共苦

先日(6/14)、平和公園国際会議場で姜尚中さんの講演会が開かれ、引き続き木越康(大谷大学教授)さんとの対談がありました。

この講演会は、東本願寺の広島地区寺院の集まりが、親鸞聖人750回御恩忌を記念して企画したものです。

講題は「〈共苦〉から〈共生〉の未来へ―広島・水俣・福島が問いかけるもの―」。

ところで「共生」という言葉には馴染があるのですが、「共苦」は耳慣れない言葉です。開けば「苦しみを共に分かち合う」という意味でしょうか。何となく気の重くなる言葉でもあります。しかしながら、「共苦」こそが、これからの日本人を支えていく大切なキーワードであると、お話が展開されていきました。

以下は私が講演と対談を聞いて受け取った内容の一部について自分勝手な感想を記します(誤解しているところがあればスミマセン・・・)。

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戦後の日本は皆が豊かになろう、幸せになろうという政策のもと、経済・福祉を発展させてきました。言わば「共楽」ということでしょう。ところが、御存じの通り、国の財政は破綻寸前の借金の山、経済は行き詰まり、労働環境は悪化、少子高齢化により年々年金の分け前は減り医療保険は値上がり。さらに福島原発の事故で日本は放射能との格闘を余儀なくされ、現時点では問題終結の見通しが全く立たないという有様です。「共楽」は一部の利権を持った人々には現実であるかも知れないけれど、社会全体においては幻想となりつつあります。つまり、楽をする人間よりも苦しみを受ける人間のほうが圧倒的多い社会ということでしょう。そのような状況の中、日本の課題は「共楽」ではなく「共苦」であると。

しかし、浮世では「共苦」よりも、むしろ「自己責任」という考え方が浸透しています。

「自己責任」―「あなたが受けている苦しみはあなたが撒いた種なのだから、その結果は当然あなたが引き受けるべきでしょう。」

確かに理はあります。それは「仕事もせず遊んでばかりいたから、お金がなくなって困っている」というような、個人の過失としか言いようのない、ある限定的な状況には当てはまると言えます。

ところが、限定的にしか使えないはずの「自己責任」という考え方が、

「あなたはあなた、わたしはわたし」という排他的な利己主義の弁解としてもっともらしく使われている風潮に問題があるのです。

個人ではどうしようもない苦の種が世の中にはたくさんあります。

たとえばヒロシマ・ナガサキに落とされた原爆によって被爆した方々にそれは当て嵌まるでしょうか。

水俣病で苦しむ人々は「自己責任」なのでしょうか。

福島原発で故郷を奪われた方々も同様でしょうか。

その苦しみは個人が撒いた種ではなく、一部の権力者達が撒いた種です。

「自己責任」というならば、それらが被害者の方々の苦しみを全面的に引き受けるべきでしょう。

しかしながら、その文脈では「自己責任」は語られません。苦悩の果を引き受ける個人が「自己責任」という言葉で、本来ならば、因を撒いた権力者達が負うべき責任から分断されて、孤独に苦しむのです。

今、日本の自殺者は年間3万人ほどで高止まりし、世界トップクラスの比率です。中でも中高年の割合が高く、残された遺書の七割ほどに「すみません…」という言葉が記されているといいます。「生きることができないのは自分が悪いのだ」と思わされるような社会。気力を失い弱り切った人々に対してでさえ、最終的には「自己責任」として結論付け、非常に辛い立場を強いるのが、この社会の現状ではないか。

そんな日本に未来の幸せを展望できるのか?生まれ来る子供達を託せる社会と言えるのか。

 これまでのように「楽」を求めて、ひたすらそれを得ることが人生の幸福と位置付ける社会は終焉を迎えました。それは経済成長が行き詰まる先進国の宿命でしょう。様々な問題で苦しみが蔓延するこの社会で必要とされているのは「共苦」である。「共楽」の方向性は、限られた冨の奪い合いの中から、一部の「勝ち組」をつくり出し大多数の人間を「負け組」と損なっていく。社会が本来「共生」であるということに立ち返るならば、「共生」する全ての人間の尊厳を損なわない社会、つまり苦しみに共感し和らげるような方向性こそが、未来ある社会ではないか。

