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素晴らしき世界

 先日、公開中の映画「素晴らしき世界」を観て来ました。主演は役所広司。刑期を終えて社会復帰を目指す、中年元ヤクザの悲哀を見事に演じておられ、幾度も涙を誘われました。

 

(※以下あらすじ。ネタバレ注意!!)

 元極道の三上は純真な人柄だけれども口よりも手が先にでてしまう直情型の性格で、人生の半分を少年院と刑務所で過ごしてきました。映画は殺人罪(しかし三上に言わせれば、先に日本刀で襲ってきた相手が悪い)の刑期を終え、13年振りにシャバに出てくるところから始まります。
50半ばを過ぎ、今度こそカタギで生きようと誓う三上。後見人やケースワーカーなど、社会復帰を親身になってサポートしてくれる人たちの優しさに触れ、思わず男泣きする三上ですが、世間の偏見の壁は厚く、しばしば挫折します。
劇中の会話によれば、結局、刑務所出所者の約半数が社会に居場所を見つけることが出来ず、犯罪に手を染め刑務所に戻ってくるそうです。三上も容易に受け入れて貰えない社会に絶望し、ついにかつて兄弟の盃を交わした組長のもとへ向かいます…

 前住職(諏訪了我)は約40年近く広島刑務所と広島拘置所で教誨師の活動を続けてきました。教誨の過程で受刑者からよく聞く言葉は、「刑務所から出たものに対して、世間の目が厳し過ぎる」ということだったそうです。それに対して前住職は、「それは当たり前のことだ。人間というものは自分に対して甘いが、他人に対しては厳しい目で見る。いわんや犯罪者に対しては特に警戒心を持つものだ。だから、それをクリアーしていこうと思えば、よほどの強い意志を持ち、努力していかねば受け容れては貰えない。世の中は甘くない。」そう戒めていたということです。そして、「刑務所に出たり入ったりしてだんだん齢をとっていく自分自身の人生をどう思うか。かけがえのない人生を無為に過ごして一生を終わるのは、何とも情けないではないか。今刑務所にいるのだが、一般社会にいては出会えない教誨の場が、もし自分を問い直す機縁になれば、今刑務所にいることが決して無駄にはならない。失敗しないことは立派だが、失敗から立ち直ることができれば、更に立派なんだ。」と励ましていました。
これはまさに主人公三上が聴くべき言葉であり、また、日々を忙しさにかまけて無自覚に過ごしている私自身が耳を傾けねばならない言葉でもあるように思います。

 

 映画を観ながら、ふと思い出した話があります。宮沢賢治の『よだかの星』という童話です。
よだかは姿がみにくく、他の鳥たちから嫌われ馬鹿にされています。ある時、よだかは鷹に絡まれて名前を変えろと脅されます。よだかが鷹の仲間と思われるのが気に入らないのです。さもなければ殺してしまうぞと凄まれ、よだかはすっかり落ち込んでしまいました。
その夜、よだかはいつものように餌を求めて飛び立ちます。口を開けると沢山の羽虫が入ってきます。そして一匹のカブトムシが喉にひっかかり、しばらくバタバタとしたのを無理やり呑み込んだ時です。突然よだかは大声をあげて泣き始めました。自分は何も悪いことをしていないのに、皆から嫌われ、果ては鷹に殺すとまで言われた。しかし、こうやって自分は毎晩、沢山の羽虫やカブトムシを殺している。よだかは自らの罪業性に気付いたのでした。もう虫を殺すのはやめよう。そして鷹に自分を殺させることもやめよう。よだかは住処を離れ遠い空の向こうへと去っていくことを決意するのでした。

 

 「すばらしき世界」を観て感じたことは、登場人物が善でも悪でもない描かれ方をしているということでした。皆、身の周りの事情を抱え、本人の意志で動いているというよりは寧ろ、運命に翻弄されているかのようです。場合によって強者が弱者となり、弱者が強者となる。そんな視点の移り変わりが話の進行に厚みを持たせていたように思います。
皆、正しいと言い切れないものを抱えている。そんな視点に立った時、私達は「偏見」という偏狭な世界から、一歩踏み出せるのではないでしょうか。

 

寺報「淨寶」第630号 令和3年3月1日号より

平和公園レストハウス リニューアルオープン

昨年往生した前住職諏訪了我がライフワークとして長年携わり続けたものの一つに「被爆建物の保存運動」があります。特に、平和公園内のレストハウス(元大正屋呉服店)は、淨寶寺も所在した旧中島本町の中、唯一現存する被爆遺跡として、往時を偲ぶよすがとなっています。

