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柳宗悦氏の宗教論と他力救済 ―新宅博雄―

【淨寶 1927(昭和2)年12月10日発行分】

柳宗悦氏の宗教論と他力救済 -新宅博雄-

 

 柳宗悦の思想は講座、その他の雑誌にも発表せられましたが、著書としては、「宗教的軌跡」、「宗教とその真理」、「宗教の理解」、並びに「神について」の四つがあります。これらによって氏の宗教思想を伺い、そして他力救済の宗教を考えて見たいと思います。

 氏の宗教思想は、エックハルト、プロチーノス、スピノーザ等の神秘主義の思想と、それに大乗仏教の三論、禅などの持つ「空」の思想を加味し、それを氏の思索によって、氏独特な思想となして打ち出せるものであります。したがって氏の宗教哲学なるものは、他の多くの学者たちと趣を異にしているのであります。

 氏はかかる立場にいますから、氏の宗教思想が直ちに、私共の信仰せる他力救済の宗教と一致するとはいえません。しかし氏の思想を静かに伺いゆく時に、そこにかなり豊かに、他力救済的な宗教思想なり信仰の原理なりを見出し得るのであります。もし氏の思想が持つところの意味をば、行くところまでゆかしめ、その論理をしてゆくべきところまで徹底させてゆくならば、他力救済の思想と同じ趣のものとなるのであります。

 氏は果たして意識していらるるか否かは知りませぬが、氏の如く宗教の本質をば凡小の世界におかず、絶対界におくならば、そは他力回向、或いは救済の思想であらねばならず、また救済教の原理を示すものでなければならぬのであります。即ち人間は、絶対界より与えられたる力によって、その絶対界に入るのであるという、他力救済の思想にほかならぬのであります。

 氏の宗教思想の中核をなすものは、次の如きのものであります。現実の人間の智や力は有限相対である。しかるに宗教の世界は絶対無限である。故に吾人はいかに努力精進するも、自分の独りの力にて、その宗教の世界は捉えられない。絶対界と関係せずしている間は、いかなる精神も信仰も、全て迷妄の見解たるを免れない、というのであります。なお言い換えまするならば、相対智を否定し、相対見のすべてを空じて、ただ信ずることにおいてのみ絶対的宗教の真理が捉えられる。吾人に知らるるものは、本当の絶対者ではない。絶対見に住して初めて絶対者は捉えられる。絶対界に入らねば、絶対界は分からない、という考えであります。

 氏は言っています。「神を信ずるとは人の智慧を去ることである。人の智を去るとは神の智慧に活きるとの意である。」(宗教の理解348頁)と。また言っています。「神の導く第一の道は、二の理解を超えることである。第二の道は一に交わることである。一の理解とは神の智慧、即ち究竟的理解である。神を見ようとするならば、この世の智慧を超えねばならぬ。かくて神の智慧において、神を見なければならぬ。」(同202頁)と。この世の智慧を超え、神の智慧によって神を見なければならぬとは、他力的信仰の原理を示しています。

 また、「ある者は救われ、ある者は救われぬと人は言う。しかし、かかる神学に余は満足することは出来ぬ。それは人間の有限な感情をもって、神の心を計ったにすぎぬ。救うというが神の絶対な意志である。この意志を躓かし得るほどの暗い力は何処にもあらぬ。神は救うのである。人が拒むとも救うのである。神の恵みをつゆ疑ってはならぬ。神の恵みに漏れはあらぬ。ある者は救われぬと誰が言い得るのだ。人は己が審判を以て神の意志を裁いてはならぬ。浄土を約束しているものは、神であって、人であらぬ。」(同212頁)と。神の絶対的救済を示し、そこに真の宗教の本質を示しています。(神の絶対的救済教学にては、すべて宗教的対象を神と呼ぶので、仏を学術上の用語で神と呼ぶのであります。)これはよく他力回向の主体たる仏の本質を語っていると見らるるのであります。

 また、「神はいかなる時においても、いかなる所においても、彼の『全一』を現したもう。神は彼を分割することなくして、常に万物の各々に『全一』なる彼を啓示する。」(同188頁)と。よく衆生救済、光明摂護の味を語っています。

