど本当に大の字になった人をね、裏返し裏返しして、従妹のアザか何かないか思うても、みんな同じような赤銅色になっとるんじゃから、分からんですもん。髪は焼けてもうボウズやしね。髪でも生えて残っとりゃ、髪型で分かるけど・・・丸ボウズじゃしね、男か女かも分からんし。もう腫れたいだけ腫れて、本当に大の字ですもん。手も腫れたいだけ腫れてインどる(死んでる)。そうか言や、反対にまーるくなって亡くなっとる人もおってね。(爆音が)バーンいうて、怖くなってしゃがんだまんま、息絶えたんでしょう。

<備考>

 建物疎開(空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事―ウィキペディア)に従事していた動員学徒の被害者数は甚大で、およそ6300名に上る。周囲の建物を撤去していたため遮蔽物が殆どなく、原爆の熱線と爆風を直接に浴びた。広島県立広島第一高等女学校は教職員含めて297名、広島市高等女学校に至っては動員されていた552人(教職員含む)全員が被爆死した。

                              

【8】散乱する遺体 5~9日目

●日時 1945(昭和20)年8月10日~8月14日 詳細不明

●場所 爆心地から直線距離で、580m附近

●状況

以前勤めていた逓信局(現中国郵政局)へ、会社の連絡で足を運ぶ。

●体験談

 紙屋町から逓信局(爆心地から約1.3㎞)へ行くのに、電車通りだったら遠回りですから、西練兵場の中を通ることに決めたんですよ。それで広島城(爆心地から約750m)の中を通りました。広島城の周りの堀は蓮畑になっとったんですが、人の遺体も自転車も何もかんもが落ちてました。それこそ(遺体が)水ぶくれです。何百人いう(遺体の)数じゃなかったかしら・・・もう自転車も何もかんも、犬も猫も一緒ですよ。中には浮いた人もあるし、首だけ見えるのもあるし・・・人の山で一杯ですよ、もう人間が入る余地がないくらいに、ここで人が死んでましたね・・・凄かったですよ。でも、この当時は、(原爆投下から)1週間くらい経っとるから、私も麻痺して(遺体が)怖くも何にもなくなってね。

 それから広島城の中を通り抜けて、逓信局の横に広島陸軍幼年学校いうのがあるんです。将校の養成所ですよ。逓信局は4階建てじゃったんですが、屋上へ上がったら、学校の広場に何百人いう生徒が整列してから、体操したり運動したり連呼したりしよるのが見えよりました。それが昭和19年の終わり頃になったら、(戦争が激しくなって)みな(戦争に)行ってしもうてから人数が少ないでんすよ。始めは運動場一杯に整列しとったのがね、だんだんだんだん少のうなって、最後には整列が二筋くらいしか見えんようになりましたよ。その学校のところから壁に隙間があって、そこから逓信局に入ったような記憶があります。

 それで、2回か3回か仕事の連絡で逓信局に行ったんですが、何回目かの時です。逓信局の手前(西側)に火薬庫(爆心地から約1.3㎞)があって、その横を電車が少しカーブして終点の白島に着くようになっとったんですけれど、その少し曲がったところを歩いてて上をふと見たら、女の人の長い髪が電線に巻き付いて、頭だけが下へぶらさがっとったんですよ。何であの時上をみたんじゃろうか。それまで何回かそこを通っとるんですよ。ある日、何の気無しにふっとみたら、女の人の頭だけ、髪が巻き付いて電線にぶら下がって、顔がまともに見えるんです。背筋がゾーッとしましたよ、背中に冷や水を浴びせられたようなね・・・。

 

【9】焼かれる遺体 7~9日目

 ●日時 1945(昭和20)年8月12日~8月14日 詳細不明

●場所 爆心地から直線距離で、730~130m附近

●状況

会社の連絡係として市内を歩き回る中、集められた遺体を随所で見かける。

●体験談

 ここに中電の建物(中国電力株式会社、爆心地から約690m)ありますよね、その上(北側)の建物が当時、広島図書館とか言ってたんですよ。そこが(原爆投下から)何日目かしたら死体の収容所になってた。ふと窓から見たら、中が死体の山になっとって。整然じゃないですよ、外から(遺体を)ほうり投げたような感じです。まともに丁寧に並べたいう状態じゃないです。福屋(爆心地から約730m)の1階も確か死体の収容所になってましたよ。

 紙屋町の防空壕―相生橋を渡って商工会議所(爆心地から約220m)があって、そこから今のそごうの所まで、電車通りの北側に防空壕がずーっと並んどったんですよ(距離にして約370m)。幅が畳一畳半くらいで、長さが畳二畳くらいの防空壕がずーっと並んでいた。終戦間近のことじゃったと思うんですが、その紙屋町の電車通りを歩いて帰るのに、蠅が湧いて湧いて、背中に沢山ひっついてくるわけですよ。というのは、兵隊さんが―札幌から来た言うとったね―、戸板に死体を載せて、防空壕へ投げるわけですよ。一人一人置くんじゃないんですよ、放り投げるんです。今じゃったら大問題じゃけど、あの当時は六人くらいが戸板に死体を載せたいだけ載せてから、防空壕へ投げるんです。横も縦もない何十人も山積みにしてあるんだから。(遺体は)皆、真っ裸で。で、(防空壕が)一杯になるでしょ、そしたらガソリンみたいなものをかけるわけです。真っ黒い煙が出てました。そこを3時頃(午後)通ったら、一面真っ黒い煙でした。その後ですよ、郡部のほうから身内を探しに市内へ人が入って来たのは・・・(遺体が)焼かれた後だから、身元が判るわけないですよね。

