常行三昧堂(比叡山滞在記)

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さて、ここはどこでしょう?

ヒント?はい、差し上げましょう。

ヒント①・・・ここは山です。

ヒント②・・・遠望する水面は湖です。

ヒント③・・・ブログタイトルを見て下さい。

ということで、ここは京都・滋賀の県境にまたがる比叡山。天台宗開祖、伝教大師最澄師(766~822)が若干22歳にして開いた鎮護国家の道場です。

広陵東組(旧広島市内を中心とした浄土真宗本願寺派寺院組合のようなもの)研修旅行、本年はこの比叡山。

昨年はスリランカであり、その模様は「スリランカ滞在記」としてブログ連載中なのですが、何故か現在36回を数え、未だ終わる気配すらないまま、今年の研修旅行がやってきてしまいました。

昨年の研修旅行と平行して本年の研修旅行の模様をブログにアップするというのも如何なものかと思案致しましたが、「鉄は熱いうちに打て」と申します、比叡山で見聞きした感動が薄れない内にその滞在記をしたためておこう、と、そのような自分寄りな思いで始まるこの「比叡山滞在記」、何回続くか分りませんが、しばしお付き合いいただければ幸いでございます。

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さて、10月某日天候晴れ、我々研修旅行メンバー5名は、京都駅からチャーターしたジャンボタクシーに乗り込み、比叡山の一画までやって参りました。

これより広大な比叡山を境内地とする天台宗延暦寺の拝観が始まります。

私達浄土真宗の開祖親鸞聖人は、ご周知の通り、ここ延暦寺で9歳より20年間、つまり29歳まで修行に励まれました。その後、浄土宗開祖法然聖人との出遇いにより、比叡山を降りて念仏門に帰依していかれます。

自らの力によって悟りに向かう比叡山での修行と、仏の導きに全託して悟りに向かう法然聖人のみ教えは全く方向性が異なります。つまり親鸞聖人は比叡山で送られた20年間の人生を棄ててしまわれたということです。この道では自分は決して悟りには近づけない、その徹底した見極めは、親鸞聖人自身が厳しい修行に励む中で実感として湧いてきたものに違いありません。それは自力の挫折でありましたが、しかしながら同時に他力への目覚めでもありました。激しい求道は決して無駄ではなかったのです。

では親鸞聖人はどのような修行に明け暮れたのか。残念ながら、比叡山は織田信長の焼き討ちに遭い、それまでの史料の殆どが灰燼に帰しています。そして、親鸞聖人の御著作においても、ご自身の青年時代について全く触れておられません。つまり謎に包まれていたわけです。

ところが、大正時代、西本願寺の蔵より、親鸞聖人の奥方、恵信尼公のお手紙が発見されました。そして、そこに僅かではありますが、親鸞聖人の青年時代の姿が記されていたのでした。

「堂僧」

これが比叡山での親鸞聖人の御立場であったようです。「堂僧」が何を意味する役職なのか、諸説唱えられておりますが、現状、有力視されているのが「常行三昧堂」に関わる僧であったのではないかと言われております。

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と、写真左手のお堂が、その「常行三昧堂」です。

行者はお堂に独り籠って、中央にある阿弥陀仏座像の周囲を念仏を称えながらひたすら歩き続けます。その期間、実に90日間、それが「常行三昧」という修行の内容です。

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これはお堂の裏。

「常行三昧」はいたってシンプルな修行ですが、大変過酷なものだそうです。

行に入ると堂内は閉ざされ、外界と遮断されます。90日間、トイレ以外で外に出ることは許されません。そして、お堂の中では基本、阿弥陀仏の周囲を歩き続けます。日に一度の食事と僅かな仮眠以外は。また寝る時でさえ横臥することはありません。本尊の周囲に張り巡らされた竹の手摺に寄りかかるか、天井から吊るされた紐に掴まるかして休みます。数日で足は腫れ上がり、酷い場合には血流が悪化して壊死が始まると言われます。行の途中で気を失い、手摺や床に頭を打ちつけて重傷を負ったりするなど、時には死者も出たことから、一時修行が中断されていた時期もあったようです。

最初、行者の称える念仏はお堂の外に溌剌と聞こえてきますが、その声は次第に弱まって行きます。しかしながら、90日に近づいていくにつれ、行者の念仏は聞く者を感動させるほど清らかな響きとなっているということです。

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これはお隣「法華堂」とを繋ぐ渡り廊下。あの武蔵坊弁慶がこの廊下を肩に担いで担ったことから「にない堂」とも呼ばれているそうです。まあ、こんな大きな建物を弁慶といえどもイチ人類が担ぐことなど出来るわけもなく、いわゆる伝説の域を出るものではないことは明明白白なのでありますが、そもそもなぜ担ってしまったのか?その辺りのところが気になるところであります。
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さて、念仏を称えながら歩き続けるという、一つのことを集中し(三昧)して一日中行う(常行)ため「常行三昧」と言うそうです。そして、その最終目的は「見仏」にあるということです。修行が上手くいくと極限状態の中で、仏様を実在として見ることとなる。それがどういうことなのか、それは実際に「見仏」した行者さんにしか分からないことなのでしょう。

果たして、親鸞聖人はこの修行を修めたのでしょうか。そして「見仏」できたのでしょうか。今となっては知る由もありません。しかし、できたにせよできなかったにせよ、ただ確実に言えるのは、親鸞聖人の心がこの地で満たされることは決してなかったということです。

結果、親鸞聖人は比叡山を下りることとなりますが、現在、「常行三昧堂」の前には、「親鸞聖人ご修行の地」という石碑が建てられています。山を去り、別の道を歩まれた聖人であっても敬意の念を失さない、比叡山の懐の深さを感じました。

道元禅師(曹洞宗開祖)・栄西禅師(臨済宗開祖)・日蓮上人(日蓮宗開祖)・法然聖人(浄土宗開祖)・そして、親鸞聖人(浄土真宗開祖)など、多くの宗派開祖を輩出した日本仏教の母なる比叡山たる所以です。

 

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