被爆体験談(2)Bさんの場合②

被爆体験談(2)-②

Bさん(仮名) 85歳(2012年現在) 女性

《聞き取り時刻 2012(平成24)年8月24日 午後1時30分~午後4時30分》

 

【5】原爆の惨状 3日目

●日時 1945(昭和20)年8月8日 時間不明

●場所 爆心地から直線距離で、130m~580m附近

●状況

会社(左官町、現本川町)と祖母の家(堺町)の様子を見に行くため、電車道を通って市内中心部を歩く 

●体験談

 (原爆投下から)3日目くらいですかね、電車道を通って、白神社(爆心地から約560m)の辺まで行きました。手前(神社の南)の、今の100m道路(平和大通り)は建物疎開で、ある程度建物がないような状態でした。いざ言う時には、そこが滑走路になるということでしたから。その白神社の手前のところで、電車の、丸こげの、焼けた鉄枠だけの姿を見ました。それから少し(北へ)行くと、また同じような丸こげの電車がある。ほいじゃから、ああ、これが私が乗り過ごした電車か・・・あれもこれも無理に乗っとったら、私もこん中で焼け死んどったんじゃと思いましたもん。

 それで、この辺(旧日本銀行広島支店附近、爆心地から約360m)、日銀の前だったかしらん、(丸こげの)電車の中に―写真でも見ておられると思うけれども、電車の焼けた骨組みだけの―その中に、白い灰が山のように薄っすらと、ふわっと積もっとるんですよね。中が見えるわけですよ、鉄骨の枠組みだけですから。何でああいうに白いもんがあるんだろうか思うとったら、横を通ってる4、5人の男の人が、「あれ、人間の骨で」って言われたんですよ。骨の形に残らんくらい焼けて全部灰になっとるんじゃ、言うて。骨の形も残らず、灰になるまで焼かれるとはどういうことなんかなと思って・・・真っ白じゃないけど、ちょっとグレーのような色の、鉄骨じゃったらああやって(骨組みで)残ってるし、鉄じゃったら鉄の色なんだろうに・・・。私は電車に乗り過ごして助かったから、特に電車に惹きつけられたわけですね。あれに乗っとったら、満員電車で外に出るに出られず、ああいう形で焼かれとったんじゃと。真っ白じゃない、少しグレー・・・あれが頭の中に焼き付いてますね。

 もう火はなかったですね。焼け焦げた臭いはしてましたよ。死体はたくさんありました。御幸橋や日赤で(遺体を)見た時はこの世の地獄と思いましたが、その時より麻痺してしもうたんですね・・・私はそこまでようせんかったですが、死体が転がっとっても人がその上を跨いでから踏んづけて歩いていってんですもん。ただ100m道路の辺りは人影はなかったです。 

 広銀のところ(爆心地から約260m)、当時は芸備銀行って言いよったんですけど、あれはおしゃれな建物だってね、玄関前に鉄柱が4、5本建ってたんです、今じゃったらイタリア風じゃなんじゃ言うような。その鉄柱が倒れてから、壊れてぐしゃぐしゃになっとるんですが、男性が下敷きになって、頭、顔はきれいでまともなんですよ、ほんで足はもうお骨になっとるんですよ、目はパッチリ開いとるわ・・・体がぞーっとしましたよ。足はきれいに焼けとるのに頭は焼けなんだ・・・そりゃ頭のほうから焼けとったら記憶が早よ無くなるけえどうもない。なんぼ苦しかったんじゃろう思うて・・・もがいたって、鉄柱が押さえつけとるんだから、動きもスンともしないじゃないですか、あの丸太のような大きい鉄柱が折れたのに下敷きになって・・・生きたまま焼かれたんですよ。私は足が釘付けになって前に進まんかったんです。金縛りにあったみたいになって、大げさでなく本当に動けんかったですよ。なんぼか苦しかったんだろうな思うて、気の毒に・・・。