 蠅はね、少々の蠅じゃなかったですよ。紙屋町から白神社のほうを通ったら、たくさん湧いとって、タオルで必死になって払ってました。特に蠅が一匹一匹大きかったですよ。母に「何であんなに蠅が多いんじゃろ」って聞くと、「人間の肉が腐ってそこに蛆が湧いて蠅になるんよね」って言うから、市内で瓦礫の下で押しつぶされて焼けもせずに命絶えた人がそうようになったんじゃろうって思いましたよ。

 ああいうことは何時までも忘れられん、覚えてます。

 

【10】終戦後

 私が市内をね、あっち行ったりこっち行ったりしたのはですね、8月の15日までなんですよ。終戦記念日を己斐の広電の終点で聞いたんです。ラジオで放送がある言うんで近くの人が集まってきて、どうだらこうだら天皇陛下のお言葉じゃ言うて。よう意味が分からんかったけど、戦争で負けた負けた、言うてました。

 9月に入って、私は足の裏で五寸釘を踏んだんですよ。それが化膿して膝まで紫になって、皮が全部とれて歩かれんかったんです。それで弟二人がリヤカーを借りてきて自宅(当時は南区翠町から霞町へ移転していた)から日赤(広島赤十字・原爆病院)まで往復してくれたんです。でも、病院に行っても薬品が無いんですよ。ただ赤チンつけて帰るくらいのことです。それで帰ったら蛆が湧いとるんです(日赤から自宅まで直線距離で約2.6㎞ほどのもの)、消毒が足らんから。それで傷口のところの肉が落ちて、白い骨が見えて・・・肉がどんどんどんどん腐ってなくなっていったんです。それが(膝から下が)とうとう赤黒い紫になってしまいました。

 それから12月に入って、兄が鹿屋(鹿児島県鹿屋航空基地)から復員してきて、家に入ったら「死んだ人間の臭いがする」言うて。それで私の足を見て「お前そりゃ足を落とすようになるじゃないか」言いました。兄はすぐに能美で医者をしとる親戚の所へ行って、クレゾール三瓶をもらって帰り、原液を洗面器に入れて、その中に私の足を浸けたんですよ。

 二人の弟に抑え込まれて。もう痛いのなんの「殺して!死んでもいいから!」ってオラんだんですよ。兄が「バカタレ!」言うてね、軍隊療法なんかカミソリを持ち出して、足の肉の腐っとるところを全部取ったんですよ。さっさっさっと肉を落としていくんですもん、飛び上がるような痛みですよ。弟二人が姉さんごめんごめん言いながら抑え込むんですよね。(兄が)「ほんとに足をもいでもええんか、お前!」、私は「もぐんじゃない、それ(カミソリ)でいいけえ殺して!」ってオラんだんですよ。そのおかげで腐りが止まって助かったんです。半年以上靴が履けなかったですが。

 日赤では、膝から下を落とさんと、上へ毒が回ったらいかんから、残念じゃけど今度来た時はそうしよう、っていう話になっとったんです。そこへ兄が丁度帰ってきてから良かったんですが、生きとるんが良かったんかどうなんか、あれにゃあ参りましたよ。業というのは分かりませんね。原爆でも会社を病気で休んどったのばっかりが生き残ったんです。土曜日から歯が痛うて月曜日休んだ人とかね。

 私らが同窓会する言うても同級生が(原爆で多く亡くなって)いないですよね。当時のことを考えると何で私は助かったんだろうかと思います。この世に生きて、何かしなきゃいけないために生かされとるんかなとは思いながらも、中々ままならないです。

 原爆から3、4日目くらいですかね、相生橋を渡ったところ、電話局の前に公衆電話のボックスがあって、そこを通りよったら「おねえちゃん、おねえちゃん」言う声がして、どっから聞こえるんかと思ったら、ボックスの中に40代くらいの男性がいました。8月の3時過ぎ陽盛りの暑い日です、西日が当たっててね。「おねえちゃん、すまんがそこのトタンを一つとって影にしてくれんじゃろうか」って言われて、(トタンを)3~5枚拾って(ボックスに)くるっと回してあげたと思うんですよ。そしたら「おねえちゃん、ありがとの、ありがとの」って、3回から5回、いやそれ以上言われたと思うの。それが帰りにそこを通ってみたら、しゃがんだようなうつ伏せなったような・・・覗いてみたら息絶えとられたですね。

 また、天満橋の東側(爆心地から約1㎞)のところで、火傷で馬が立ったままヒーンヒーンって鳴いてましたね。それが帰りに見てみたら、横倒しになって死んでました。私らどうすることもできんでしょ。人だけでなくて馬や猫や犬や、たくさん死んでましたよ。

 本川小学校の前の飲食屋のおじさんは顔見知りでしたけど、大きな人で・・・防火用水の中で死んでおられました。もう水ぶくれになって・・・。

 川も、みなさん(被爆者)絵に描いておられますよね、川に(遺体が)浮いていても、どうすることも出来ないし・・・ぎっしり浮いてましたよ。

 「広島は、毎日毎日、焼夷弾攻撃じゃなんじゃいうことがのうて(無くて)、たった一発じゃったけえ良かったんかもしれんよ」と言う人もあるけどね。広島に焼夷弾が落ちたのは国泰寺のところだけですが、あの時はウチら河原町(爆弾が落ちた地点から1㎞遠方)におったんですけど音が聞こえましたからね。まあ、びっくりしてから、あの焼夷弾一発でも、あんな響きじゃから、あんなんが毎日落ちてきたらどうなるんだろうとは思いますがね。でも、毎日じゃなくて、たった一発かもしれんけれど、(放射能の影響によって)70年間草木は生えんって言われてましたからね。草木は生えましたが、原爆の後遺症で苦しんでる人は67年経った今でもおられますけえね。70年いう年数はそういうことなのかなと思ってます。

