新住職の辞令

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と、ここは京都、「お西さん」こと、「西本願寺」こと、浄土真宗本願寺派ご本山「本願寺」は阿弥陀堂前、9月27日午前5時30分現在。

これから私こと諏訪義円は、ご門主様(言い換えるならば西本願寺の法主)より、住職補任の辞令を頂くのであります。

思えば今年の3月30日、前住職の諏訪了我が高齢につき引退を決意し、私が淨寶寺第17代住職を継承させて頂いたのでした。

しかしながら、それは事務上法律上のこと。

開祖親鸞聖人の血脈、本願寺第25代大谷光淳ご門主(専如上人)より、その辞令を直接手渡されることによって、住職継承は真の意味で完遂するのであります。

よって、私は前日より本山入りし、住職の何たるかを事前研修で講義を受け、今日その日を迎えたというわけです。

ところでその講義の中に印象的なお話がありました。

本山には布教の専門家を育成する機関がありますが、その研修生がある寺院において実習で法話を行った際のアンケートによると・・・

四十代以上、浄土真宗のみ教えに親しんだ方々からは、「とても分かり易く、よく構成が練られた話であり、また話し手独自のみ教えの味わいが伝わってきて、とても感動しました」等、大変高い評価を得ました。

ところが、二十代から四十代前の、仏教に親しみのない方々からは、「一体何を話しているのか分からなかった。」「私達が抱える悩みに応えてくれる教えとは感じられなかった。」「この程度の話しを聞くために時間を割いてお寺にお参りしようとは思わない。」と言う様な、まことに辛辣な答えが返ってきたということでした。

この両極端な評価は一体何を意味するのか。

それは、僧侶自身が身に付けている専門的な真宗用語や教義理解を、お寺に参った聴衆もまた当然知っているであろうという思い違いをしているのではないか。

僧侶も門信徒も、そして如何なる立場も関係なく、私達は皆等しく、生涯み教えを聴聞させて頂かねばならない苦悩の存在である。その精神を忘れ、上段から仏法を教授しよう、啓蒙しようという驕った態度になってはいないか。

仏法に縁の薄い家庭が増えている現代の状況に鑑み、専門用語の多用を避け、言葉を噛み砕き、より分かり易くするという努力を怠っているのではないか。

・・・などなどの反省点が指摘された次第であります。

私自身、心当たりがあり、まことに耳の痛いお話でありました。今一度、自身の法話を点検し再考せねばならぬところです。

しかしながら、その一方、物事というものは、「求めねば開かれない」という側面もあります。

たとえば、ラジオで野球中継を聞いています。

「さて、ワンナウト走者一塁、ピッチャー第六球目、バッター打った!打球はショート真正面へ!ロク、ヨン、サン、でゲッツー、ダブルプレイ!スリーアウトチェンジです。」

野球好きなら直ちに「打者が凡打を放ち、遊撃手が捕球、一塁へ出ていた走者が二塁へ走塁する前に二塁手へ送球して一死。それを捕球した二塁手がさらに一塁へ送球、打者が一塁ベースを踏む前に一塁手がそれを捕球して二死。打者一人に対して、二つのアウトを獲得したため、GET TWO、でゲッツー、即ち併殺、つまりダブルプレイ。よって先に獲得していた一死と併せて三死でスリーアウト。野球は一回三死で攻守を入れ換えるが故に攻守交代である。」と理解しますが、野球に何ら興味のない者は「ロクヨンさん?ってだれ?月通?何それ?」とちんぷんかんぷんなのであります。

ところが「?」を通じて求める者は、野球通に尋ねるなどして、それらの語句の意味を知り、自然と理解を深め野球中継のテンポの良さ、面白さに目覚めていきます。しかし、求めない者は、決して野球と結びつかない「ロクヨンさん」と「月通」を脳内に悶々と抱えたまま日々を過ごすのです。

たとえば「AKB48」。

好きな人は一人一人の名前を判別し、個々の背景や役割を把握しながら、そのパフォーマンスを観賞するのですが、興味の無い人にとっては「何だか大勢女の子が歌っている」ぐらいにしか感じないのであります。

何が言いたいのか分からなくなってきてしまいました。

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閑話休題

ともかく、私は本山阿弥陀堂の晨朝勤行(朝の読経等)に参拝し、その後の「住職補任式」へと臨んだのであります。

尚、これを受式する際は、各寺院の門徒総代(役員さん)に同伴してい頂くのが習わし。いわば後見のようなもの。

全国より集まった新住職と総代方は総勢141名にも達しました。

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入念な事前リハーサルを経て、本番へと向ます。

その式の様子は当然のことながら撮影禁止なので写真はありません。

ご門主様より住職補任の辞令を手渡された時、一種独特の緊張感が走りました。それは私が僧侶の立場で本山の歴史的背景を知っていることから来るものなのかもしれませんが、改めてご門主様、ご本山の非常な重みを感じました。

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式終了後、国宝の白書院、鴻の間(こうのま)へと移動し、祝膳の精進料理を頂きました。鴻の間の雅やかな佇まいの中での食事は格別であります。

撮影禁止のため、写真でご紹介できないのが残念です。

ご門主様は式典の中で、そもそも現代人は、仏教が人々の抱える苦悩や迷いに応え得るものであるという認識を持っていない、という問題点を指摘されました(文責:管理人)。

まさに私自身が法を説く以前に、私の苦悩・迷いの諸問題を仏教に尋ね、そのみ教えに照らされて人生を歩んで行く身でなければならないと痛感させられた、貴重なご教化のひと時でありました。

 

 

 

 

 

 

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