平和之観音

原爆投下から72年回目の8月6日を迎えた本日、例年通り「中島平和観音会」主催の「旧中島本町原爆犠牲者追悼法要」をお勤めさせて頂きました。

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平和公園はかつて「中島地区」と呼ばれ、六つの町からなり、4400名の住民が生活を営んでいました。

淨寶寺もその町のひとつ「中島本町」にありました。

そして、原爆の爆心地より至近距離にあった「中島地区」は全滅、戦後の都市計画によって焦土は整備され「平和公園」に姿を変えます。

しかし全滅したとは言え、故郷は故郷。旧中島本町の住民方は往時を偲び、60年以上に亘って追悼法要を営んで来られたのです。

そのアイコン的役割を担ってきたのが、平和公園の一角にある「平和之観音」像であり、「旧中島本町原爆犠牲者追悼法要」も、このモニュメントの前で執り行われます。

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ところで、この「平和之観音」像について、過般、君島綾子さんという文化科学の研究をされている学者さんが論文を執筆されました。君島さんは関東にお住まいですが、三年間に亘って、この追悼法要を訪れ、綿密な現地取材を重ねておられます。

 それによると、この「平和之観音」像が五つの大きな背景を持っていることが分かりました。

①旧中島本町の住民から集められた、かなりの金額の寄付金によって建てられたということ。

②それは未だ、平和公園の土の下で眠っている原爆犠牲者のご遺骨のためであり、

③また北西の方角に向かって建てられているのは、その先にある「原爆供養塔」に収めらた、原爆犠牲者のご遺骨を想ってのこと。

④そして、原爆によって失われた「中島本町」の記憶をとどめるためでもあり、

④さらに、子供たちの未来と繁栄、平和な世界への願いが込められている。

 論文では、平和公園内の他の町や記念碑での追悼法要は原爆50回忌を節目に多くが終了してきた中、旧中島本町の追悼法要は未だに継続していることに注目していますが、それは「平和之観音」像の背景に非常に強い想いと願いが込められているからなんですね。

 そして法要の継続は、やがて「旧中島本町」の復元地図運動に繋がり、新たに加えられた「復元地図碑」、「原爆犠牲者碑」と共に、「日常のすべてが奪われる原爆の」恐ろしさを伝える「記憶継承」の重要な場になったと論じられております。

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 つまり、この「平和之観音」像は単なる旧中島本町住民の祈りの場としてだけでなく、未来へと原爆の記憶を継承し平和を希求してやまない祈りの場として、平和公園を訪れる世界中の人々に訴えかける普遍的な役目を帯びつつあるということです。

「中島平和観音会」、君島さんの論文を通じて、この灯を決して絶やしてはならないと改めて思った次第です。

 

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