講演断片(3)歎異抄に就いて-足利淨圓-

【淨寶 1927(昭和2)年10月10日発行分】

講演断片(3) 歎異抄に就いて -足利淨圓-

※この断片は第三回特別講座(昭和2年5月28・29日)のお話を載せたのであります。全く先生の校閲も経ないものであることをおことわり申します。諏訪令海

 天地間に人間が生まれ出る力は実に大きなものである。かつて私の妻が妊娠したが、その時、医師の診断によると妻の身体の具合で、とても安産することは出来ないから堕胎せねばならぬということであった。私は色々思い惑うたが、遂に決心をした。「折角この世に生まれ出ようとしたものである。ともかく、生まれる最後の日まで待って、いよいよどうもならぬということになったら、その時に手術して下さい。」と。それから妻の上に最善を尽くした。第一、身体の姿勢を正しく整えるようにした。そのほか身心を正しく保たせるような方法に努めた。いよいよ最後の日が来たがそれは案外な安産であった。

 私は親になった。これまでは道を歩いても子を抱いている人をめったに見たことがなかったが、自分に子供をもってみると、到るところに子を抱いている人を見るようになった。今まで経験したことのない、子供の世界という新しい世界が自分にできた。

 仏の心は、知ろうとしたのではとても知ることはできない。それは余りに隔たり過ぎた世界であるからである。私が仏に遇う道は只一つである。それは仏さまの方から、私の心の内側に生まれて内在して下さり、合掌念仏せずにおれないように私の内に用(はたら)いて下さるので、仏を見るのは私が目覚めたのではない。それは只、如来の願力に依るのである。

 私の心はどんなに考えても、全くはからいの外にない。善悪、禍福、利己的なはからい、宗教を求めることさえ行解(ぎょうげ)のはからいに堕するのである。この全部が役立たないで、全く仏にはからわれていることが分かって、両手離して仏のはからいの上に再び人生を見直したところに、本当の人生が顕れる。これが本願招喚の勅命に順(したが)うのであり、真の帰命である。

 宗教生活と言えば、何か変わった生活になるのかと言えば、強(あなが)ちそうではない。それは真実のものの前に、手を合わすことである。その真実とは仏であり仏心である。同じものを見ても手を合わすことによって、もののうしろまで見透かせる。即ち人間の深い心持ちが、手を合わすと本当に分かる。宗教生活とは同じものの上に大きな恵みがあったのを見失っていた、それに気づき目覚めさせて頂く生活である。

―(4)へ続く―

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