前回のブログで、宮島の「桃花祭御神能」(4/18)について紹介致しましたが、私の謡の先生も一番舞われましたので、そのお能について少し触れさせて頂きたいと思います。
能舞台は厳島神社の中にあります。写真のように潮が満ちてくると海の上に浮かぶ舞台!と化します。
演目は「弱法師」(よろぼし)。シテ(主役)が謡の先生、喜多流能楽師、粟谷明生先生です。
主人公は俊徳丸という少年。家を追い出され四天王寺(大阪市)のホームレス集団に入りますが、悲しみのあまり失明をしてしまいます。その俊徳丸が施しを受けに四天王寺へと向かう場面から能は始まります。
揚げ幕から登場して、橋掛りを参道に見立て、盲目ゆえに杖を頼りに静かに歩みを進めます。そしてシテ柱が四天王寺へ入る石鳥居。そこで俊徳丸は確認のため、杖で鳥井の柱(シテ柱)を探ります。
盲目ですから、ゆっくりと探るのかと思いきや・・・
ビシっ!!
「柱はここにあり!」と確信に満ちた動作で勢いよく杖を柱に当てられました!
完全に予想を裏切られると同時に、それまで静かに進行していた能が杖の一撃によって、一瞬にして緊張感ある張り詰めた空気に変わりました。
それだけではありません。よろよろと歩くから「よろぼし(弱法師)」と揶揄される俊徳丸ですが、杖の使いこなしから、こやつただの盲目ではない!鋭敏な感覚と激しさを持った、その性質が伝わってくるようでした。
さらに、勢いある一撃は、今後のドラマティックな展開を予感させる暗喩のようにも感じられました。
ところで、以前、先生が弱法師についてこんなことをおっしゃていました。
「弱法師は盲目だからぎこちなく演じればいいというものではない。視力を奪われた者は、聴覚やら足元やら他の感覚がすぐれて発達しているものだ。しかも俊徳丸はまだ少年だから動きに俊敏さがあるはず。また、四天王寺へと向かう参道は、彼にとって通い慣れた道なので、どこに何があるかという見当は大方ついている。だから、ある程度しっかりとした足取りでないと・・・」(記憶違いでしたらごめんなさい、文責副住職)
そんな持論を興味深くお話下さいましたが、流石の一言に尽きます、杖のひとさばきでそれらを見事に表現されたのでした。
余談ですが、粟谷先生の能楽に向き合うご姿勢は、まことにプロフェッショナル。凄みがあります。そして、その信念がきちんと演技に結実されているところもまた凄い。
この後、雑談などでざわついていた観客席は華麗な舞に惹きつけられ、次第に静かになっていきますが、詳細は割愛させて頂きます。(失礼)
ところで、能楽は装飾を極限までそぎ落とした抽象的な芸能と言われています。ですから華やかさに欠けるように感じるかもしれませんが、実はそれが却って想像力を掻き立てられることとなります。つまり、あの簡素な能舞台の空間は、観る人それぞれの想像力によって華やかに装飾されるのです。
ですから、能楽は観る者の想像力を阻害するような、限定的な解釈をきらいます。人々のイマジネーションを刺激し、より豊かに膨らませる演じ方、それが能楽の大きな魅力のひとつだと思います。
・・・ということで、能楽「弱法師」の前半部分、自分なりに感動したことを、自分勝手に少しだけ書かせて頂きました。









コメント