今日は彼岸の只中ですが、一週間ほど前、わが淨寶寺本堂において「春の彼岸法要」を「総永代経法要」と共にお勤めさせて頂きました。
法要のご講師は、府中町西方寺の佐々木浄珠先生。
かつての淨寶寺仏教青年会に、当時二十代の佐々木先生も参加されており、以後住職とは40年来の御付き合い。今回はそのよしみでお越し下さり、温かいお人柄溢れる、また熱意のこもった語り口で、阿弥陀仏のはたらきをやさしく噛み砕いてお話くださいました。
彼岸とは此岸に対する言葉。此の岸が煩悩にまみれた娑婆世界ならば、彼岸はきよらかな悟り、浄土の世界。こっちの岸から迷いの海を越えて彼の岸に渡ろう、煩悩の世界から悟りの世界に行こう、というのが、お彼岸の意味合いのひとつ。
佐々木先生は、煩悩を抱えた人間を石と譬えられました。
そのお言葉から味わいますに、石にも色々あります。見上げるような大きな岩もあれば、砂利のように小さなものもあります。ダイヤやサファイアのように高価で美しいものもあれば、その辺に転がってだれも見向きもされないような石もあります。世間も、この此岸の見方からすると、ダイヤのように輝く人生もあれば、道端の石っころのように虚しく感じる人生もある。
しかし、所詮はダイヤであろうと砂利であろうと石に過ぎない。迷いの海を渡ろうとしても、等しく沈んでしまう。渡れない、悟れない存在である。
だからこそ、沈む者をたすけずんばやまんと立ち上がったのが、絶対の救済体、阿弥陀仏の願いであり、そのはたらきです。
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける (親鸞聖人「高僧和讃」龍樹菩薩讃)
わたしたちが「苦海」に沈む石ならば、阿弥陀仏の願い「弥陀弘誓」は船です。
自力ではけっして渡れない迷いの海を、阿弥陀仏の「願船」のみが彼岸へと渡してくれる。
そして、その船の名が「南無阿弥陀仏」の称名念仏。
その名を通じて、すでに石の私たちが願船に乗せられていることを知らされる。
それが浄土真宗ならではの彼岸の味わいでありましょう。
最後となりましたが、本年も多くのご参拝、まことにありがとうございました。厚くお礼申し上げます。
(文責:副住職)
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