「共苦」という意識、それが日本「共生」の未来を担っている。

 と、大分自分勝手に内容を解釈していますが、こんな印象でした。

仏教では「慈悲」ということを非常に大切にします。なぜなら、仏の「慈悲心」が我々衆生救済の根本原理となっているからです。特に「慈悲」の内「悲」はサンスクリット語の「カルナー」を原語としており、苦を抜くという意味だそうです。人間の苦悩に目を向けて来た仏教と、姜尚中さんの「楽」ではなく「苦」を語る、時代を見通した鋭敏なまなざしが重なり、感服しつつ聴講させて頂いた次第です。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 驚きました!6/14の山陽教区750回御恩忌にご縁をいただき姜尚中さんの講演を拝聴しました。あの穏やかな語りの中に在日2世として『母・・・オモニ』の文中に描かれている
    悲しみが思い出されました。2部の対談は時間の関係でスル-しましたので、副住職様の
    聴講記事を興味深く読ませていただきました。
    人の苦しみは根本的には理解しがたく自分の苦しみも・・自分の蒔いた種は自分で刈り取って行くしかない・・と私たちの年代は、もがいて日々を過ごしているのが現実と思います。やれやれと1つ荷をおろせても又、別な荷を背負込む明け暮れで娑婆との縁の切れるまで仕方ない(なげやりではありませんが)と思ってます。自分ではどうしょうもない時に
    フッと力を抜いてみると見えて来るものがあるのも事実です。任せるも大切な事ですね。

    • コメントありがとうございました。
      当日、あの場にいらっしゃったんですね。
      人が多かったので気づきませんでしたが、案外近くに座っていたかもしれませんね(笑)。
      姜尚中さんの「共苦」という提言は、「楽」の方向にしか目を向けない行き詰った世の中の意識の在り様を転換させようという試みであるように感じました。
      しかしながら、「人の苦しみは根本的に理解しがたく」というのは、本当にその通りだと思います。
      無量寿経に「独生独死独去独来」という御文がありますが、誰にも代わってもらうことの出来ないこの身ひとつで「苦」を引き受けていかねばならないのが、私たち一人ひとりの事実でしょう。
      ですから、「共苦」という言葉も、ある面から言えば理想でしかないようにも思えます。
      ところで、浄土真宗は、その「苦」から解放されることが、人間の幸せであると説いてはいません。
      こんなお話があります。
      父殺しという重罪を犯したアジャセ王は、自らの罪によって地獄に堕ちることを恐れ、身心を病んで、体中から膿を発するという奇病に侵されました。
      しかしながら、お釈迦様の説法により、如来大悲の本願(あなたを仏に成らせなければ、私も仏になりませんという、絶対の救いの誓い)を知らされ、罪の凡夫である自らの心中に決して芽生えるはずのない信心―仏の願いが生じた時、「人々の身代わりとなって、地獄に堕ちてその苦悩を受けようとも、私はそれを苦しみとしない。」とまで口にします。
      地獄を一番恐れていた者が、地獄に堕ちても構わないと言うのです。
      苦しみから離れるのではなく、逆に苦しみを引き受けても構いませんというような立場、それを恵まれるのが浄土真宗のみ教えではないかと思います。そして、そこに本当の意味での「共苦」もあるのではないか。
      実際を言えば、私の心情としては、苦しみなんか御免であります。しかしお釈迦様が「一切皆苦」と法印を建てられたように、多かれ少なかれ苦しみから逃れられないのが凡夫の人生ということでしょう。そこにあらゆる苦悩を引き受けても構わないという立場が開かれる。
      勿論、ただの凡夫としてではなく、如来大悲にお任せした凡夫の立場として。

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