 それから西練兵場(爆心地から約160m、旧広島市民球場辺り)の前を通って―西練兵場は軍の広場ですからね。ここらも一杯死体がありましたよ。

そして相生橋を渡ったら、相生橋(爆心地から約260m)も半分はダメになっとりました。橋の南側は歩けんかって、北側の欄干のほうを歩いて行ったんですよ。それで本川小学校の前を少し西に過ぎた電車通りの北側のところ(爆心地から約500m)に、軍人さんが15,6人でしたかね、軍服も靴も焼けずにきれいなまんまで、隊列が整列した状態で、皆頭を同じ方向(己斐方面)へ向けて、倒れて亡くなっていたんです。胸にはみんな襟章を付けたまんまですよ。ずらーっときれいに並んでましたもん、それが不思議なかったね。

 それが、翌日(同じ場所を)通ったら(軍人の)上の服がない。その次の日は靴がない。そうやって結局はパンツ一枚になってました。だれかが持っていくんですね。(身に着けているものに)名前が書いてあるんだから、残しておいてあげたら、だれのだれべえ、いうのが分かるのに。真っ裸にしてしもうたら、軍人さんかも誰かも分からんじゃないですか。まあ、人間いうのは酷いことをするもんじゃと思いましたよ。

 会社(当時の左官町、現本川町。爆心地から約500m附近か)は全部焼けてましたが、高さが1mくらいの防火用水の水槽が残ってました。その壁が伝言板みたいになって、生き残った人が焼けた木材の炭で伝言を書いとりました。

 それから、堺町の祖母の住んでた家(爆心地から約580m)のところまで行きました。ここらはもう焼けて何にもないですからね。きれいに焼けてしもうてから。ただ、祖母の家の焼け跡に、ぬか漬けの樽だけ残っとりました。おばあちゃんが何十年いうて大事にしてきたのがね。残っとるいうたら、あれしかなかったですもん。その日はおばあちゃんの家を見て帰ったような気がします。

 

【6】黒い雨の痕跡 4日目

●日時 1945(昭和20)年8月9日 時間不明

●場所 爆心地から直線距離で、2.8㎞附近 

●状況

防火水槽に書かれた伝言を頼りに、会社の上司の自宅を訪ねる。

●体験談

 次の日(9日)に、結局同じ道(翠町から電車道を伝って)を通って、さらに己斐の旭山神社の下に、私の勤めてた会社の課長さんの自宅があって、そこに行きました。この方が何で助かったかというと、病気をされて、今で言うと胃潰瘍か何かじゃったと思うんですけどね、7月頃から会社を休んでおられたんですよ。ほいで、課長さんに、会社は全部焼けてしまったとか事情を話したり、他の社員さんの消息を尋ねたりしました。

その時、その奥さんが、外に布団を干しておられたんですよ。そしたら、黒いちょぼちょぼが布団について染みになっとるんです―黒い雨ですよね、「黒い雨が降って、取り込むのがちょっと遅くなったからね、布団がこういうようになったんよ」って言うことを聞きました。そこで初めて、私は黒い雨のことを知りました。

<備考>

 この日から終戦の8月15日まで、Bさんは会社の連絡係として市内を駆け回った。時には、大野町や可部町の遠方まで足を延ばす日もあったという。Bさんは、基本的に電車道しか歩かなかったので、どの場所で何を見たか、という記憶が鮮明である。

 

【7】学徒動員の従妹を探す 5~9日目

●日時 1945(昭和20)年8月10日~8月14日 詳細不明

●場所 爆心地から直線距離で、580m附近

●状況

会社の連絡をする傍ら、Bさんは、動員学徒の従妹を探す。

●体験談

 100m道路のところの建物疎開で、私の従妹が学徒動員されてましたので、会社の連絡の間に探しに行きました。能美島で医者をしとる人の長女なんですけどね、四月に県女(広島県立広島第一高等女学校、現広島県立広島皆実高等学校)に入ったばかりのコじゃったんです、12歳でした。おばさん(従妹の母)が、どこにおるんじゃろうか、死んどるんじゃろうか言うて。