 また、「神を知り得るものは、この世の智慧ではあらぬ。神の智慧のみが神を知りうるのである。」(同214頁)と。ここに絶対界より回向されたる、その智慧によらなければ、絶対界に入ることの出来ざることを明に示しています。

 また、「宗教哲学は人知の上に建設せらるる時に成立する学問ではなく、かかる究竟な智慧に基礎づけられる時に成立する学問である。どこまでも人知の限界を認め、出来得る限り神の智慧によって、すべてを観じようとする理解を与えるのが、この学問の主旨であらねばならぬ。」(同262頁)と。究竟な智慧は基礎づけられるといい、神の智慧によってすべてを観じるというところ、又他力回向、救済の思想が窺われるのであります。

 また、「宗教の真理と神に支えられたる真理との義である。究竟の真理である。より明かな真理はあらぬ。故に信じ入るべき真理である。(中略)そこには最早、思惟を挿入すべき少なし場所もあらぬ。信ずるほかなき真理である。確かな世界は知り得る世界でなくして、信じ得る世界である。」(同322頁)と。神に支えられたる真理とは実によく宗教的真理を言いあらわせるもので、他力救済の宗教の基礎を語れるものであります。

 また、「究竟なるものを追い求めるという要求は、要求というよりも寧ろ、喚求である。究竟を求めるのは、単に私自身の選択ではあらぬ。見知らぬ力があって、私に求めよと命じている。真に深い欲求は、私が欲すというよりも、かくせよと神が私に喚求するのである。神が私を通じて私を求めるのである。恐らく神の力なくしては、何人も神を知ることが出来ないであろう。また知ろうとする意志すら我々には無いであろう。究竟を求めるものは究竟である。美しい思索や、深い信念とは、いつも神から出て神に帰る円輪の上にあるからであろう。」(同330頁)と。とくにこの叙述の如きは、他力救済、他力回向の宗教の思想の濃厚にあらわれているところで、「喚求」といい、「見知らぬ力があって私に求めよと命ずる」といい、「かくせよと神が私に喚求する」といい、最後には「深い信念とは何時も神から出て神に帰る円輪の上にある」などという。わが真宗の救済王たる阿弥陀仏を語るかの観があるのであります。日本における優れたる宗教哲学者である柳宗悦氏の思索は、偶然か、必然か、その原理ならびに精神において他力救済の宗教の語るところに於いて、その宗教の本質とせんとしているのであります。

 

―(了)―

救済の宗教(2)―新宅博雄―

【淨寶 1927(昭和2)年9月1日発行分】

救済の宗教(2)―新宅博雄―

 ●救済の体験

 われなくも法はつきまじ和歌の浦

         あをくさびとのあらんかぎりは

 これは、親鸞聖人がお亡くなりになる少し前、伊勢の西念房に与えられたお歌であるが、これは地上に人間のいる限り、救いの御法は永久に亡びないということを仰せられたものである。宗教とはさきに述べた如く、肉体的には無常、すなわち亡ぶべきもの、精神的には罪悪、すなわち自ら神聖なる能わざるもの、つまり無常と罪の上に立つ不安の存在である。

 したがって、かかる人間が自ら目覚めて宗教を体験せんとする時、自証教に入らずして、救済教に入ることは自然な事である。吾人の言わんと欲するところを率直に言うならば、無常と罪悪の上に立つ不安の存在たる人間は、一度宗教的に、向かいたる時は、いかにしてもこの救済教に依らなければ、決して解決のつくものでないと言うのである。

 さて、仏に救わるると言うが、そは如何になる事であろうか。救済の体験とは如何という問題である。大体、、宗教の体験は、冷暖自知で、そを体験して、初めてその真相は分かるものである。が、今しばらく、言うべからざるの世界を出来るだけの程度において、味わんとするのである。

 中国の善導大師は、阿弥陀仏の救済の体験相を二つに分けて示されてある。「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなしと深信す。」と言えるが一つ、而して、「彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまふこと疑なく慮なし。彼の願力に乗じて定んで往生を得と深信す。」と言えるがその一つである。前者は機の深信(信機)と呼ばれ、後者は法の深信(信法)と言われている。これは二種深信と言うのであるが、こは信仰或いは体験と言う直接経験としては、二の別個のものがあるのではなくして、二種は一具で、一信心である。しかもこの信機信法は、法体成就の一南無阿弥陀仏の成就の中に価値として成ぜられてあるのである。

