怒りの葡萄

小説が好きで、よく読みます。よくと言っても、読書家ではないので月に2、3冊程度ですが。

そして小説は「であい」だと思っています。

こんな具合です。

何かの買い物のついでにふと本屋に立ち寄って、書棚の間をうろうろします。タイトルなのか装丁なのか分かりませんが、何となく気になってその本を手に取り、パラパラとページをめくります。すると、これも何故だかよく分からないのですが、強烈に惹きつけられる一節があります。そんな時、私はジャンルも作者も関係なく、その小説の磁力に従ってレジへ向かいます。

そうやって、であった小説に先ずハズレはありません・・・こともありません。たまにハズレもありますが、大体、面白いです。

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ジョン・スタインベック、『怒りの葡萄』(ハヤカワepi文庫)、これもそんな風にであった小説です。

<小作人は考えた。「まったく妙な話だ。ほんの少し土地を持ってたら、その土地はおれだ。おれの一部だ。おれにそっくりだ。そこを自分で歩けて、自分で耕せて、獲れ高が少なきゃ悲しむ、雨が降りゃ喜ぶ。そんな土地はおれとぴったりと同じだ。いや、ある意味おれのほうが土地よりでかい。その土地を所有してるんだからな。稼ぎが悪かろうが、土地を持ってりゃでかい人間だ。そういうもんだ。」  

 小作人はさらに考えた。「だが自分で見もしない、指を土に差し入れてもみない、その上を歩きもしない、そんな土地を持ったら―そしたら、土地が主人になる。その人間は自分のしたいことができない。何をしたいか考えることもできない。土地が主人で、その土地を持っている人間より強くなる。人間のほうはでかくない。小さい。持っているものだけがでかいんだ。人間は持っているものの召し使いだ。これもまたそういうもんなんだ。」>上巻p70

この一節に足を止められたわけです。「人間は持っているものの召し使い」・・・何か今の時代の閉塞感を言い当てられているような気がして、どきっとしました。

1930年代のアメリカ中西部、世界大恐慌と不作のあおりを受けて、土地を奪われた小作人たちは、おんぼろのトラックに家族と家財を詰め込めるだけ詰め込んで、新天地カルフォルニアへ向います。そこは一年中温暖で、美しい果樹園が拡がり、飢えることのない希望の場所のはずでした。

ところが、難民たちの腹を満たすだけの作物がありながら、大規模農場の経営者たちは、取引価格の下落を防ぐため、余分な収穫を処分します。そして、次から次へと仕事を求めて押し寄せる難民たちの足元を見て、生かさず殺さず、半殺しの状態まで賃金を下げます。

家もなく、仕事も金もない難民は、緑に輝く果樹園を前にしながら、弱い者から飢えと病気によって死んでいきます。

<畑を耕したり収穫をしたりするのに馬を飼ってるやつは、仕事がないときだからといってその馬を飢え死にさせたりはしないんだがな。

 でもそれはお馬さまの話―おれたちはただの人間だ。

 女たちは男たちの様子をうかがった。いよいよ男たちがへこたれてしまうのかどうかを見ていた。女たちは黙然と立って男たちを見つめた。何人かの男が集まっているところでは、男たちの顔から恐怖が消え、怒りが後釜にすわった。すると女たちは安堵のため息をついた。大丈夫だとわかったからだ。男たちはへこたれてはいない。恐怖が怒りに変わるかぎり、へこたれてしまうことはないのだ。.>下巻p382

それでも、人々は、絶望と恐怖と怒りとほんの少しの希望とを繰り返しながら、家族仲間と共に生き、生かすことを選択し続けます。

ラストの衝撃と余韻、感動の深さは、稀有です。個人的にですが。

翻訳者、黒原敏行氏の「訳者あとがき」抜粋が文庫本の帯に掲載されていますが、この小説の普遍性を見事に説明しています。それを引いて、今回のブログを終りたいと思います。

<いまこの小説を読むと、描かれている三〇年代アメリカの現実が、まるで私たちのいまの現実そのもののように思えて愕然とする。低賃金労働者をさらに低賃金に抑えて使い捨てにする雇用のありさまは、非正規雇用の問題と同じだ。かりに銀行の人間がひとり残らず零細農民の追い立てに心情的に反対していても、自律した機械のような銀行はそれをやめないというところは、企業の個々の人間の願望とは別に産業の空洞化が進んでいくグローバリズムの非情さを連想させずにはいない。>

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