感情

一歳と五ヶ月になる姪っ子は、最近二足歩行に進化して更なる自由を手中にし、いよいよ手が掛かるようになってきました。

目に付くものを手当たり次第に口に入れて、ヨダレまみれにし、異様な執着を見せたかと思うと、次の瞬間には一切の興味を失って、放り投げ、打ち捨てます。彼女の歩いた後には、おもちゃその他が散乱し、さながら嵐に巻き込まれたかのよう。そんな姪っ子怪獣を、私は一歩離れた無責任地帯から誠に可愛いなと愛でているわけですが、大変なのはお母さんです。目まぐるしく千変万化する赤ん坊の感情を読み取って、なだめすかせ、あやし乳を与え、オムツを取り替える。育児とはかくも重労働。

ご機嫌良く笑っていたかと思うと、いきなり顔を歪め泣き出す。あやそうと抱きかかえると全身をバタつかせて、いやんいやんする。仕方ないのでお母さんに引き渡すと、たちどころに涙は引いて天真爛漫の笑みが降りてくる。ふと振り返り、取り立てて変化のない窓の外をじっと見つめ続ける。思い出したように顔をしかめ、何かの思索を始める。その十数秒後には、つい先ほどまで触られるのを全身全霊嫌がっていたはずの私に、遊んでと目を輝かせながら取り付いてくる。まさに七変化。赤ん坊はこうも次から次へと感情が入り乱れるものなのか・・・マグマのように噴き出す様々な感情に、身体が翻弄されているように見え、赤ちゃんも大変だなと・・・まあ、一番大変なのはその赤ん坊に一日中付き合うお母さんなのですが。

しかし、大人といえども己の次から次へと湧き上がる感情に振り回されるのは同じこと。それを赤ん坊よりは比較的抑えることができるというだけのことであって。

親鸞聖人のお師匠法然聖人のお言葉が思い起こされます。

「凡夫の心は物にしたがいて移りやすし。たとえば猿が枝につたうが如し。まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし」

猿が木から木へ枝を伝って移動するように、人の心も一つに定まることなく、次から次へと移り変わっていく・・・人間は、既に赤ん坊の頃から思うさまにならない煩悩を抱え翻弄されているんだなと、今だけは大人しく私の膝の上に座っている姪っ子怪獣の頭を撫でながら思うのでした。

五月の川

 

 近くの川土手の遊歩道。美しい川に新緑が映えます。

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