先日(11/28)、本願寺広島別院において、安芸教区広陵東組第2期連続研修会が開催されました。
別院?連続研修?何それ?という方が殆どだと思いますので、説明しますと・・・
本願寺広島別院というのは浄土真宗本願寺派本山(京都の西本願寺)の広島支社のようなお寺のことです。
安芸教区の教区とは、行政で言うところの都道府県区分。本山が全国の浄土真宗本願寺派寺院を地域毎に区分けした単位です。広島県の西半分は「安芸の国」と呼ばれていたので、安芸教区。
広陵東組の組。これは「くみ」ではなく「そ」と読みますが、教区が都道府県ならば、組は市町村といったところ。旧広島市内の東部を中心とした寺院組織です。
わが淨寶寺は、行政の住所で言えば、「広島市中区大手町」の所在となりますが、本山からすれば、「安芸教区広陵東組」となります。
そして、その広陵東組の寺院は全部で48ヶ寺。全国でも屈指の寺院密度です。
広島は古来より「安芸門徒」(門徒とは浄土真宗の信者を指します)として、一目置かれてきました。それだけ信仰の篤い土地柄。故にお寺の数も多いというわけです。
さらに言えば、広島市内は原爆によって壊滅。当然、市内中心部のお寺の殆ども灰燼に帰しました。
それでも、多くの寺院が復興し現在に至ります。「安芸門徒」の尊敬すべき底力と言えましょう。
話がだいぶそれましたが・・・
「連続研修会」というのは、ざっくり言えば「話し合い」のことです。
現代社会や個人が抱えている諸問題をテーマに掲げ、自由に発言し考えを深めていきます。
「?。そんな話し合いは、何もお寺でしなくとも、学校・職場・テレビタックル・・・色んなところで為されているじゃないか。」
そう、その通り。しかし、「連続研修会」の独自性をあげるならば、常に仏教の教えに照らし合わせながら、話し合い考えていくところにあります。
一般の話し合いは、議論や討論を通して最善の実践的な対応策を導き出すことを目的とする、理性的な行為ですが、仏法ではその理性そのものを妄念の産物として扱うようなところがあります。
ですから、「連続研修会」は議論を止揚していく方向性とは異なり、うーん、なんと言えばいいんでしょう・・・
色んな問題を仏法に訊ねて考えて行く過程で、それまでの思い込みが打ち破られたり、見向きもしなかった事柄に気付かされたり・・・そう、寝ぼけ眼でいるところを、バチンと手を打たれ、ハッと目覚めるような内面の気づき。今まで暗闇に埋もれていた心の内面を、仏法という光によって照らされ初めて知らされるような驚き。そんな心のはたらきに注意を向け、深く掘り下げてていく、それが「連続研修会」の方向性ではないかと思います。
と以上は自分で勝手に思ってることで、本山の提示する「連続研修会」の意味は、
●自らの生き方の確立をめざすもの
●自他ともにいのちかがやき、心豊かに生きる道を求め続ける
●当てが外れても、思いが叶わなくても、自分を見失わない生き方
●ゆるぎない安心を土台に、このままの自分と社会ではいられなくなる積極的な生き方
このようなことが提示されています。まあ、これも抽象的な言い回しですので、よく分かったとはいきませんが、すくなくとも「連続研修会」は、参加した人が議論を闘わせて相手をやり込めた人が勝ち、というものでは決してありません。
話し合いをしてく中で、話がまとまらなくても、結論がなくても、仏教を全く知らなくても、話したくなくてずっと黙っていても、構いません。参加する人のどのような態度も尊重され、受容される場です。
大切なのは、参加されたお一人お一人が、仏法を通じた話し合いによって少しでも多くの気づきがもたらされるということ。その気づきの分だけ人生が深く、尊く、輝いてくる。そんな風に思っています。
と、一体何を言いたいのか・・・
ここまで読んでくださった方、すみません。
ところで、
こんな感じで話し合いをさせて頂きました。
淨寶寺からも4名の方が、今回の「連続研修会」に参加下さっております。
また機会があれば、「連続研修会」について触れてみたいと思います。







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