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原爆時、燃料会館と呼ばれていたレストハウスは、天井が大破し窓も吹き飛び内部は炎上しましたが、建物が倒壊することはありませんでした。そのため、たまたま地下で書類を探していた野村英三氏ただ一人が奇跡的に生き残ることが出来たということです。戦後は改修され「市東部復興事務所」として、広島の復興に貢献し、その後は平和公園のレストハウスとして利用されてきました。原爆を耐え忍び復興を象徴する被爆建物、それがレストハウスの戦後の役割であったと言えます。
ところが平成7年、広島市は突如としてレストハウス地上部分の解体を発表します。その理由は、耐震性の問題、そして原爆遺跡は原爆ドームがあれば良い、というものでした。この発表は国内外で波紋を呼び、文化庁やユネスコからも保存を求める意見が出されました。結局、市は平成10年、事業の延期を決めましたが、解体の懸念がなくなったわけではありません。そこで前住職も所属した「原爆遺跡保存懇談会」は、レストハウスを爆心地の被爆の実相を伝える資料館として、また平和公園が元々は人の住む街であった事を伝えるメモリアルセンターとして再生するよう市に訴え続けて行ったのです。
そのレストハウスがこの度、耐震改修工事を終えてリニューアルオープン致しました。残念ながら前住職はその姿を見ることは叶いませんでしたが、レストハウスは広島復興の象徴として平和公園にとどまり続けることとなりました。前住職の念願が結実したのです。

本年、令和2年6月30日、翌日7月1日のリニューアルオープンに先立って内覧会が開かれました。

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入館すると中は見違えるようでした。一階は土産物売り場、二階はカフェと今風のおしゃれな装いで、展示された被爆ピアノを除けば以前の前時代的な風情は殆ど消えていました。

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あくまでレストハウスとしての機能を重視したのでしょう。全館空調にエレベーターと整備され非常に快適になりましたが、往時の面影は保存展示された元安川側の天井・階段と地下室を留めるのみになったようです。

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三階は前住職達の希望通り、旧中島地区のメモリアルスペースとなっていました。

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町の成り立ちから繁栄、そして戦中の様子などがパネル写真や映像を使って展示されています。中心には街のミニチュア模型がありました。

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「原爆は人の住んでいない公園に落とされた」平和公園を訪れる観光客の中にはそんな誤解をする人もいます。しかしながら、これらの展示によって改めて原爆の非人道性が明らかに示されることでしょう。
展示の最後には、これからの取り組みとして様々な継承活動が紹介されています。以前この寺報でも触れた、戦前戦中の写真をカラー処理して過去を鮮明化するプロジェクト「記憶の解凍」が一番に展示されており、取材を受ける前住職の姿がパネルに映っています。淨寶寺が提供した写真も数点、展示に上がっています。

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ところで、リニューアルしたレストハウスの一番の見どころは、やはり爆心地より超至近距離ながら唯一の生存者を出した地下室でしょう。剥き出しのコンクリート柱や壁は、野村英三氏の生々しい被爆体験談のパネルと共に、当時の惨禍を想起させます。

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平和公園にお越しの際は、是非レストハウスにもお立ち寄り頂き、亡き前住職の思いに触れて頂ければ幸甚に存じます。

ANT-Hiroshima 被爆証言と医科学的解説シリーズ 第3回「原爆投下直後から約1ヵ月、救護活動に従事した11歳と13歳の少女たち」

●日時 2019(令和元)年8月24日(土)

     13:30~16:00(13:00会場)

●場所 広島平和記念資料館地下メモリアルホール

※事前申込不要/参加無料

原爆投下時より、被爆者は何を見、どう生き抜いて来たのか。その貴重な証言を医科学的解説を交えて学んでいく「被爆証言と医科学的解説シリーズ(全4回)」。

被爆には直接被爆以外にも様々なケースがあります。

例えば、直接被爆はしなかったものの、原爆後、家族や親戚の消息を求めて広島の街に入り、残留放射線や放射性物質によって被爆した「入市被爆」。

同じく直接被爆はしなかったものの、被爆者の救護活動を行う中、衣類等に付着した残留放射性物質を吸い込むなどして体内被爆した「救護被爆」。

また、母親の胎内で被爆した「胎内被爆」などがあります。

第3回目は「救護被爆」にスポットを当て、原爆当時、それぞれ大林(広島市安佐北区)、大竹市で被爆者の救護活動に当たった二人の女性の証言に、長年に亘り被爆者救済のために尽力されてきた、鎌田七男医学博士(広島大学名誉教授)が解説を加えます。

