今、ボツボツと読んでいる本があります。
『宇宙が始まる前には何があったのか?』(文藝春秋2013刊行、ローレンス・クラウス著、青木薫訳)
原題は『A UNIVERSE FROM NOTHING』、「無から生じた宇宙」
???!!!無からどうして宇宙が生じるの?!無ってなんにもないから無じゃないの?!と、その逆説的なタイトルにびっくりして思わず買ってしまいました。
ところが、理系の知識が極めて乏しい「有学」の私にとって???なところがたくさんあり、故にボツボツと読まざるを得ないわけです。
因みに、仏教では悟りの境地に到達した人を「無学」と言います。「もう学ぶことが無い」という褒め言葉。反対に「有学」には、「君にはまだまだ勉強することがいっぱいあるね」という叱咤激励の意味があります。世間とは逆の使われ方です。
しかしながら、分からないなりに本書を読み進めてみると、驚かされることしきり。
想像だにしない宇宙のスケールの巨大さと、「どうしてそんなことが分かるん??」と、私には理解不能ながら科学者達の偉大な功績に完全脱帽であります。
さて、「無から宇宙が生じた」、その命題は仏教にも通じるところがあると思います。
仏の本当の姿を、親鸞聖人は「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり」(唯心鈔文意)とお示しになられています。つまり、仏の実相は人間が知覚することの叶わない、いわば「無」であるのに、どうして仏を絶対の救済体として説き得るのか。
そんな「無」に関する謎を、科学的な理性によって示唆してくれるのではないかという期待が本書にはあるのです。
が、私の理解力では結局この本を読み終えたとしても、謎は謎、分からないままであろうという予感がしています・・・まさに「有学」。
ところで、そんな個人的な淡い期待は置いておいて、本書にこんなロマンチックな記述がありました。
もちろん、詳しいことは分かりませんが、私達の体を構成する様々な元素は「星の中心部にある高温の炉でしか作れな」(前述書p54)かったそうです。そして、それらの星が爆発して宇宙に元素がばらまかれる。
つまり「あなたの体を構成している原子のほとんどすべては、かつて爆発した星の内部に存在していたということだ。さらに言えば、あなたの左手に含まれる原子と、右手に含まれる原子とは、おそらく別々の星に含まれていたことだろう。われわれはみんな、文字通りの意味において、星の子どもたちなのであり、われわれの身体は星屑でできているのである。」(同p52)
夜空に輝く星を眺める時、何かしら郷愁を感じるのはこの故でしょうか。
そう言えば、とある国の民族は死に行く時、ひとつの星を指差して、「私はあの星に生まれ変わる」と周囲に告げる風習があると聞いたことがあります。
そんなことを思うと、今宵のような星の見えない曇り空はもの悲しい気がします。
あるいは、Pm2.5の影響か。
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