 だから今、福島のほうが大変ですが、原発の核廃棄物の問題もあるじゃないですか。焼いて焼却して済まされるもんじゃないですからね。地下何百メートルに埋めるいうても日本は地震が多いから考え直そうって言うとるじゃないですか。そんな後々残るようなもの、もっと人間が文明文明じゃ言わずに一歩引いて、後の処理が大変なものは無いほうがいいんじゃないかなあと、私は思いますね。原爆一つ落とされただけで、戦後70年苦しんできとるんですから、ほんと原発みたいなもの―日本には50カ所以上あるんですね、私は知りませんでしたが―もう作って欲しくないですね。

                                      (了)

被爆体験談(2)Bさんの場合①

被爆体験談(2)-①

Bさん(仮名) 85歳(2012年現在) 女性

《聞き取り時刻 2012(平成24)年8月24日 午後1時30分~午後4時30分》

 

【1】原爆投下時

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前8時15分

●場所 爆心地から直線距離で2.4㎞附近

●状況

Bさんは昭和2年生まれ。当時17歳で、日本電信電話設備株式会社中国支店広島出張所(左官町、現本川町)に勤務していた。3人の兄は出兵しており、母とBさん、そして3人の弟と2人の妹という家族構成だった。父親は前年に亡くなっていた。

原爆投下前日の8月5日は日曜日で、疎開していた祖母のために、堺町にあった祖母の自宅から疎開先の牛田本町まで、食器などの荷物を運んでいた。当時、「若いもんは歩け」という風潮にあり、学生は電車など交通機関を利用できず、専ら徒歩で移動していたという。朝の8時頃から片道4㎞の道程を3往復したため、荷物運びを終えた頃には夕方になっていた。さらに、その年の7月25日に引っ越したばかりの自宅(翠町)まで歩いて帰り、身体は相当に疲れ切っていたという。しかしながら、その疲労が、結果的にBさんの命を救うこととなる。

●体験談

 その日、前日の疲れが残っててね、朝寝坊しました。いつもなら6時40分くらいに食事をして7時には(通勤先へ)出掛けなきゃいけないんです。もう(起きたら)7時過ぎとって、遅刻するから、規則違反ですが電車に乗ったんです。県病院の電停(爆心地から3㎞)から乗ったんですが、市内行の電車は朝の通勤ラッシュで満員でしたから、4台から5台見送って、結局長いこと―10分以上待ったでしょうね、もう8時は過ぎとりました。それでようやく乗れたと思ったら、今度はたった6、7人ぐらい乗ってたかな、というほどでした。

 それから(電車が)走り始め、しばらくして左に曲がってちょっとしたくらいのところですね。御幸橋と交差点の中間にも行ってないくらい―今の猫田記念体育館にも差し掛かっていないところです(現広電皆実町6丁目電停附近〈爆心地から2.4㎞〉と考えられる)。曲がってちょっと行った思うたら、ドカーンってやられたんですよ、(電車が)走っている時に。何がなんだか分からんですよね。とにかくね、浮き上がった感じ。閃光は見えませんでした。ダーンていうような大きい音がして、下から持ち上げられたような・・・そこまでは頭の中にあるんですが、その後の記憶がぜんぜんないんですよ。それで気が付いたら、どうやって電車を降りたんか分からないんですけど、外におって、足元に瓦や何やらが粉々になった瓦礫が辺り一面ありました。家は傾いとるはね、塀も斜めになったり、どこが道路か、どこがどっちか分からんような状態でした。そっから記憶が始まっとるんですよ。火はなかったんです。辺りが真っ暗という印象もなかったです。ただ、歩いとる時に「広島ガス(ガスタンク)の裏のほうで火が上がっとる」いう声は聞こえました。

 

【2】避難行動

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前中(詳細不明)~午後2時頃

●場所 爆心地から直線距離で2.8㎞~3.1㎞附近

●状況

被爆したBさんは自宅を目指して歩き始める。普段、道に迷わないよう主に電車道しか通らなかったBさんだったが、その時は電車道を外れて一番の近道で自宅まで帰っている。原爆の爆風で周囲の建物が破壊され風景が一変していたにも関わらず、また引っ越したばかりで近辺の地理に疎かったこともあり、何故自宅へ迷いもせずに戻れたのか不思議に感じたという。

●体験談

 私は7月25日に翠町に引っ越してきて、まだ日が浅かったんですが、よう(自宅へ)帰れたと思うんですよ。通ったことがない道を通って。なんでその道に入ったんかも分からんですよ。それで、家(爆心地から約2.8㎞)に帰ってきたら、二階の屋根がもうぺしゃんこになってから、枠だけ残ったようになって。玄関はそのままだったけど、二階の屋根がどっかに吹っ飛んどって青空が見えるんですよ。二階へ上がる階段はブラブラになってた。

 それから母が、家に帰った私を見て「あんた、もう血だらけになっとるのに!」と言いました。私は(爆風を受けて気を失って)気が付いたらいつの間にか瓦礫の上を歩いていて、自分が血糊を浴びとるとか、ガラスの破片が両方の眉毛のあたりに刺さったままになっとるとか、気付きませんでした。痛いも痒いも記憶が全然ないのね。白い長袖のブラウスを着とったんですが、上半身は他人の血糊で真っ赤だったんです。真っ赤になっとるいうことさえ、私は分からずに帰っとるんです。母が「すぐ脱ぎんさい!」言うて、家におった弟に「お姉ちゃんの着るもの持って降りて」と、二階に上がらせて箪笥から持ってこさせました。