時間の経過と共に、被爆証言を聴く機会は年々稀少化し、記憶の風化が危惧されています。惨劇を二度と繰り返さないためにも、一人でも多くの方々が原爆の実相を学び継承していくことを願っています。

被爆地広島より世界へ平和を発信する、特定非営利活動法人「アント・ヒロシマ(ANT-Hiroshima) 」(渡部朋子理事長)の主催です。

第3回被爆証言と医科学的解説シリーズチラシ

ANT-Hiroshima 被爆証言と医科学的解説シリーズ 第1回「爆心地から540mで被爆した少女」

「爆心地から540mで被爆した少女」

●日時 2019(平成31)年2月16日(土)

     13:30~16:00(13:00会場)

●場所 広島平和記念資料館地下メモリアルホール

※事前申込不要/参加無料

原爆投下時より、被爆者は何を見、どう生き抜いて来たのか。その貴重な証言を医科学的解説を交えて学んでいく「被爆証言と医科学的解説シリーズ(全4回)」。

第1回目は爆心地より540mの至近距離で被爆し左目を失った寺前妙子さん(当時15歳)の証言と、長年に亘り被爆者救済のために尽力されてきた、鎌田七男医学博士(広島大学名誉教授)による解説です。

時間の経過と共に、被爆証言を聴く機会は年々稀少化し、記憶の風化が危惧されています。惨劇を二度と繰り返さないためにも、一人でも多くの方々が原爆の実相を学び継承していくことを願っています。

被爆地広島より世界へ平和を発信する、特定非営利活動法人「アント・ヒロシマ(ANT-Hiroshima) 」(渡部朋子理事長)、渾身の企画。

ぜひご聴講下さい!

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全戦争死没者追悼法要~前住職が法話します

来る、平成30年7月7日(土曜日)、中区寺町の本願寺広島別院において、「平和を願う念仏者の集い」が開かれます。

午前の部は「平和を語る集い」。広島平和記念資料館館長、志賀賢治氏が「記憶の継承」と題して講演されます(午前10時から)。

そして午後の部は「全戦争死没者追悼法要」。読経の後、当淨寶寺前住職諏訪了我が、法話を致します(午後1時から)。

前住職が公の場で法話するのは一年半ぶり。引退後、高齢(85歳)のため殆ど法務(僧侶の仕事)は行っておりませんでしたが、自身、原爆孤児として「平和のためにお役に立てるのなら」と講師をお引き受けさせて頂いた次第です。

有縁の皆様のご参拝を心よりお待ち申し上げます。

 

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スリランカ滞在記(42)

激しく水しぶきを上げる渓谷の急流も、やがて緩やかな流れとなり、凪いだ海へと導かれていく。

自然の摂理であります。

一昨年の九月より始まった「スリランカ滞在記」も、当初は激流の如く回を重ねておりましたが、次第に大河の流れのように緩慢な更新となり、今や川で申すならば河口部辺りというところでしょうか。海流と川がぶつかり流れが停滞している…そんな風にこの滞在記をイメージして頂ければいいんじゃないんでしょうか。

と、滅多に更新されなくなった理由を母なる自然の摂理になぞらえてご説明申し上げたところで、まいります!42回目。

私は、本滞在記最大の目玉にして目標、あの「怪物」法顕三蔵もご覧あそばされたという、スリランカの至宝「仏歯」を目前にしながらも、厳重かつ荘厳な仏殿の守護に阻まれ、志半ば撤退を余儀なくされたのでありました(スリランカ滞在記40)。

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しかし、ここは日の本の国より7500㎞彼方の地。二度、三度と足を運ぶ余裕など考えられません。法顕三蔵の如く何かしらの成果を持ち帰らねば・・・

と、力んでも仕方ないし、この研修旅行の団体にとっても仏歯寺にとっても迷惑な意気込みなので、一観光客に戻って大人しくガイドさんの案内についていきます。

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ここは先ほどの仏殿の裏の伽藍、たくさんの仏像がご安置されています。

そして、写真上部をご覧ください。柱と梁の間に金のゾウさん。

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ご本尊付近にはゾウの牙で装飾、或いは護られているようです。

仏歯寺とゾウは切っても切れない関係なんでしょう。

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同じ伽藍、ご本尊の反対側、何やら黄色いロープで結界が張られています。中には色とりどりの、ふとん?

