先日、広島別院(西本願寺の支所のようなお寺)で行われた、カウンセリングの研修会に参加しました。
私は専門外なので正確なことは言えませんが、主な内容は「自分が本当に心に感じていることをより明かにする」というものでした。
「灯台下暗し」という言葉があるように、自分が本当に何を思い何を問題にしているかということは、意外と己れでは分からないものです。そんな状態は言わば整理整頓の出来ていない「きたない部屋」のよう。どこに何が置いてあるか分からないような混沌とした部屋では、なんとなく心も乱れ、前向きな気持ちも薄れてきます。それをきちんと整理整頓して「きれいな部屋」にすれば、心もスッキリし、新たに問題に取り組む前向きな姿勢になることができる、そのために、自分が本当に感じていることを明らかにしてモヤモヤした心を整理整頓しよう!というわけです。
講師の臨床心理士、土江正司先生によって研修会は進められました。
研修では、色々な手法を使って「自分が本当に心に感じていること」を明確にしていく試みを実践していったのですが、その中の一つに「相手の気持ちを受容する」というものがありました。
これがどういう手法かというと、「ひたすら相手の話す内容(気持ち)を受け容れることに徹する」とうもの。
例えば、相手が「仕事やめたいんです。」なんてことを言ってくると、フツーは「そんなこと言って!このご時世、仕事があるだけまだマシじゃないスか。それより辞めてしまったら、生活は?家族は?どうなるんですか?あなた一人だけの問題じゃないんですよ。やるしかないんですよ。いつやるの?今でしょ!」なんてふうに答えてしまいがちではないでしょうか。
しかしながら、そんなことは当事者である本人はもとより承知。そんな現実的な問題に振り回されて心がモヤモヤしているわけです。それよりも、「仕事をやめたい」という相手の気持ちを受け止めることが先決。人間には、自分の気持ちをより正確に表現していこうという心理的な傾向があるそうです。ひたすら相手の気持ちを受容することによって、相手はその人を聞き手として認め、自分の気持ちをさらに自発的に、より正確に表現していきます。それがいわゆる「心の整理整頓」になるということ。
実際、二人ひと組、ペアになって実践してみました。先ずは、私が相談者役、相手が聞き手役です。
私「今、仕事のことで悩んでいるんですよ。」
「はい、仕事のことで悩んでいるんですねえ。」
「なかなかうまくいかなくて。」
「なかなかうまくいっておられないんですねえ。」
「やっぱり勉強が足りないんでしょうか・・・」
「勉強が足りないと思われてるんですねえ。」
「やってるつもりなんですが、やり方が悪いんでしょうか?」
「あまりやり方が良くないと感じていらっしゃるんですねえ。」
とこんな具合です。相手の聞き手役はほぼ、おうむ返しにしゃべってるだけなのですが、自然と問題が具体的になっていきました。次は立場を変えて、私が聞き手役、相手が相談者。かんたん、かんたん♬
「最近、職場のことで悩んでるんですよ。」
「どんなことですか?」・・・っと、早速ルール違反。もとい「職場のことで悩んでいらっしゃるんですねえ。」
「職場の人間関係が悪いんですよ。」
それはよくあることですよ・・・と思わず言いかけて「職場の人間関係があまりよろしくないんですねえ。」
「けっこう根深いものがありましてね。」
「根深いものがおありなんですねえ。」とかろうじて答えつつも、心中では「原因は何ですか?」と尋ねている自分が・・・
こんなふうに、相手の気持ちを受け止める前に、ついつい自分の気持ちが前へ出てくるのです。「ひたすら相手の気持ちを受け容れる」、簡単なようでなんて難しい。「ちゃんと実践出来るようになるには、訓練と経験が必要です。」と仰ってた先生のお言葉の意味が良く分かりました。
話題は変わりますが、浄土真宗でいう「信心」は、自分で切瑳琢磨して築き上げるものではなく、阿弥陀仏の「必ず救う、まかせよ」という御心をそのままに頂戴したかたちが「信心」となります。自分でがんばらなくとも、阿弥陀様の方から「信心」を恵もうとはたらいて下さっているのですから、至極易しいみ教えなのですが、問題はそれを受け取る私にあります。阿弥陀様の御心をそのまま頂戴する前に、ついつい自分の思いが先に立って生じてしまう、つまり疑いの心ですね。み教えは易しいのですが、受け取る私がその易しいみ教えを疑いの心によって難しくしているのです。
「難中之難 無過此難」
—(信心を得ることは)難しいなかにも難しくこれに過ぎて難しいことはない(『仏説無量寿経』)。
次々と湧き起こってくる自分の思い、そのまま受け止めるということの難しさ・・・このたびのカウンセリング研修で、この御経典のお言葉を改めて味わわさせて頂きました。
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