 家におった弟三人とも無事でした。上の二人は普段は吉島の金属なんとかという所に学徒動員で行っとったんですよ。でもその日は二人ともずる休みをして、八畳の部屋でパンツ一枚になって本を読んどった言うて。そしたら、ドーンというた拍子に、玄関から玄関戸二枚が吹っ飛んで来たらしいです。二人ともドーンと音がして咄嗟に1メートルくらいよけた言うてました。もしそのままおったら玄関戸のガラスやらを浴びとったと思います。一番下の弟は仏壇の後ろにしゃがんどって、倒れてきた仏壇の下敷きになり気を失ってましたが、私が引っ張り出してやりました。

 母は掃除を済ませて休んどるところで、やはり無事でした。弟が二階から私の着るものを持ってきたら、母が何を思ったか、土間の土を掘ってからね、私が脱いだ(血染めの)服を埋めてしもうたんですよ。で、あれ、埋めずにのけとったら(保存してたら)、資料館(広島市平和記念資料館)へ(資料として)持っていけたんじゃないか思うてね。

 妹二人はね、上は小学校四年生で、下は二年生かな。大河(おおこう)の小学校(爆心地から約3.1㎞)へ転校したばっかりで、そこへ行っとたんですよ。それで私が探しに出ました。当時のバス通りに出て、小学校の方、東を見たら黒い煙が上がっとたんですよ。それで、今でこそ住宅になっとるんですが、少し小学校のほうへ歩いたら、レンコン畑(現南区西旭町、爆心地から約3.1㎞)があって、レンコンの大きい葉っぱが皆茶色になってましたよ。それだから、爆風か放射線かが当たったんでしょうよ。

 更に進んだら、昔の宇品線(軍専用の線路)の手前のところで、私の姿を見つけた二人の妹が「お姉ちゃーん!」言うて走って抱きついてきたんです。そしたらね、左側の顔半分の髪が、二人ともジリジリになっとる。それだから熱風を浴びたんですよね。花火やなんかで髪に火が移るとジリジリってなるじゃないですか。二人とも同じように。だから、横に並んでじゃなくて、後ろ前に並んで歩いて学校行きよったんですよ。建物もない逃げる場所もない畑の中を歩きよったですから、左のほうから熱風を浴びたんでしょう。その年の暮れまで、火焼け(ほやけ)いうんか、顔半分が真っ赤になってましたよ。いつまでも治らん。そしたら、母がどっから聞いたんか、人骨を純粋な日本油で練ってそれを(患部に)貼ったらいいと。それで前の年に父が亡くなって、ずっと遺骨を持ってたものだから、母が「お父さんごめんね、お骨が少のうなるけど子供のためじゃから堪えてね。」言うて、それをすり鉢で粉にしちゃって油で溶いてネルのような布に塗り付けて、妹ら(の患部)に貼り付けたんです。そしたら、それが効いたんかどうか知らん、綺麗に跡形もなくその火焼けがなくなったんです。ただピカ(原爆)におうた人のお骨じゃダメなんじゃそうです。

 後年、妹らが被爆手帳を申請した時に、係の人が「大河の方のレンコン畑で、そうようなこと(熱風を浴びたこと)は聞いた事がない。ええ加減なことを言うな!」って役所の人が言うたそうです。

 その後は、もう家は天井がないから住むことが出来んじゃないですか、だから、近所の畑の一画に軍が防空壕を作っとったんですね、そこに避難しようかということになって。ある程度の毛布や器なんかを持って皆で避難しました。三畳ぐらいの広さでしたかね。午後2時くらいのことでした。

<備考>

Bさんの妹二人は、学校のある北東の方角へ向けて歩いていた。その位置から爆心地は北西に当たり、そのため身体の左側面が熱風を受けることとなった。

原爆手帳申請の時、役人がその熱風について疑問視していたとのことだが、爆心地周辺の原爆投下直後の地表面温度は、熱線によって摂氏3000度から4000度に達している(因みに鉄の熔ける温度は1500度ほど)※1。Bさんの妹二人が被爆したのは、爆心地から約3.1㎞地点だが、爆心地の強烈な熱線が爆風によってもたらされていたと考えられる。

※1 図録「ヒロシマを世界に」(広島平和記念資料館発行)p54

 

【3】原爆の惨状 当日

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午後3時頃

●場所 爆心地から直線距離で2.2㎞~1.9㎞附近

●状況

一旦、近所の防空壕に避難したBさんは、近所の様子を見て回ってくると御幸橋方面へと向かう。

●体験談

 それから私は、(街が)どうようなか(どういう風になってるのか)見てくる言うて、御幸橋(西詰、爆心地から約2.2㎞)のところまで行きました。そしたらもう、死体の山ですもん。中国新聞のカメラマンが写した写真(松重美人氏撮影、午前11時過ぎ)もありましたでしょ、橋を渡って、あの(写真に写っている)派出所のところを通って少しのところまで行きましたよ。あの写真には、あんまり人は写っとらんですけど、原爆直後の昼前ぐらいの写真ですからね。私は午後3時くらいに、どこまで行けるもんかなと思って行ったんです。そしてら、御幸橋のところは、もう人の、息絶えた人の山ですよ。

 それから広電の本社(爆心地から約1.9㎞)まで行きました。そしたらもう、電線が切れてシューシュー、シューシュー火を噴いて、花火みたいになってのた打ち回っとるんです。こりゃ危ない、火傷したら危ない、これ以上行けん思って引き返しました。