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関係者らしき方が、まめまめと立ち働いています。

ガイドさん、あのふとんみたいなの何ですか?

ガイドさん「ふとん?(はあぁ?という感じで)、違うよ、アレ衣装ネ。」

私「衣装?何のですか?」

ガ「ペラヘラ祭りで使うノヨ。」

私「へえ~」

とガイドさん多少お疲れ気味か、何となく素っ気ないので、へえ~、と言って済ませた私。しかし一体だれが何故着るのか実は気になります。ともかくも、仏前に集められていることからすれば、聖なるものであることには違いないでしょう。やはり「ペラヘラ祭り」か。字面だけ見るとかなりユルいお祭りがイメージされますが、実は神聖なものであることが窺えます。

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さて、伽藍を後にして、我々一行は屋外へと出ました。大きくて長~い屋根の下、夕暮れ近い陽の光が柔らかく射し込んでいます。人々は寝ころびくつろぎ、あくびが聞こえてきそうです。休憩所かな?って思ったら、前方でガイドさんの「集会所ネ」という声。かつてここで重大な会議を開いたそうです。筒抜けか。

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集会所のそばでは、子供たちが何やら怪しげなものをいじっています。フラフープのようではありますが、円の真ん中を仕切るように棒が付いています。そして周囲には薄汚れたお手玉のようなものが等間隔で配置されているという、実に奇妙なもの。スリランカの子どもたちにとっては定番の遊び道具か。しかし遊んでいるというよりもメンテしているという感じです。その不可解さは、ふしぎ発見のラストミステリーにできそうなほど。これらも「ペラヘラ」的なものなのでしょうか。

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夕涼みをしている家族連れと目が合いました。カメラを向けると子供らが手を振ってくれました。どこの国の子供も、邪気なく愛嬌溢れ、かわいいものです。

陽は沈みつつあります。これから我々一行は「仏歯寺」を離れ、キャンディ最初の拠点「ピザハット」へと戻ります。

そしてそこで、これまで綴った「ペラヘラ」の謎が次々と回収されていく様を、我々は目の当たりにするのでした。

(続く)

 

 

スリランカ滞在記(41)

前回、5月の更新から約4ヵ月。季節は移り変わり、新緑から梅雨、猛暑を経て、朝夕の風に秋を感じる今日この頃となってしまいました。もう何人も続きを期待していないであろう「スリランカ滞在記」。なぜ長期に亘り休止していたのか?その理由は闇に葬りつつコッソリ更新させて頂きます。

さて、二年前の八月下旬、我ら一行はスリランカはキャンディー「仏歯寺」に在していたわけですが、その仏歯寺について興味深いエピソードが、現在読み進めている本に記されていたので少し触れてみたいと思います。

『明恵 夢を生きる』河合隼雄 著(講談社+α文庫)

これは親鸞聖人と同時代を生きた、華厳宗の名僧、明恵上人の遺した「夢記(ゆめのき)」に、ユング派の分析心理学者、河合隼雄氏(故人)が着目し、明恵上人の夢を分析して様々な考察を加えたものです。河合先生は史実と「夢記」を照らし合わせながら、はるか800年近く前を生きた人物の心の動きを鮮やかに生き生きと蘇らせてゆかれます。

そして、この本によると、ユングも「仏歯寺」を訪れたことがあるというのです!

その時のユングの体験が載せられています。

「私が岩の入口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり、私はすべてが脱落して行くのを感じた。私が目標としたもの、希望したもの、思考したもののすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。この過程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものはいくらかはあった。それはかつて私が経験し、行為し、私のまわりで起こったことのすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあるような実感であった」(同書180P)

私の感想としては、仏歯寺に入ろうとしたその瞬間、あらゆる妄念が吹き飛ばされ、ただ事実のみが残るという、言い換えれば純粋な「あるがままの自分」を、ユングは体験したのではないか。その過程がきわめて苦痛であったというのは大変気になるところですが、妄念が消失した状態は仏教的に言っても非常に高い精神的境地と言えます。

(※注意!㊤は素人が自分勝手に解釈して憶測で言ってます)

