淨寶寺の歴史

 淨寶寺の山号は飛諏訪山(ひすわざん)と言います。開基の淨頓は広島県高田郡吉田町、福泉坊第三世住職祐慶の弟です。はじめ、淨寶寺は広島県山県郡荒神原村の日野溝にありましたが、その後、毛利元就が吉田居城の時、吉田の飛諏訪というところに移りました。そして、慶長年間(1596~1615)に広島城下の中島に移転したようです。

 今でこそ、中島の平和公園には人の住む家は一軒もありませんが、昔はたくさんの家が軒を並べ、特に明治、大正時代から、昭和のごくはじめまでは広島の繁華街でした。商店が並び、映画館や喫茶店、飲食店、玉突き場などがあり、多くの人々が生活を営んでいました。

 しかし、1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、たった一発の原子爆弾が、淨寶寺もろとも中島の全てをー広島の街全体を焼きつくしたのです。

 (その後の淨寶寺の歩みは、「原爆」をご覧ください)

                       昭和初期の淨寶寺