講演断片(2)歎異抄に就いて-足利淨圓-

【淨寶 1927(昭和2)年10月10日発行分】

講演断片(2) 歎異抄に就いて -足利淨圓-

※この断片は第三回特別講座(昭和2年5月28・29日)のお話を載せたのであります。全く先生の校閲も経ないものであることをおことわり申します。諏訪令海

 帰命は宗教の最後の問題である。

 正信偈の始めに「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無し奉る」とある。これは親鸞聖人が自分の信仰を打ち出された言葉である。

 帰命ということは何れの宗教にもあることであるが、今の聖人の帰命のこころは、自ら他宗のこころとは大いに相違がある。

 一般宗教は言うまでもなく、我々人間と仏とはどうすれば一つに結びつくかというところにある。これに二つの道がある。一は人間が念仏することによって仏に結びつく、即ち人間と仏との間を念仏によって結びつける道。ニは仏が人間の方に結びついて人間を動かし、人間の上に顕れて来て下さった相(すがた)が即ち念仏である。これらの念仏が身業(からだ)の形の上に顕れたものが合掌の姿である。

 形のうえからは、同じ様に見える合掌念仏の者にも、その心には自ずから三通りの相違がある。一は行ずる宗教。ニは解する宗教。三は信ずる宗教である。

 一の行ずる宗教とは、帰とは帰投、命はいのち、いのちを投げ込んで念仏する。ともかく仏に結びつく一つの運動として、規則的に木魚やそのほか色々の法式によって念仏する。そのうちに仏の心がわかり、やがて救われるであろうという態度。命を投げ捨てて念仏するという、その相は甚だ殊勝であるが、その念仏はこちらから仏を訪ねるという心持。この人は念仏をやめると淋しい。淋しいから念仏せずにおれない。その態度は命がけで一生懸命であるが、甚だ落着けない。

 二に解する宗教。仏が私を救うて下さる道理を、色々の方面から得心のゆくまで聞く。聞いてみた時には救われるに間違いないと解る。即ち道理や観念の対象の仏には救われるに間違いないと思ってみても、ただそれだけでは私の中心魂は落着けない。帰命と大命に還帰(げんき)すること、大本の命に還っていくのであるということは解ったが、ただそれだけでは信仰にはならない。よし理解は出来ても、それならいよいよ救われているかと言えば、実際になるとうろたえる。それは自分の本当の生命になっていないからである。一の念仏は規則としての念仏。第二の念仏は観念の念仏である。

 三は信の宗教。これは帰は帰順、命は勅命、即ち如来の仰せに随順したこと。私が念仏していることが、そのまま如来の仰せに順(したが)っていることである。合掌はこの帰命の心の表現である。

 仏さまはどこに顕れてくださるか。それは私の合掌の上に、私の念仏の上に、私の心の上に顕れて下さる。この三業の所作は総て、「必ず救うの仏心」が私の上に用(はたら)いて、私をして宗教生活をなさしめて下さるのである。この私の上に仏さまが本当にわかって下さったことが、即ち親鸞聖人の帰命である。

                    -「講演断片」(3)へ続く-

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