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ユングの言う「岩の入口に通じる階段」と思われます。この辺りでユングは劇的な精神体験をしたのでしょう。(※注意!本当にココかどうかは分かりません)

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そしてこれが「岩の入口」。

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この通路を経て、「仏歯」の収められた仏殿へと至ります。IMG_7274_1600

こうやって改めて写真を並べてみると、「お釈迦様の口の中に入って仏歯に対面する」という感じがしないでもないですねえ。

この構造の神秘さに、世界的大学者の感性と直感が鋭く反応したのかも知れません。

ところで、私も当然のことながら、ユングと同じ道筋を辿ったと思われるのですが、「劇的な体験」は・・・

一切ありませんでした。残念と言えば残念、しかしながら妥当と言えば妥当。

という、ちょっと番外編的なお話でした。

【続く】

 

 

 

平和之観音

原爆投下から72年回目の8月6日を迎えた本日、例年通り「中島平和観音会」主催の「旧中島本町原爆犠牲者追悼法要」をお勤めさせて頂きました。

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平和公園はかつて「中島地区」と呼ばれ、六つの町からなり、4400名の住民が生活を営んでいました。

淨寶寺もその町のひとつ「中島本町」にありました。

そして、原爆の爆心地より至近距離にあった「中島地区」は全滅、戦後の都市計画によって焦土は整備され「平和公園」に姿を変えます。

しかし全滅したとは言え、故郷は故郷。旧中島本町の住民方は往時を偲び、60年以上に亘って追悼法要を営んで来られたのです。

そのアイコン的役割を担ってきたのが、平和公園の一角にある「平和之観音」像であり、「旧中島本町原爆犠牲者追悼法要」も、このモニュメントの前で執り行われます。

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ところで、この「平和之観音」像について、過般、君島綾子さんという文化科学の研究をされている学者さんが論文を執筆されました。君島さんは関東にお住まいですが、三年間に亘って、この追悼法要を訪れ、綿密な現地取材を重ねておられます。

 それによると、この「平和之観音」像が五つの大きな背景を持っていることが分かりました。

①旧中島本町の住民から集められた、かなりの金額の寄付金によって建てられたということ。

②それは未だ、平和公園の土の下で眠っている原爆犠牲者のご遺骨のためであり、

③また北西の方角に向かって建てられているのは、その先にある「原爆供養塔」に収めらた、原爆犠牲者のご遺骨を想ってのこと。

④そして、原爆によって失われた「中島本町」の記憶をとどめるためでもあり、

④さらに、子供たちの未来と繁栄、平和な世界への願いが込められている。

 論文では、平和公園内の他の町や記念碑での追悼法要は原爆50回忌を節目に多くが終了してきた中、旧中島本町の追悼法要は未だに継続していることに注目していますが、それは「平和之観音」像の背景に非常に強い想いと願いが込められているからなんですね。

 そして法要の継続は、やがて「旧中島本町」の復元地図運動に繋がり、新たに加えられた「復元地図碑」、「原爆犠牲者碑」と共に、「日常のすべてが奪われる原爆の」恐ろしさを伝える「記憶継承」の重要な場になったと論じられております。

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 つまり、この「平和之観音」像は単なる旧中島本町住民の祈りの場としてだけでなく、未来へと原爆の記憶を継承し平和を希求してやまない祈りの場として、平和公園を訪れる世界中の人々に訴えかける普遍的な役目を帯びつつあるということです。

「中島平和観音会」、君島さんの論文を通じて、この灯を決して絶やしてはならないと改めて思った次第です。

 

スリランカ滞在記(40)

前回、「スリランカ滞在記(39)」において、我々一行は、ついにスリランカの魂ともいうべき「仏歯寺」を足を踏み入れ、そして、その心臓部ともいうべき「仏歯」が秘蔵されている仏殿の前へと辿り着いたのでした。

(仏歯については「スリランカ滞在記(23)」をご参照下さい)

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あの黄金に輝く扉の向こう側に、スリランカの精神的中枢がある。ようやく我々はこの旅の核心へと、今まさに到達しようとしているのです・・・

と、ここまで進んだ「スリランカ滞在記」ですが、以後、今日に至るまで2ヵ月以上放置状態。諸般の事情(主にヤル気の問題)により停滞しておりましたけれども、遂に記念すべき40回目を数えました。