市女(広島市高等女学校、現広島市立舟入高等学校)があっち(現平和大橋西詰辺り、爆心地から約520m)で建物疎開しとったから、県女はこっちじゃろうと見当をつけて探しました。それで、NHKの前(南側、爆心地から約580m)辺りの防空壕の中に(従妹の)非常袋だけは見つかったんです。着物の帯芯で作った袋で名前が書いてありました。中へノートやらハンカチやらが入ってました。でも本人は見つからなくて・・・皆(動員学徒が)、大の字になって焼けた姿ばっかりですよ。これ(非常袋)があるんだから、ここで死んどるんです。ほいで、何十人いう人の遺体を・・・もう腫れるだけ腫れて真っ赤になって・・・大の字言うけど本当に大の字になった人をね、裏返し裏返しして、従妹のアザか何かないか思うても、みんな同じような赤銅色になっとるんじゃから、分からんですもん。髪は焼けてもうボウズやしね。髪でも生えて残っとりゃ、髪型で分かるけど・・・丸ボウズじゃしね、男か女かも分からんし。もう腫れたいだけ腫れて、本当に大の字ですもん。手も腫れたいだけ腫れてインどる(死んでる)。そうか言や、反対にまーるくなって亡くなっとる人もおってね。(爆音が)バーンいうて、怖くなってしゃがんだまんま、息絶えたんでしょう。

<備考>

 建物疎開(空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事―ウィキペディア)に従事していた動員学徒の被害者数は甚大で、およそ6300名に上る。周囲の建物を撤去していたため遮蔽物が殆どなく、原爆の熱線と爆風を直接に浴びた。広島県立広島第一高等女学校は教職員含めて297名、広島市高等女学校に至っては動員されていた552人(教職員含む)全員が被爆死した。

                              

【8】散乱する遺体 5~9日目

●日時 1945(昭和20)年8月10日~8月14日 詳細不明

●場所 爆心地から直線距離で、580m附近

●状況

以前勤めていた逓信局(現中国郵政局)へ、会社の連絡で足を運ぶ。

●体験談

 紙屋町から逓信局(爆心地から約1.3㎞)へ行くのに、電車通りだったら遠回りですから、西練兵場の中を通ることに決めたんですよ。それで広島城(爆心地から約750m)の中を通りました。広島城の周りの堀は蓮畑になっとったんですが、人の遺体も自転車も何もかんもが落ちてました。それこそ(遺体が)水ぶくれです。何百人いう(遺体の)数じゃなかったかしら・・・もう自転車も何もかんも、犬も猫も一緒ですよ。中には浮いた人もあるし、首だけ見えるのもあるし・・・人の山で一杯ですよ、もう人間が入る余地がないくらいに、ここで人が死んでましたね・・・凄かったですよ。でも、この当時は、(原爆投下から)1週間くらい経っとるから、私も麻痺して(遺体が)怖くも何にもなくなってね。

 それから広島城の中を通り抜けて、逓信局の横に広島陸軍幼年学校いうのがあるんです。将校の養成所ですよ。逓信局は4階建てじゃったんですが、屋上へ上がったら、学校の広場に何百人いう生徒が整列してから、体操したり運動したり連呼したりしよるのが見えよりました。それが昭和19年の終わり頃になったら、(戦争が激しくなって)みな(戦争に)行ってしもうてから人数が少ないでんすよ。始めは運動場一杯に整列しとったのがね、だんだんだんだん少のうなって、最後には整列が二筋くらいしか見えんようになりましたよ。その学校のところから壁に隙間があって、そこから逓信局に入ったような記憶があります。

 それで、2回か3回か仕事の連絡で逓信局に行ったんですが、何回目かの時です。逓信局の手前(西側)に火薬庫(爆心地から約1.3㎞)があって、その横を電車が少しカーブして終点の白島に着くようになっとったんですけれど、その少し曲がったところを歩いてて上をふと見たら、女の人の長い髪が電線に巻き付いて、頭だけが下へぶらさがっとったんですよ。何であの時上をみたんじゃろうか。それまで何回かそこを通っとるんですよ。ある日、何の気無しにふっとみたら、女の人の頭だけ、髪が巻き付いて電線にぶら下がって、顔がまともに見えるんです。背筋がゾーッとしましたよ、背中に冷や水を浴びせられたようなね・・・。

 