 よく、入信の方法として、無常観、罪悪観、無明観など言うが、まことに当を得た言い方であると思う。救済の体験を、人間の立場から言うならば、「我れ」が宗教的に燃焼し、その頂点に達し、無常、罪悪、無明の上に立てる自我そのものが、一時間も、否一刻もそのままに、捨ておくことの出来ない境地に至れる時、ここに仏教の摂取―救い―に与れるのである。西田幾多郎博士は、智をつくし、情をつくし、意をつくして、しかも信ぜざらんと欲するも信ぜざるを得ずして、信ずる。これ宗教の本質であり、真の体験なりと言われてある。

 この救済の体験を、阿弥陀仏の方から言うならば、名号回向である。宗乗学の見解に立ちて味わんに、この人間に与えられる名号とは、法蔵菩薩の願行そなわれる「摂諸善法具諸徳本」の名号で、この一法さえ与えられるならば、人間の救済、浄土往生の全体は満足せられるのである。

 この名号は、そが出来上がる動機なり、目的なりは、ただ一切の罪と無常との不安に立つ吾人を、救済せんがためなのである。大無量寿経の修行段と言うところには、「令諸衆生功徳成就」と述べられてある。動機目的既にかくの如きものであるから、仏は我々凡夫が、最も安易にいただけるように、仏より巧みに働きかけてくださるのである。

 すなわち、光明無量、寿命無量の覚証を、南無阿弥陀仏の名号の中におさめて、いわゆる乗名示現して、その名を吾人をして念持せしめて与えられるのである。本願成就文には、「聞其名号信心歓喜乃至一念」と信の意義において、救済の体験があらわされてある。その名号が、吾人のものとなるは如何になるか、これはあまりに分析的なようであるが、善導大師の玄義分の六字釈は、これに明快なる解釈を与えている。

 親鸞聖人は教行信証の行巻に於いて、この六字釈に対して綿密なる考察をなされ、而して、南無阿弥陀仏の名号は、吾人に本願招喚の勅命、すなわち「マネキヨバフオホセ」として向いたまうと仰せられた。しかもこの勅命とは、名号中に内在する全てのもの、すなわち救済の心も、救済者も、施与のものも、全てを全うして、全名号を代表して吾人凡夫へ向かわるる救済意志の発表である。これ「ヨクタノメ」、「ヨクカカレ」帰せよ、托せよと命じらるる勅命であって、この勅命に依って吾人を帰せしめ、信ぜしめて、名号全体を衆生へ施与したもうのである。

 この場合帰と言い、信と言うは、無論吾人よりなす自力的意味の帰でも信でもない。全く名号の独り働きで、吾人をして、帰せしめ、信ぜしめて、名号功徳を与えたもうのである。

 この名号が、吾人へ信としてとどくためには、名号が内徳として持つ光明は働く。光明に摂取と調熟の二あるならば、その前者の意味において働くのである。かくて吾人にわたりたる名号は、原因となって、現実に正定聚の位に住し、而して吾人は利他円満の妙位無上涅槃の極果を得、利他教他地の利益を得るのである。

 救済の体験は斯様に、吾人と仏との二つの立場より味わうことができ、その姿が違うように見えるが、そは体験の実相としては、「不安なる自己が如来に救われた」と言う一事実より外にはない。さきの善導大師の二種一具なる味わいと同趣である。

 足利義山師がご臨終の際、多くの弟子たちが何か御法悦をと願った時、与えられたと言う詩が残されてある。初の二句は、「八十余年罪山ノ如シ、罪障決定無間ニ堕セン」と言うので、言わば丁度法の深信である。ひと度亡びるもの、迷うものと、行き詰れる自己。一刻の猶予ならぬだけ、燃焼せる自己は、同時にあたたかきあふるる慈愛の阿弥陀仏の摂取救済に与るのである。これは実にささやかなる人間智をもって解釈し、論究し得ざる神秘の世界であり、絶対の境地である。

 体験とはその本義は、超経験を経験することだと言うが、吾人の経験界、有限界を超えた、本願、名号をとらえるのである。蓮如上人は、「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり」と仰せられたが、この凡夫が南無阿弥陀仏の主になる、げに偉大なる事実ではないか。月の光で月を見ると言うが、仏の作用によって、仏に一致せしめられるのである。これぞ宗学のいわゆる他力回向の信である。プラントは国家以上のものを知るものでなければ、よく国家を支配することは出来ぬと言ったが、同じ筆法で、人間以上、人生以上の世界の力によらずんば、人間及び人生はその解決を得ることは出来ない。