 私が人間の死体を見たのは、その前年亡くなった父を見たのが初めてで、御幸橋の上で人が死んで、こんなにたくさん死んで・・・この世の地獄ですよね。

 広電の車掌さんなんかは、昔は切符切りで腰の辺りにカバン下げとっちゃったでしょ、カバンだけが身体に着いとるんですよ。服も何もない、皮膚が垂れ下がっとんですよ。もうあれを見た時には、背筋がゾーッとしましたよ。まあ、こういうことになるんか思うてね。私は、畳の上で死ねるいうことは幸せなことなんじゃなあ、いうて子供心にねえ。皆、ここまで逃れてきて、息絶えて、皆、着とるもんも、身についてる人はまだ幸せですよね、着とるもんも焼けただれて、皮膚か衣服か分からんような状態で、丸くなっとる人もあるし、大の字になっとる人もあるしね。こんな死に方して・・・。皮膚が赤銅色言うんかね、なんと言うんじゃろう、ああいう色のを見ました。

 帰ってから、お母さんにこうこうこうだったんよと話をして、その晩は防空壕で過ごしました。畑の中の防空壕から空を見たら、首を東から西へくるっと回すぶんだけ、空が火の海ですよ。市内が焼けよるのがね、空が真っ赤でから。もう真っ赤ですもん、ずーっと、火が上のほうまでね、入道雲みたいに。

 昼間は市内のほうは黒い煙が街を覆うように立ち込めたようになって、黒い雲が上がったように見えるんですね。それが夜になったら赤く見えるんですよ、二日目も三日目も。まあ、びっくりしましたよ。

 母がこんなことを言いよりました。(亡くなった方々は)どれだけ残念で悔しいじゃろうけど、幽霊になって出れるもんなら出で恨みを晴らしたらええのにね、そんなことを言ってましたよ。

 

【4】原爆の惨状 2日目

●日時 1945(昭和20)年8月7日 時間不明

●場所 爆心地から直線距離で1.6㎞附近

●状況

市内の様子を見に千田町の日赤(現広島赤十字・原爆病院)まで足を運ぶ

●体験談

 翌日は千田町の日赤(現広島赤十字・原爆病院)の前まで行きました。電車道から日赤に入る道路のところに、ざーっと、動員学徒の死体が積み上げてあったんです。中には一般人の人もあったんかも分からんけど、中学生の国防色の服装ですね、あの服の色が全部同じだったから、動員された学徒だと分かりました。頭をそろえて、4、5段くらいあったでしょうね。

 それで、その前を通りよったら、「お姉ちゃん」って声を掛けられたんですよ。(積み上げられた遺体の)山の中から、真ん中へんぐらいじゃったかしらね。私はもうびっくりしましたよ。それで振り向いたら、「お水ちょうだい」言うじゃないですか。ふっと周りを見たら瓦の欠片やらの中に、どんぶりらしい半分欠けたような器を見つけてそれを拾いました。当時市内を歩いとったら、人家のあちこちで、鉄管の水道の蛇口から水がジャージャージャージャー流れ放題でしたから、その器で水をすくって、こぼさんようにやっとこさ、その子のネキ(そば)へ持っていったら、警防団の人―襟が黒い、エラそうにしとる人がおるんですよ、それが来て、「飲ましちゃいけん!」ってオラブ(怒鳴る)んですよ。まあ、今じゃったら口が立つけえ、飲ましてあげりゃあいいじゃないねって言えるけど、その当時はねえ、17歳で言い返すいうこともようしないから、飲ましちゃいけんのかねえ?思うて・・・息絶えるのに、飲ましてあげりゃあ良かろうに、なんでそんなにオラバにゃいけんのか・・・胸の内でそう思っとっても、口に出せんじゃないですか。そこへきて、警防団が器を奪うもんですから・・・。

 後からだんだん同じ様な話を耳にしました。「もう何日も生きるような命じゃないのに、警防団がエラそうに、水を与えたら死ぬるじゃ何じゃ言うて、はあほっといても死ぬるじゃないか、飲ましたいだけ飲ませたらええじゃろう・・・」。

  その当時は昭和19年頃から、警防団の人間が、夜になると街の橋のあちこちに2、3人のグループで立っていて、橋を渡ろうと思うたら、エラそうに「どこへ行くんか!」言うてね、検閲しよりましたからね。市内におったら危ないから(広島市は軍都として栄えていたため、大規模な空襲が予想されていた)、(市内の人は)皆疎開しなきゃいけんいう雰囲気じゃったから、(そういう人々を)外(市外)に出しちゃいけんいう軍の指令が内密にあったんかどうか知りませんが・・・。

 これは警防団とは別の憲兵のことですが、私らも昭和19年の12月10日に三番目の兄が招集されるんで、12月初めくらいに堺町のおばあちゃんのところへ一緒に報告へ行ったんですよ。その帰りしな、夕方だったですが、自宅の近くまで帰ってきたら、憲兵に捕まってから、「お前ら、女と男が何をいちゃいちゃ歩いとるか!」と。今でこそ、子供でも彼氏や彼女じゃ、付きあっとるじゃ何とか言うけど、あの当時はそんな知識、学生の私らには全く頭にないですからね。何のことか分かりませんでした。兄が、「妹です、祖母のところに召集の報告に行った帰りです」そう言っても、「みんなそう言うんだ!」と信用しないんですよ。そしたら兄が両ビンタされたんですよ。あの時私は叩かれませんでしたが、兄は口から血を出しましたからね。母が、入営するのにあと日にちもないのに腫れが引くかしら言うて、心配したくらいです。

