コントラスト

前回ブログ「富士」の続き・・・

今、私のいる場所は似島。広島瀬戸内の風景を「安芸の小富士」として彩るこの島は、一方で悲しい戦争の記憶を留める地でもあります。宇治港からフェリーで約20分。広島生まれでありながら、似島初上陸を果たした私は、戦争の遺構を訪ねて島東部へと向かいました。

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先ずは、似島中学校グランドの傍に建てられた「慰霊碑」。昭和20年8月6日、原子爆弾によって壊滅させられた広島からは、連日多くの被爆者がここ似島へ運び込まれました。その数は1万人ともいわれ、日清戦争以来、旧陸軍の検閲所として機能していた建物は、臨時の救護施設としてまたたく間に重傷者で溢れかえったといいます。

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写真左:旧陸軍第一検疫所遺構〕

『観光コースでない広島ー被害と加害の歴史の現場を歩くー』(高文研刊)には、当時の証言が掲載されています。以下、その生々しい様子を抜粋します。

【似島検疫所付属病院の陸軍衛生軍曹であった小原好隆さんは、次のように語っている。「私は、衛生下士官として勤務していた。・・・8月6日は午前10時ごろから送られてきた被爆者をみて、愕然として声も出なかった。老若男女の区別もつかず、幼児に至るまで無差別に年齢、性別の判断もできないほど変貌した、全身火傷の全裸に近い姿であり、さながら地獄絵そのものである。からだの三分の一を火傷すれば死に至ると聞くのに、全身火傷、それに裂傷まで加わり手の施しようもなかった・・・全身が火傷ですから、菌が入りガス壊疽を起こす可能性が高いことが気がかりであった。そうなると菌が全身にまわって死んでしまうからである。足や腕を切断しなくてはならないのだが、五千人分あった麻酔薬が、三日目にはなくなってしまった。縫合の糸だけが二、三人分残っていたが、百五十人くらいの被爆者が並んでいた・・・〈麻酔薬はないけれども、手術をする人はいないか〉というと、しばらくして、縞のモンペを履いていた女子挺身隊の学生が、〈どうしても死にたくないのです〉〈切ってください〉と志願してきた。現在とは違い、骨を切るには弓ノコのようなものでゴリゴリと切っていくのだから、とても耐えられるものではない。しかし、放っておけば死んでしまうと思い、手術を始めた。麻酔薬がないので手術台の上で暴れるので頭や足を押さえて切っていく。その時にその子が出した〈ギャーッ〉という声を、今でも忘れることができない】

人々の地獄の苦痛と共に切断された手足は、検疫所の外に投げ出され、建物の窓枠を超える高さまで積み上がっていたそうです。(広島市平和記念資料館平成24年度第2回企画展パンフレット『君を想う』を参照)

慰霊碑近辺からは、推定517体の遺骨と推定100体分の骨灰、遺品約60点が発掘され、さらに後年85体の遺骨と65点の遺品が見つかりました。それらは、旧陸軍馬匹検疫所焼却炉跡(下の写真)から発掘されたスコップ300杯分の骨片、骨灰と共に平和公園内の原爆供養塔に納骨されています。

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〔写真左:多くの被爆死者が焼かれた、旧陸軍馬匹検疫所焼却炉跡。〕

 

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 美しい瀬戸内の海へと向かう古い桟橋。かつて戦争を終え敵地から帰還した兵士たちがここから上陸し、伝染病を防ぐための消毒が施されたといいます。

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ここは旧陸軍弾薬庫へと繋がる通用門跡。現在その先は平坦なグランドに整地されています。薄暗いトンネルの中を歩くと、足元から歴史の暗部が、ひんやりと伝わってくるような気がしました。この周辺には弾薬庫を取り囲む土塁やコンクリート基礎、通路用の細い階段が残されています。

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山の手にある旧弾薬庫歩哨所。ここで軍は四六時中、監視の眼を光らせていたのでしょう。広さは人ひとり入れるくらい。辺りは山の木々に囲まれて鬱蒼としており、今にも何かが出て来そう・・・

 

 

 

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 検疫所感染物の焼却炉跡。赤レンガの煙突が残ります。海の方向を眺めると、牡蠣養殖の「ひび」(浅海に竹を突き立てて柵を造り、牡蠣の稚貝を吊るして育てます)が見えます。

ここから先は、車も通れない細い道が「安芸の小富士」の周囲を走っており、民家もなく、ほぼ手付かずの島の自然が残されています。

似島に残る戦争の遺構。それらは平和でのどかな美しい島にあって、精神を暗く揺さぶる異質な雰囲気を持つものでした。しかし、その強烈なコントラストが、今の平和の土台に、多くの人々が呻き苦しんだ地獄の歴史があることを如実に訴えかけています。二度と繰り返してはならないこと、それは明白です。

戦争は広島に原子爆弾をもたらし、街は黒い焦土と化しといいます。それから68年を経、帰りのフェリーから眺める広島市街は、青い空の下でビルが立ち並び白く美しく佇んでいました。

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