前回のブログの続き・・・
善光寺山門をくぐると、何やら人だかりが。
本堂まで70~80メートルくらいあるでしょうか、その間、人々が列をなして何かを待っている風です。
しばらくすると・・・
朱傘を差した侍者を従えて、尼僧が来られました!いとやんごとなき佇まい。
どうやら、歩きながら並んだ方々の頭に触れている様子です。傍らにいた人に尋ねると、何でもこれから本堂で法要があり、そこへ出勤するお坊さんから功徳(※)を戴いてるんだということ。頭を触ってもらった人は皆ニコニコとご縁を喜んでいるようです。何百年も前から変わらず続いていることなのでしょうか?宗教的情緒溢れる光景です。
お坊さんを待つ列は本堂の外縁にまで連なっていました。信仰の純粋さを別にすれば、「日本人は無宗教」とは簡単には言えないような・・・
多くの人びとから親しまれ敬い大切にされている善光寺、その象徴的な一コマでした。(続く)
(※)ところで、浄土真宗における功徳について言わねばなりません。
「悪性さらにやめがたし こころは蛇蠍のごくとなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる」
(自分の心を徹底的に見つめれば、とどまることのない悪性が浮かび上がってくる。まるで恐ろしい毒蛇やサソリのようだ。善い功徳を積もうと修行にいくら励んでも、毒のまざった心では、偽りの修行にしかならない。)
親鸞聖人のご和讃です。聖人は、真理のはたらき-阿弥陀仏の智慧の光に照らされて、自分の心に宿る、ほんのわずかな煩悩さえお見逃しにはなりませんでした。その気づきから、ただの一つの修行も叶わない身、功徳を積むどころか、一生悪を造り続けざるを得ない罪業の深さを、わが身に自覚せられたのでした。
しかし、それは単なる絶望に終わりません。溺れるものをこそ救わんとはたらく阿弥陀仏の慈悲に照らされたからこそ、我が身の罪業性が徹底して知らされたのです。蛇蝎としか言いようのない我が心に、最も救いがたいものをこそ救わんとはたらく、阿弥陀仏の功徳(真実のさとりへと向かわせるはたらき)が満つるのです。
ですから、宗派によって受け取り方はさまざまですが、浄土真宗では功徳は仏さまから恵まれるものと感得されます。
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