 それで、その憲兵の顔が、私は忘れられんのですよね。そしたら、知らなかったんですが、私が当時勤めてた電話設備(日本電信電話設備株式会社中国支店広島出張所)に、その憲兵の妹さんがいたんです。その妹さんはピカで亡くなられたんですが、昭和20年の秋頃に、そのお母さんが、同じ会社に勤めてた私が生き残っとるいうのを聞きつけられて、尋ねに来られたんです。「娘はどういう状況で亡くなったんでしょうか?」て言うてじゃから、よく知らないけれど、「同じ会社で被爆した男の人がお嬢さんの声を聞いた言うておられたから、会社の中で亡くなられたらしいです」というようなことを答えたんです。そしてたら、そのお母さんが私に、「一晩でいいから家に泊りに来て」言うてね。夜明かしして、会社の中のことを色々聞きたいから私を一晩だけ連れて帰りたいって。それで、そこまで頼まれたら嫌と言えず、そのお母さんと西観音の家まで歩いていったんです。そこで色々話をしてる内に、そのお母さんが「あの娘の兄も憲兵だったんだけど、元気で帰ってね。ちょっと離れたところにバラックを建てて住んでるんですよ、呼んできます」言うて、その兄を連れて来ました。そしたら、その憲兵だったんですよ。偶然いうことがあるもんですよね、私の兄を叩いた憲兵はこの人だったんじゃと思うて、びっくりしましたよ。

 その時は私は何も言えませんでしたし、向こうも私の顔を覚えてなかったみたいで、それ以上のことは何もなかったんですが、後年、私が結婚して今の町に移ってきて知り合った方が、偶然そのお母さんの親戚だったんです。それで戦時中に憲兵でおられた方は?って尋ねると、あれ亡くなりました、って。もうね、人さんから責められて、気が狂うて。憲兵の威厳いうんか何いうんか、そういうものをチラつかせて、あっちもこっちも殴り飛ばしてきとったんでしょうじゃない。戦後、あいつ(憲兵)があそこに住んどるいうことが分かって、あっちからもこっちからも攻撃を受けられたんじゃないかしら。結局最後は精神異常になって亡くなりましたと。

 二番目の兄も外地(中国)から船で帰る時に、軍隊でも悪い将校がおるじゃないですか、部下を痛めつけるような。それで、玄界灘を通る時に突き落としてやろうかと皆で相談したと言ってましたよ。そしたら、その将校は内地(日本)に帰るまでね、船の底から一歩も上がってこなかったって。もう何かといえば、ムチでピシピシ殴り飛ばしてね。フンドシまでアイロンかけろって言われたりしたそうです。権力を笠に着てね、人間を人間と思わんとやってきた。肩の肩章がモノを言うてね、威張って、人を使い放題使うてきた。そんな人でも、軍を離れりゃただの人ですよ。「よう甲板へ上がってこんかったで」言うてね。

 戦争は不幸ですよ。お互いがお互いにね。憲兵は憲兵で、自分の職務に忠実にやろうと思って、そういう風になっていったんでしょうよ。警防団も警防団で町内を守らにゃいかん、一歩も外へ、橋を渡って向こうへ行かしちゃいけん、っていう責任から、そういう風になっていたんでしょうね・・・。

                                 【被爆体験談(2)-②へ続く】

被爆体験談(1) A氏の場合

被爆体験談(1)

 A氏(仮名) 83歳(2012年現在) 男性 白髪長身

     《聞き取り時刻 2012(平成24)年8月20日 午後2時30分~午後4時》 

 

【1】原爆投下時

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前8時15分 

●場所 爆心地から直線距離で約3.5㎞附近

●状況 

A氏は昭和4年生まれ。当時16歳で広島県立第二中学校(現観音高等学校)の四年生。学徒動員で三菱重工観音工場の木型工場(船のギアボックスの木型〈鋳物の型〉を作製に動員されており、その日も朝から工場に出勤していた。尚、同工場の学徒動員としては、広島高等師範学校(現広島大学教育学部)・山中高等女学校の生徒たちがいた。

●体験談

 丁度、朝礼が終わって作業台に来たところでね、市内(北側)のほうが、パーッと光ったんですね。火の玉―言うか照明弾みたいなんが見えたんです。

 「何じゃありゃ?まさか、朝から照明弾じゃあるまいの!」

 そう言うたのは覚えとります。その時、1mくらい先に杉田いう同級生がおったんですが、そいつがね、何を思うたか、さっと作業台の中にかがみましたよ。そういう風に躾けられとったんですかね。「おい、どしたんや」って私が言いました。そしたら「ドン」ときたんです(その時、音と共に衝撃波を受けたという)。私は工場の一番真ん中におったもんですから直接の被害はなかったんですが、山中高等女学校の生徒が6人ほど、丁度窓際(市内方面)におったものが全員ガラスで怪我しましたね。女の子が顔から血を流してね、可哀相に。それで、何でですかね、喉が渇いてね、工場の東側に水道の栓があったんです。そこに行って水を飲んだのを覚えとるんです。

<備考>

A氏は直接、原子爆弾の閃光を目撃している。爆心地から直線距離で約3.5㎞も離れた場所であったにも関わらず、工場は北側(市内方面)を中心に半壊(たまたま木型工場が木造であったということもある。鉄骨製の他の工場の倒壊は免れた)した。凄まじい爆風である。また、A氏は無性に喉が渇いたというが、爆心地周辺の原爆投下直後の地表面温度は、熱線によって摂氏3000度から4000度に達している(因みに鉄の熔ける温度は1500度ほど)※1。その余熱が爆風によって工場までもたらされ、A氏は熱さを感じ喉の渇きを覚えたのだろうか。

【※1 図録「ヒロシマを世界に」(広島平和記念資料館発行)p54】

 

【2】避難行動

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前中(詳細不明) 

●場所 爆心地から直線距離で約3.5㎞附近

●状況

動員先の工場から西へ500mほど行った先にある川端沿いの防空壕へ避難する。

●体験談

 それで、ともかく避難しよう言うてね、現在広島西飛行場がありますが、あれがまだヘドロじゃったんですよ。そこに木枠で組んだ簡単な仮橋があって、それを渡った川端に避難所―防空壕を作っとったんです。そこに逃げたんです。その時、市内を眺めてみたら、黒煙がバーッと拡がっていきよったです。最初は市内の真ん中だけ黒煙が上がっとってですね、それがだんだん、だんだんと左右に拡がっていったんですね。どう言うたらいいですかね、火は見えませんでしたが、ともかく真っ黒い煙でした。青空は見えませんでした(当日の広島の天候は快晴)。その後、学校の先生じゃったと思うんじゃがね、「帰れ」って言われて、一人自宅へ向かいました。