思えば、今から1600年ほど前、還暦を過ぎて中国から印度へと仏典を求め旅立ち、その素懐を遂げた後も、さらなる仏典を求めて単身スリランカへと渡った僧、法顕三蔵。

そして、スリランカの伽藍の玉像に商人のもたらした祖国の扇が供えてあるのを目にし、思わず望郷の念に駆られ悲嘆の涙を流した法顕三蔵。

超人的な体力と知力を持ちながらも、情に厚く涙脆い人間的な法顕三蔵に惹かれ、いつかはスリランカを訪れてみたいと密かに希望を抱いておりましたが、遂に「スリランカ滞在記」第40回目にして、その法顕三蔵が実際に見て礼拝したという「仏歯」を目の当たりにしようとしているのです。

かつて法顕三蔵は、釈迦が法を説いた印度の霊鷲山に登り、その名残を偲んで泣いたといいます。私も「仏歯」を前にし、1600年前の高僧を偲んで涙を流すこととなるのでしょうか・・・

しかしながら、聖なる「仏歯」は扉の向こう側。そして扉が開かれる時刻は毎日決まっており、今はその時に非ず。しかたなく私は、この仏殿の周辺を調査することにしました。

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先ほどの写真は二階です。㊤写真は階段を降りる途中で撮影したもの。中央奥にある建築が仏殿です。つまりこのお寺は入れ子のような構造になっており、その中心部に「仏歯」を納めた仏殿が建てられているのです。

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仏殿一階部分。巨大な像の牙が守護神のように侵入者を阻み建物を守っているように見えます。

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仏殿側面の写真。建物の中に建物があるという入れ子のような構造がお分かりになられると思います。

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仏殿は一階が石造りで、二階が木造というハイブリッドな建築となっている模様。

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壁や柱、天井には緻密な模様や絵がびっしりと描かれています。

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「仏歯」が納められている二階部も丁寧に彩色されています。

さすが、スリランカの至宝「仏歯」を納める仏殿。極めて繊細で高度な美意識、豪華絢爛かつ厳かなオーラを放っており、息をのむ美しさです。

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仏殿はどうも三層からなっているようです。いや、それとも一番上の屋根は天蓋(高貴な人の上にさす傘のようなもの)かも知れません。

と、ぐるりと一周してみましたが、なにも収穫はありませんでした。

壁一枚隔てたあの場所に「仏歯」がある。しかし、その壁は箱根のお関所のごとく立ちはだかり、容易に越えられるものではなかったのです。日本からはるばるやってきながら、断念せざるを得ないのか・・・落胆しながら仏殿を後にした私・・・

しかしながら、その後、思わぬ場所、思わぬかたちで、私は「仏歯」と対面することとなるのです。

【続く】

 

 

和太鼓「いろはたまてばこ。」H29門信徒総会

去る4月23日(日曜日)、平成29年度の門信徒総会を開催させていただき、総勢52名のご参加を頂戴いたしました。

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お勤め、各種ご報告と例年通りの次第を経て、お陰様で本年もつつがなく総会を終えることができました。

この後は毎年恒例の余興タイムです。今回は私がお世話になっている笛の先生がメンバーとして所属の「太鼓本舗かぶら屋」より、和太鼓トライアングルユニット「いろはにたまてばこ。」さんにお越しいただきました。

ちなみに平素は女性デュオ「いろはにたまてばこ」としてご活動されているそうなのですが、今回は男性が一人加わったため「。」をつけて「いろはにたまてばこ。」となった模様。果たして「句読点扱い」の人物とは如何様なお人であろうかと、私的に気になるところでありました。

さて、前口上もほどほどに演奏が始まりました。力強くも心地良い太鼓の音が本堂に響きわたります。

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上は私の笛の先生。指がひとより二、三本多いんじゃないかというくらい、複雑な旋律をいともたやすく吹き上げる先生ですが・・・太鼓もすごいんですね(^^;)

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こちらは「いろはにたまてばこ」固定メンバー、もうひとりの女性。軽やかで華麗なバチさばき、心地よいリズムが刻まれます。

そして、最後、この方がトライアングルユニット「いろはにたまてばこ。」中の「。」さんです。句読点扱いであるが故に、相当立場は低いに相違なく、どれほど影の薄い方であろうか、あるいは小柄な方であろか、それともいつも部屋の隅を好み何事かを壁に向かってぶつぶつとつぶやいておられるような「個性的」な方であろうか、などと想像をたくましくしていたところ・・・