【9】焼かれる遺体 7~9日目

 ●日時 1945(昭和20)年8月12日~8月14日 詳細不明

●場所 爆心地から直線距離で、730~130m附近

●状況

会社の連絡係として市内を歩き回る中、集められた遺体を随所で見かける。

●体験談

 ここに中電の建物(中国電力株式会社、爆心地から約690m)ありますよね、その上(北側)の建物が当時、広島図書館とか言ってたんですよ。そこが(原爆投下から)何日目かしたら死体の収容所になってた。ふと窓から見たら、中が死体の山になっとって。整然じゃないですよ、外から(遺体を)ほうり投げたような感じです。まともに丁寧に並べたいう状態じゃないです。福屋(爆心地から約730m)の1階も確か死体の収容所になってましたよ。

 紙屋町の防空壕―相生橋を渡って商工会議所(爆心地から約220m)があって、そこから今のそごうの所まで、電車通りの北側に防空壕がずーっと並んどったんですよ(距離にして約370m)。幅が畳一畳半くらいで、長さが畳二畳くらいの防空壕がずーっと並んでいた。終戦間近のことじゃったと思うんですが、その紙屋町の電車通りを歩いて帰るのに、蠅が湧いて湧いて、背中に沢山ひっついてくるわけですよ。というのは、兵隊さんが―札幌から来た言うとったね―、戸板に死体を載せて、防空壕へ投げるわけですよ。一人一人置くんじゃないんですよ、放り投げるんです。今じゃったら大問題じゃけど、あの当時は六人くらいが戸板に死体を載せたいだけ載せてから、防空壕へ投げるんです。横も縦もない何十人も山積みにしてあるんだから。(遺体は)皆、真っ裸で。で、(防空壕が)一杯になるでしょ、そしたらガソリンみたいなものをかけるわけです。真っ黒い煙が出てました。そこを3時頃(午後)通ったら、一面真っ黒い煙でした。その後ですよ、郡部のほうから身内を探しに市内へ人が入って来たのは・・・(遺体が)焼かれた後だから、身元が判るわけないですよね。

 蠅はね、少々の蠅じゃなかったですよ。紙屋町から白神社のほうを通ったら、たくさん湧いとって、タオルで必死になって払ってました。特に蠅が一匹一匹大きかったですよ。母に「何であんなに蠅が多いんじゃろ」って聞くと、「人間の肉が腐ってそこに蛆が湧いて蠅になるんよね」って言うから、市内で瓦礫の下で押しつぶされて焼けもせずに命絶えた人がそうようになったんじゃろうって思いましたよ。

 ああいうことは何時までも忘れられん、覚えてます。

 

【10】終戦後

 私が市内をね、あっち行ったりこっち行ったりしたのはですね、8月の15日までなんですよ。終戦記念日を己斐の広電の終点で聞いたんです。ラジオで放送がある言うんで近くの人が集まってきて、どうだらこうだら天皇陛下のお言葉じゃ言うて。よう意味が分からんかったけど、戦争で負けた負けた、言うてました。

 9月に入って、私は足の裏で五寸釘を踏んだんですよ。それが化膿して膝まで紫になって、皮が全部とれて歩かれんかったんです。それで弟二人がリヤカーを借りてきて自宅(当時は南区翠町から霞町へ移転していた)から日赤(広島赤十字・原爆病院)まで往復してくれたんです。でも、病院に行っても薬品が無いんですよ。ただ赤チンつけて帰るくらいのことです。それで帰ったら蛆が湧いとるんです(日赤から自宅まで直線距離で約2.6㎞ほどのもの)、消毒が足らんから。それで傷口のところの肉が落ちて、白い骨が見えて・・・肉がどんどんどんどん腐ってなくなっていったんです。それが(膝から下が)とうとう赤黒い紫になってしまいました。

 それから12月に入って、兄が鹿屋(鹿児島県鹿屋航空基地)から復員してきて、家に入ったら「死んだ人間の臭いがする」言うて。それで私の足を見て「お前そりゃ足を落とすようになるじゃないか」言いました。兄はすぐに能美で医者をしとる親戚の所へ行って、クレゾール三瓶をもらって帰り、原液を洗面器に入れて、その中に私の足を浸けたんですよ。