 

【3】自宅へ

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前中(詳細不明)

●場所 爆心地から直線距離で約2.3㎞~1.8㎞附近

●状況

避難先から現空港通りを北上し、爆心地から直線距離で約1.7㎞の場所にある自宅(現西区小河内1丁目付近、現福島町派出所近く)へ向かう。途中火災に阻まれ、旭橋→己斐→己斐橋経由で迂回、自宅近くまで辿り着く。

●体験談

 それから(現空港通りを)歩いて、(地図を指して)ここ(現国道2号線と交わる交差点付近、爆心地から直線距離で約2.3㎞)まで帰ったら、この辺で、ガラスや何やらで頭や顔から血を流した怪我人を見ました。それから更に行ったら(約100mくらい北上)、火が上がっとって入れんもんですからね、引き返して、旭橋を渡って自宅のほうへ帰ろうとしました。それで己斐橋を渡って福島町の派出所(現在の派出所から西へ100mの場所、爆心地から直線距離で約1.8㎞)まで行ったところでストップしました。そこから先(約100m東に自宅があった)は火で入れんのんです。派出所も燃えかかっとりました。警察官も負傷してね、バケツも持たれんような状態だったです。そこで手伝うてバケツで派出所の火を消しました。

 それでそこにおったらたまたまね、お袋と一番下の妹と再会したんです、偶然に。それも、何も持たずにね、取り敢えず脱出したんでしょう。怪我はね、お袋は無事でしたが、妹のほっぺたに切り傷がありましたね、血を流して。それで雨が降ったもんですからね、「寒い、寒い」言うて震えて泣きよったです。その時の記憶は定かでないですが、雨が降るのは降ったんです。黒かったかどうかは分からんですね。「黒い雨」と言い出したのは遥か後のことですからね。その当時は気が動転したんと、何が起こったか分からんいうことで、そう記憶にないですよね。

<備考>

 当時は原子爆弾について、民間人は何ひとつ知らない状況だった。これまで経験も見聞もしたことのない被害の大きさにただうろたえるばかりだった。ただ、「新型爆弾が落ちた」という噂はひろまっていたという。

 黒い雨は、A氏の自宅のある広島市北西部を中心に、爆発の20分~30分後頃から降り始めた。爆発は、強烈な火事嵐や竜巻を生じさせ、高濃度の放射能を含んだ泥やチリを大気に巻き上げ、大雨となって1時間から2時間に亘って降り続けた。盛夏にも関わらず急激に気温が低下、寒くて震えるほどだったという※2。A氏の証言はそれを裏付けている。

【※2 図録「ヒロシマを世界に」(広島平和記念資料館発行)p71】

 

【4】避難場所へ

●日時 1945(昭和20)年8月6日(午後詳細不明)から翌日未明

●場所 爆心地から直線距離で約2.4㎞~3㎞附近

●状況

知り合いの家(己斐小学校の傍、爆心地から直線距離で約3㎞)へ家族と一緒に避難するため、再び己斐橋を渡り、山の手へ向かう。

●体験談

 この辺(旧己斐橋東詰土手、爆心地から直線距離で約2.4㎞附近、現在は太田川放水路造成のために削られて河川の一部となっている)に、まだ完全に出来とらんかったですが、防空壕みたいなんがありまして、やけどをしたのがね、皮がズルっと剥けたんがね・・・顔が腫れて、お化けみたいな恰好ですよね。「水をくれ」言うて。でも、あの時誰かがね、「水をやったら死ぬるぞ!」言うたのは耳に残ってます。何が何やら、何が起こったんか・・・。

 それで、たまたま己斐の小学校の傍に知り合いの家がありましたもんですから、その日はそこを頼って避難しました。己斐橋を渡ってその小学校まで行くのに(直線距離で約1㎞ほどの道のり)、両道端へ遺体やら怪我人だらけです。ひっきりなしです。道路端に親子連れとか、子供を抱いたまま亡くなったような、死体がゴロゴロです。知り合いの家も避難してきた人や怪我人が大分おりましたんで、家の中に入らず、その晩は庭で一晩過ごしたんじゃなかったかな・・・。ともかく、市内は夜もずっと(火災で)真っ赤で入れんかったですからね。すぐ傍の己斐小学校の中にも怪我人がたくさんおって・・・呻き声やらねえ、泣き声やらねえ、一晩中聞えとりました。生き地獄いうもんでしょうね・・・あれを今見たら卒倒するでしょうね。

 

【5】原爆の惨状

●日時 1945(昭和20)年8月7日以降(詳細不明)

●場所 爆心地から直線距離で約1.2㎞~3㎞附近

●状況

己斐の避難先から、自宅、母校の天満小学校、当時通っていた広島県立第二中学校の被害状況を知るために自らの生活圏を歩く。日時の記憶ははっきりとしない。

●体験談

 避難先で怪我をした人で印象に一番残っとるんは、やけどの痕に蛆が湧いとったことですね。原爆で背中なんかやけどしますよね、そしたらそこに蛆が湧いとるんです。何人も見ました。医薬品がなかったんでしょうね。本人は痛みで分からんかったんでしょう、蛆を払いのけようとはしてませんでした。そういうなんがケロイドになって残ったんじゃと思います。

