先日(6/14)、平和公園国際会議場で姜尚中さんの講演会が開かれ、引き続き木越康(大谷大学教授)さんとの対談がありました。
この講演会は、東本願寺の広島地区寺院の集まりが、親鸞聖人750回御恩忌を記念して企画したものです。
講題は「〈共苦〉から〈共生〉の未来へ―広島・水俣・福島が問いかけるもの―」。
ところで「共生」という言葉には馴染があるのですが、「共苦」は耳慣れない言葉です。開けば「苦しみを共に分かち合う」という意味でしょうか。何となく気の重くなる言葉でもあります。しかしながら、「共苦」こそが、これからの日本人を支えていく大切なキーワードであると、お話が展開されていきました。
以下は私が講演と対談を聞いて受け取った内容の一部について自分勝手な感想を記します(誤解しているところがあればスミマセン・・・)。






コメント
コメント一覧 (2件)
驚きました!6/14の山陽教区750回御恩忌にご縁をいただき姜尚中さんの講演を拝聴しました。あの穏やかな語りの中に在日2世として『母・・・オモニ』の文中に描かれている
悲しみが思い出されました。2部の対談は時間の関係でスル-しましたので、副住職様の
聴講記事を興味深く読ませていただきました。
人の苦しみは根本的には理解しがたく自分の苦しみも・・自分の蒔いた種は自分で刈り取って行くしかない・・と私たちの年代は、もがいて日々を過ごしているのが現実と思います。やれやれと1つ荷をおろせても又、別な荷を背負込む明け暮れで娑婆との縁の切れるまで仕方ない(なげやりではありませんが)と思ってます。自分ではどうしょうもない時に
フッと力を抜いてみると見えて来るものがあるのも事実です。任せるも大切な事ですね。
コメントありがとうございました。
当日、あの場にいらっしゃったんですね。
人が多かったので気づきませんでしたが、案外近くに座っていたかもしれませんね(笑)。
姜尚中さんの「共苦」という提言は、「楽」の方向にしか目を向けない行き詰った世の中の意識の在り様を転換させようという試みであるように感じました。
しかしながら、「人の苦しみは根本的に理解しがたく」というのは、本当にその通りだと思います。
無量寿経に「独生独死独去独来」という御文がありますが、誰にも代わってもらうことの出来ないこの身ひとつで「苦」を引き受けていかねばならないのが、私たち一人ひとりの事実でしょう。
ですから、「共苦」という言葉も、ある面から言えば理想でしかないようにも思えます。
ところで、浄土真宗は、その「苦」から解放されることが、人間の幸せであると説いてはいません。
こんなお話があります。
父殺しという重罪を犯したアジャセ王は、自らの罪によって地獄に堕ちることを恐れ、身心を病んで、体中から膿を発するという奇病に侵されました。
しかしながら、お釈迦様の説法により、如来大悲の本願(あなたを仏に成らせなければ、私も仏になりませんという、絶対の救いの誓い)を知らされ、罪の凡夫である自らの心中に決して芽生えるはずのない信心―仏の願いが生じた時、「人々の身代わりとなって、地獄に堕ちてその苦悩を受けようとも、私はそれを苦しみとしない。」とまで口にします。
地獄を一番恐れていた者が、地獄に堕ちても構わないと言うのです。
苦しみから離れるのではなく、逆に苦しみを引き受けても構いませんというような立場、それを恵まれるのが浄土真宗のみ教えではないかと思います。そして、そこに本当の意味での「共苦」もあるのではないか。
実際を言えば、私の心情としては、苦しみなんか御免であります。しかしお釈迦様が「一切皆苦」と法印を建てられたように、多かれ少なかれ苦しみから逃れられないのが凡夫の人生ということでしょう。そこにあらゆる苦悩を引き受けても構わないという立場が開かれる。
勿論、ただの凡夫としてではなく、如来大悲にお任せした凡夫の立場として。