 この救済の体験は、二つのものを持っている。一は自我の解決、換言すれば、生死の解決である。而して他の一は一切を生かす、換言すれば、救われたる者の道徳生活である。救済の体験、こはあまりに偉大なる事実なるに対して、筆舌あまりに拙く、その真相の一分も筆にのぼらなかったかと案ぜられる。次に緒論として本編の短を補いつつ、信仰と道徳生活の交渉を見ることとする。

 

                        (了)

救済の宗教(1)―新宅博雄―

【淨寶 1927(昭和2)年8月1日発行分】

「救済の宗教」(1)

●人間について(宗教的主体の問題)

 さきに救済仏について述べた(※1)ので、今回はその救いの一要素たる人間について考えることとする。一体人間の本性は善いものであろうか、悪いものであろうか。

 これについては、昔から東洋にも西洋にも道徳家の間に、色々説がなされた。中国の孟子のごときは人間の本性善なりと言い、荀子は悪なりと述べ、子思のごときは善一面にもあらず、悪一面にもあらず、中庸なりと言っている。その他仏教思想の縁起論系の思想や、西洋倫理の快楽主義の説のごときは、性善の立場に立ち、仏教思想の実相論系の思想や、西洋倫理の克己主義の説のごときは、性悪の立場に立っている。而して仏教思想の中道論系の思想や、西洋倫理のパウルゼンなどの思想のごときは、善悪中庸の立場である。

 つまり人間の本性について、斯様に善とか悪とかの説の立つのは、これ人間にこの両面あることを物語るものである。宣なるかな、近代の心理学や哲学の立場からは、人間の本性について次の如く言っている。

 人間は神仏の性質と、悪魔の性質との二つを具えている。それは理想性と、自然性、なお言い換えるならば、理性性と本能性とである。前者は人間を向上せしめんとする善良の本性であるが、後者は人間を堕落せしめんとする不良の本性である。人間はこの全く反対せる二つの性質よりなれる矛盾の存在である。ここにおいて人間は、内面において絶えず葛藤をまぬがれない。

 人間はもし、その理性性が自然性を征服し尽くしたならば、神か仏となり、その反対に、自然性が理性性を放逐し去ったならば、人間は動物となってしまう。しかし人間始まりてよりこの方、人間が動物となりきったことも聞かないが、また人間が神や仏となったことも多くは聞かない。ここから見ても、三つの矛盾せる性質は調和も統一も、極めて困難なるものの様である。その何れかへ容易に片付くものならば、好都合であるが、この矛盾が永遠に続いていくとこに、人間の焦慮も、人生の苦悩もある。

 人間は斯様に善悪両面の性質を持っているもので、ある者はその善なる方面に重きをおいて性善説を立て、ある者はその悪なる方面に重きをおいて性悪説をたて、折衷派はまた両者を考慮に入れたのである。つまり矛盾の存在であることは間違いない。

 キリスト教の神学は、人間を罪の存在となしている。いわゆる原罪説がある。アダムとイブのエデンの園における原罪物語に基づいている。また仏教教学は業の思想があって、人間を罪業の存在となしている。人間は十界中の迷界に属するものとされているので、決して高く評価されていはいない。この原罪と呼び、業と名づくるは、人間の持つ上記の本質的矛盾の存在を意味しているものであろう。

 ポーロは「人は善を行わんとするも、悪に堕ちざるを得ない」と言い、又ある人は「夜、静かに内観する時、地上一人として懺悔しないですむ人間はいまい」と、告白しているが、これは誰しも承認しないわけにはいくまい。

 人間の起源については、古今東西その説くところを異にしているが、馬鳴菩薩という聖者の作である大乗起信論の中に「忽然々起名為無明」というのがある。これは忽然として、宇宙法界に、無明というものが現出したということであるが、吾人は、人間の始めは、この無明なりと信ずる。大聖釈尊も十二因縁というのにこれを説いておられる。