 (原爆を落とされてから)何日目か分からんのんですが、福島川(現在は埋め立てられて廃川となっている)、いや、天満小学校(爆心地から直線距離で約1.2㎞、A氏の母校)に行ったような気がするから、天満川だったと思います。パンパンに腫れ上がった飴色の遺体が無数に川に浮かんどって、川一面いうことはないですが、あっちもこっちも(遺体が)流れとりました。それで、材木を引っかけるトビ(川に浮かべた材木を移動させるための棒状の道具)がありますよね、大人の人が、それで遺体を引っかけて、川べりへ寄せて集めとるのを見ました。

 それと怪我で亡くなった人は、今の観音小学校が元二中(A氏が当時通っていた広島県立第二中学校、爆心地から直線距離で約1.8㎞)だったんですが、その学校の校庭の東側で、丸太で木枠を縦横に組んで棚みたいなんをつくり、遺体をたくさん焼いてましたね。臭いはねえ、覚えてないねえ、感じんかったんかね・・・。もう街中で何か所もやってましたね。

 先に話した己斐橋の防空壕のところ(旧己斐橋東詰土手)でも焼いてました。その焼いた跡の骨を必死で何か探しとる人がおったんですが、金冠(金歯)を探しとったように記憶してます。こんな時にそんなことするんかいのと思いましたが、いやらしいとかなんとかではなく、とにかく他のことが大きすぎて微々たることのように映って、ただその光景をぼーっとして見てたような感じです。

 今思えば、その当時は感覚が麻痺してたいうか、気が動転してたんか、怖さとか言うのはあんまり感じんかったように思います。

 家(自宅)の焼け跡に行きましたら、たまたま家の隣りの主人がね、奥さんを探しとったんですが、遺体が見つかってね、「ああ、これじゃ」言うて・・・焼けて手足がなかったですね、胴体だけでした。

 私の父親は出かけとった場所(西観音町、爆心地から直線距離で約2㎞附近)が分かっとるもんでね、そこで焼けて白骨になっとりました。家はガラス商と質屋をしとりまして、私は親父の自転車に乗って(借金の)徴収に行ったり、手伝いよったのを憶えとります。まあ父は人がええんじゃけえ、(取り立て等)無茶を言わんかったです。それで人望があったんか、町内会長なんかしとってね。それが、46歳(数え年)で亡くなったんですけえね。

 

【6】終戦まで

●日時 1945(昭和20)年8月15日まで(詳細不明)

●場所 大竹市~岩国市

●状況

母の里がある大竹市に避難

●体験談

 それから、どこでどうしたておったか記憶は定かでないんですが、私は5人兄妹の長男で、すぐ下の妹(長女)が広島実践高等女学校(現鈴峯女子高等学校、爆心地から直線距離で約8㎞)の一年生でした。原爆当時はもう登校済みで無事でしたので、後からそこまで(長女を)迎えに行ったのを覚えとります。次女・三女は双子で、小学校四年だったと思います。二人とも集団疎開で砂谷(サゴタニ、現佐伯区湯来町)のお寺におりまして助かりました。ですから市内(旧市内)で被爆したのは両親と私と一番下の四女になります。

 その後、これも何時頃か定かではないんですが、母の里が大竹にあるんで、そこを頼って行きました。その時私は中学4年(旧制中学)ですがね、食欲がぜんぜんなかったですね。今になって考えればね、放射能の関係じゃったんですかね。食べるものもなかったんですがね、食欲がないんです。

 岩国の空襲があった時は山の畑のほうに行ったのを憶えとります。8月15日の終戦までの間ですよ。そこから空襲を見たんです。ザーっという雨の降る音ですよ、そりゃ凄いです。爆弾の音が雨の音です。ザーっというような。岩国の駅前から大竹のほう向けて、穴だらけですよ。今の大竹の石油コンビナートがありますよね、あそこに燃料廠があったですから、それがやられとるんです。あれは50キロ爆弾?100キロ爆弾?そういう大きな爆弾ですよ。(爆発によって地面に)10mくらいの大きな穴が開いとりました。

 まあ、考えてみればね、一番アメリカが怖い奴ですよ。そう思いますよ。大量殺人兵器はよその国はどこも使うとりませんよね。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも。

<備考>

大竹市は広島市から30㎞ほど離れた町で岩国市と隣接している。岩国への空襲は8月14日の昼ごろで、軍事工場を狙って3000発もの爆弾が落とされたという。死者は500人以上と言われている。

 

【7】戦後

 戦後メーカーに勤めてた時に、東京からメーカーの担当員が広島にやってきたんで、原爆資料館に連れて行きまして、その後宮島に連れてったんです。そこでお昼になったんですが、その担当員は(資料館を観た)ショックがあんまり酷すぎて、昼飯をよう食べなんだです。でも、まだあんなもんじゃないですよ。そりゃあ、(原爆の惨状を)見たら卒倒しますよ。道端に怪我した人間が一人転げとっても、卒倒するような姿ですよ。それがね、ざーっと並んどるんですから。指から皮膚がぶら下がって、お化けみたいな恰好で、顔は腫れ上がって・・・やけどしてね。そりゃね、まともに見られんですよ、水をくれ言うて・・・。家の近所の男の子も顔がずるっと剥けてね、多分亡くなったと思うんですがね・・・そりゃ、哀れなもんですよ。実際、体験したもんじゃないと分からんでしょうね・・・。酷い目に遭いましたよ、まるっきり何もなくなりましたからね・・・。とにかく何が一番か言うたら、世界中から原爆をなくすのが一番でしょうね。

 父が原爆で亡くなったんで、戦後、母子家庭で育ちました。兄妹5人皆、まだ元気で何とか頑張っとります。苦労いう言葉が嫌いなもんですから、皆頑張っとります。みんな筋金が入っとりますよ。

                                                       (了)