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ぜんぜんちがいました・・・三人の真ん中で威勢良くバチを振るい明るく気を放っている高身長のいなせな男性が「。」さんでした。全く想像と真逆・・・なんと「太鼓本舗かぶら屋」さんの代表さんなんだそうです。句読点に甘んじるとは器の大きな人物でありましょう。

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さて、今回の演目は、太鼓はもちろん、歌、踊り、笛と実にバラエティーに富み、会場は大いに沸きました。

驚いたのは太鼓ひとつで多彩な音色を繰り出すバチ捌きです。叩く場所、強弱によって太鼓はめまぐるしく表情を変えてゆきます。

怒涛のリズムを刻んだかと思えば、時にはしっとりと演舞を支える静かな太鼓もあります。そして大太鼓は骨の芯まで響き、血湧き肉躍るとは、このことで眠っている野生(と言っても私の場合、子犬ほどの野生ですが)が目覚めてくるようでした。

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どころで、こちらは「白石踊り」という演目です。岡山県笠岡市白石島に古くから伝わる独特の舞で死者を偲ぶ意味があるそうです。

太鼓の打ち手は、りんの音を奏でつつ詩を口説くという一人三役。その哀愁漂う旋律に合わせて、女性二人が舞います。やわらかく静かな動き。そして、ひらひらと舞う扇はまるで島の風を運んでくるようでした。

なんとこの踊りを修めるため、島へ20年以上も通われているとのこと。力みのない自然で美しい所作は長年の修練の賜物であったのです。

思わず惹き込まれ、終わってみれば、あっという間の50分。聞くところによると「太鼓本舗かぶら屋」さんがライブを開くとチケットは完売してしまうそうです。その素晴らしい演奏を間近で聴けた貴重な機会でした。

ところで、「いろはにたまてばこ。」のみなさん、たいへんな実力者であるにのも関わらず、その姿勢は「謙虚」、「和」の心であります。

総会終了後、演者を見送ったご門徒のお一人が「さわやかな人たちじゃの」とおっしゃいましたが、まさに同感、ほんとうにすがすがしいステージでありました。

蕾コンサート(黒瀬町 徳正寺)―伎楽慈音

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ここは、東広島市黒瀬町、徳正寺の門前。

山門・経蔵・本堂・大玄関・書院と諸堂堂々と備わった、由緒ある浄土真宗本願寺派寺院です。

実は先日3月26日(日曜日)、ここ徳正寺において「蕾コンサート」が開催されました。

「蕾コンサート」とは何か?

まだ肌寒さの残る三月下旬、いつ花を咲かせようかと頃合いを窺いながら膨らませている桜の蕾から、その名が冠されたのでありましょう。

この時期、地元「黒瀬吹奏楽団」定期公演の場として、今年で第10回目を迎えたのであります。

ところで、その徳正寺、ご住職夫妻、その息子夫妻とその孫達に至るまで、全員が音楽を愛好しているという筋金入り。

コンサートは第1部コーラス・第2部雅楽・第3部吹奏楽と盛り沢山の内容ながら、その全てに、ご住職をはじめとする徳正寺一家が所属演奏しており、また遡ればその全ての創設の中心にいらっしゃるのでした。

そして不肖私はと言えば、第2部雅楽に出演した「伎楽慈音」(徳正寺主催の雅楽グループ)の一員として、この地にやってきたという訳です。

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さて、コンサートが始まってビックリ。本堂は超満員!用意した120席では間に合わず、急遽長椅子を追加する始末です。

第1部はコーラス「黒瀬和雅の会」。吹奏楽の生演奏をバックに朗々と歌い上げます。

因みにこの指揮はご住職、コーラス部員にその奥様、そしてバックドラマーに小学生のお孫さん。

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続いて第2部。雅楽は「伎楽慈音」の出番、即ち私の出番でもあります。

楽器の構成は、笙(和音を奏でるコード進行的な役割を担う)・篳篥(主旋律を奏でる、象のパオーンという鳴き声に近い楽器)・龍笛(主旋律に装飾的な音を施す楽器。私の持管です)という基本構成に加え、

鞨鼓(鼓状の鳴り物を両手に持ったバチで打つ、指揮者的な役割を持つ楽器)・太鼓(但し和太鼓のような奥行のあるものではなく、強いて言えばルンバみたいな形)・鉦鼓(ドラを小さくしたような形状で、真鍮製。金属的な音が出る)という打物に、

琴に琵琶と、雅楽においては上級者が演奏する弦楽器が加わりました。

本格派、豪華メンバーです。

因みに、鞨鼓はご住職、琵琶はその息子さんの副住職、太鼓は先ほどのコラースバックでドラムを勤めたお孫さん、鉦鼓は息子さんの奥さんと4名が出演。

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そして、いよいよメインの第三部「黒瀬吹奏楽団」による吹奏楽です。プロやセミプロ、呉の海上自衛隊楽団員もいらっしゃるということで、ハイパフォーマンス!