 この無明から業を生じ、煩悩を生み、苦を受けるに至る。これ人間の生死流転、生滅変化のすがたである。

 もとより大乗仏教には、一切衆生悉有仏性の思想はあるが、現実相としては、無明、煩悩の相であることは明白である。

 今少し歩みを進めて、救済の宗教を体現され、且つ宣布されたる、わが親鸞聖人の人間観を伺うこととする。

 聖人は二十年間比叡山に修道せられたが、その間人間並みに人生を随分と深刻に観察し、内省せられた。かくて最後に人間を、矛盾、罪悪、煩悩熾盛の存在と確認された。愚禿鈔には「愚禿が心は愚にして外は賢なり」と言われ、一念多念証文には「凡夫はすなわちわれらなり」とのたまい、歎異抄には「とても地獄一定すみか」と表白されてある。

 なおも少しく聖人の人間観の詳細を伺わんとするに、教行信証の信巻の三心釋は、最も適切である。そこに聖人がいかに人間を罪悪深重なる者と見られたるかを伺うことが出来る。先ず至心釋を見るに、

 「一切ノ群生海無始ヨリコノカタ乃至今日今時ニ至ルマデ、穢悪汚染ニシテ清浄ノ心ナク、虚仮諂偽ニシテ真実ノ心ナシ」と述べられ、信楽釋には「無始ヨリコノカタ、一切群生海、無明海ニ流転シ、諸有輪ニ沈迷シ、衆苦輪に繋縛セラレテ、清浄ノ信楽ナシ、法爾トシテ真実ノ信楽ナシ。ココヲモツテ無上ノ功徳値遇シガタク、最勝の浄信獲得シガタシ。一切凡小、一切時ノウチニ、貪愛ノ心ツネニヨク善心ヲ汚シ、瞋憎ノ心ツネニヨク法財ヲ焼ク。急作急修シテ頭燃ヲ灸フガゴトクスレドモ、スベテ雑毒雑修ノ善ト名ヅク。マタ虚仮諂偽ノ行ト名ヅク。真実ノ業ト名ヅケザルナリ」とのたまい、欲生釋には「微塵界ノ有情、煩悩海ニ流転シ、生死海ニ漂没シテ、真実ノ回向心ナシ、清浄ノ回向心無シ」と仰せられてある。

 要するに三心釋は、人間は真実の心なく、明信仏智の明無く、大悲回向の心無く、生死海に沈淪せる罪と不安の凡夫なることを告白されたものである。

 仏教には、人間は日に八万四千の煩悩を造るといい、又、日に八億四千念、皆これ、三塗の業と言うが、迷の存在、罪の盆夫の身心の活動は実に驚くべく多くの罪業を造っているのである。先年、西晋一郎先生が京都大学で、「悪について」の講演の際、人間の念々これ罪なりと、仏教の八億四千念の説を参照されたことがあるが、まことにその通りである。

 私共が、外面的の生活にのみ、とらわれている時は、何ら自分の罪にも気付かないが、少しく精神的に生活し反省の生活に入る時は、容易に自分の姿の醜きことに気づくであろう。西洋のある道徳家が言った。「世界中の人を、法律上の裁判所にて審判した時は、無罪の宣告を受け得る者は多々あるであろう。しかし、世界の人を、道徳上の裁判所において審判したならば、恐らく一人として無罪の宣告を受け得る者はいまい」と実にその通りである。

 足利義山師は御臨終の時、門弟の講によって与えられた詩の中に、「八十余年罪山ノ如シ、決定必定無間ニ堕セン」と述べられたのである。学徳すぐれた法然聖人も十悪の法然と懺悔されてある。古来熱心なる求道者が家を捨て、妻と別れ、子を捨てて、出家得道されたのも、この罪と不安の自分に目覚め、はかなき人生の解決を要求されたのである。

 慧可禅師であったか、手を切ってまでも達磨の弟子となった。人間一度自己の真相に目覚め、人生の如是相に眼を注ぐ時は、宗教を求め、仏にあこがれ、救いの御親に呼び掛けずにはおれなくなるものである。

 げに宗教は弱者のためのものである。しかも人間一人として弱者ならざるはない。

                      (了)

                                                       

 

※1 この号の前号(第7巻7号)と前々号(第7巻6号)は失われているため、内容は不明。

※  一部破損によって判読できない箇所等は省いて掲載しています。