 二人の弟に抑え込まれて。もう痛いのなんの「殺して!死んでもいいから!」ってオラんだんですよ。兄が「バカタレ!」言うてね、軍隊療法なんかカミソリを持ち出して、足の肉の腐っとるところを全部取ったんですよ。さっさっさっと肉を落としていくんですもん、飛び上がるような痛みですよ。弟二人が姉さんごめんごめん言いながら抑え込むんですよね。(兄が)「ほんとに足をもいでもええんか、お前!」、私は「もぐんじゃない、それ(カミソリ)でいいけえ殺して!」ってオラんだんですよ。そのおかげで腐りが止まって助かったんです。半年以上靴が履けなかったですが。

 日赤では、膝から下を落とさんと、上へ毒が回ったらいかんから、残念じゃけど今度来た時はそうしよう、っていう話になっとったんです。そこへ兄が丁度帰ってきてから良かったんですが、生きとるんが良かったんかどうなんか、あれにゃあ参りましたよ。業というのは分かりませんね。原爆でも会社を病気で休んどったのばっかりが生き残ったんです。土曜日から歯が痛うて月曜日休んだ人とかね。

 私らが同窓会する言うても同級生が(原爆で多く亡くなって)いないですよね。当時のことを考えると何で私は助かったんだろうかと思います。この世に生きて、何かしなきゃいけないために生かされとるんかなとは思いながらも、中々ままならないです。

 原爆から3、4日目くらいですかね、相生橋を渡ったところ、電話局の前に公衆電話のボックスがあって、そこを通りよったら「おねえちゃん、おねえちゃん」言う声がして、どっから聞こえるんかと思ったら、ボックスの中に40代くらいの男性がいました。8月の3時過ぎ陽盛りの暑い日です、西日が当たっててね。「おねえちゃん、すまんがそこのトタンを一つとって影にしてくれんじゃろうか」って言われて、(トタンを)3~5枚拾って(ボックスに)くるっと回してあげたと思うんですよ。そしたら「おねえちゃん、ありがとの、ありがとの」って、3回から5回、いやそれ以上言われたと思うの。それが帰りにそこを通ってみたら、しゃがんだようなうつ伏せなったような・・・覗いてみたら息絶えとられたですね。

 また、天満橋の東側(爆心地から約1㎞)のところで、火傷で馬が立ったままヒーンヒーンって鳴いてましたね。それが帰りに見てみたら、横倒しになって死んでました。私らどうすることもできんでしょ。人だけでなくて馬や猫や犬や、たくさん死んでましたよ。

 本川小学校の前の飲食屋のおじさんは顔見知りでしたけど、大きな人で・・・防火用水の中で死んでおられました。もう水ぶくれになって・・・。

 川も、みなさん(被爆者)絵に描いておられますよね、川に(遺体が)浮いていても、どうすることも出来ないし・・・ぎっしり浮いてましたよ。

 「広島は、毎日毎日、焼夷弾攻撃じゃなんじゃいうことがのうて(無くて)、たった一発じゃったけえ良かったんかもしれんよ」と言う人もあるけどね。広島に焼夷弾が落ちたのは国泰寺のところだけですが、あの時はウチら河原町(爆弾が落ちた地点から1㎞遠方)におったんですけど音が聞こえましたからね。まあ、びっくりしてから、あの焼夷弾一発でも、あんな響きじゃから、あんなんが毎日落ちてきたらどうなるんだろうとは思いますがね。でも、毎日じゃなくて、たった一発かもしれんけれど、(放射能の影響によって)70年間草木は生えんって言われてましたからね。草木は生えましたが、原爆の後遺症で苦しんでる人は67年経った今でもおられますけえね。70年いう年数はそういうことなのかなと思ってます。

 だから今、福島のほうが大変ですが、原発の核廃棄物の問題もあるじゃないですか。焼いて焼却して済まされるもんじゃないですからね。地下何百メートルに埋めるいうても日本は地震が多いから考え直そうって言うとるじゃないですか。そんな後々残るようなもの、もっと人間が文明文明じゃ言わずに一歩引いて、後の処理が大変なものは無いほうがいいんじゃないかなあと、私は思いますね。原爆一つ落とされただけで、戦後70年苦しんできとるんですから、ほんと原発みたいなもの―日本には50カ所以上あるんですね、私は知りませんでしたが―もう作って欲しくないですね。

                                      (了)

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