さらに、巧みな司会進行・シナリオと小ネタ(音楽当てクイズをはさむなど)で、聴衆を飽きさせません。

因みに、ご住職はバスーンで出演、そしてまたもやお孫さんがパーカッションを演奏。正に八面六臂の大活躍です。

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そして迎えた千秋楽、広島では「お約束」或いは「鉄板」のカープ応援歌。

間もなく始まるプロ野球本戦に向けて、しっかり応援しつつ、見事コンサートは締め括られました。

いやー、ほんとうに音楽って、いいもんですね~

と思わず顔が綻ぶ、すてきな時間でありました。

(因みに「蕾コンサート」、入場は無料です)

 

総永代経・春彼岸法座

去る、3月16日、恒例法要「総永代経・春彼岸法座」をお勤めいたしました。

永代経とは、浄土真宗のみ教え(経)が永久(永代)に守られ伝えられていくことを目的として、お亡くなりになられた方やご自身の名前で寺院に布施を行うものです。仏法2500年の歴史、それは人類の至宝ともいうべき教えですが、その仏法を次世代に繋ぐという崇高な行為と言えます。ご進納者のお名前は「永代経台帳」に記名され、それをご縁として、毎年「総永代経法要」をお勤めさせて頂くというわけです。

「春彼岸」、彼岸とは正確には「到彼岸」といいます。仏教では、われわれの住む世界を「娑婆」と定義します。娑婆とは古代インド語「サハ―」の音訳。意訳すれば「忍土」。耐え忍ばねばならない悩ましき世界ということです。そんなわれわれの世界を「此の岸」とたとえるならば、清らかな悟りの世界は「彼の岸」。つまり「到彼岸」とは、悟りに到るということ、即ち仏道修行のことを言います。

ところが浄土真宗には修行がありません。ないというか、人間はあまりに煩悩が激しくて心が汚れているので、何一つ修行が成り立たないのです。それを浄土真宗の開祖親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄一定すみかぞかし」(歎異抄)と告白されています。どんな修行も叶わない身、つまり仏道にすら立てない身、ならばどうしても地獄が私の棲家とならざるを得ないのだと。

しかしながら、そのような地獄行のものをこそ救わんとするみ教えが、本来の仏教でした。「此岸」から「彼岸」へ自力で泳いで渡れる者には救いは必要ありません。溺れるものこそ救いは必要なのです。それを説いたのが「仏説無量寿経」であり、その中核にあるのが阿弥陀仏の「本願」、すなわち仏様の根本の願い、全ての生きとし生けるものを必ず救わんとする絶対救済の誓いです。

ですから浄土真宗における「到彼岸」とは、自力の修行で「彼岸」=「悟りの世界」へ到達するというよりも寧ろ、修行出来ない身がいかに「本願」によって「悟りの世界」へと導かれていくのか、既に仏によって定められているその道筋をお聞かせ頂くことなのです。

つまり「ご法話を聞きましょう」ということですね

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ということで、今年は福岡県築上郡築上町築城、金剛寺前住職、大江智朗先生(85歳)にご講師としてお越し頂きました。

大江先生は私の京都時代の上司であり恩師であります。

あたたかいお人柄の滲み出るお説教は、聞く人を和やかにします。

ユーモアに溢れ、時には鋭く人間の有り様を言い当てるお言葉に皆惹き込まれていきました。

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「地獄に行くものが救われていく。浄土真宗はよろこびの宗教である。皆さん、笑顔になんなさい。」

その笑顔を見たお子さんやお孫さんに、浄土真宗のみ教えは伝わっていくんですよと、お話になられた大江先生。確かにしかめっ面をしていたら、人は寄ってきませんよね。

と、最近むっつり顔の多い自分にとって、貴重な気づきのご法縁でした。