講演録「戦争・被爆の証言」-諏訪了我-

●原爆投下

 満55年前(平成12年当時)の8月6日午前8時15分、産業奨励館(現在の原爆ドーム)の東南160メートルの島病院の上空600メートルのところで、世界で初めての原子爆弾がさく裂しました。その瞬間の熱線はセ氏100万度、一秒後には最大半径約200メートルの火の玉となり、地上の爆心地ではセ氏3000度から4000度の熱線と音速の2倍に相当する秒速700メートルの爆風、その上強烈な放射線によって人も建物も破壊され、4平方キロメートルにわたって焦土と化しました。

 私が生まれたお寺は、現在の平和公園内にある原爆慰霊碑の西、約10メートルのところにありました。今でこそ平和公園には人の住む家はありませんが、先ほどのスライドでも見られたように、当時はたくさんの家が軒を並べ、多くの人びとが生活を営んでいました。記録によれば、被爆前、現在の平和公園内に約1300世帯、4400人の人が住んでいました。この住民だけでなく、被爆当時、今の平和大通りにあたるところで強制建物疎開作業が行われ、市内・近郊から約1000人の義勇隊員、またその応援のために11の中学校、女学校の1・2年生約2000人が動員され、さらには県庁や県病院がありましたのでその職員など、多くの人々が被爆死しました。戦後・都市計画により盛り土をして公園として整備されましたが、1メートルも土を掘れば、今でも人骨が出てきます。私の家族は両親と姉と私の四人でした。原爆が投下された時、私は小学校6年生で、集団疎開で中国山地の三次市の隣の三良坂町にいて助かりましたが、両親と姉は被爆死しました。両親はいわゆる行方不明です。

●戦時教育

 私は昭和8年4月8日生まれで、今年67歳(平成12年当時)になります。私が生まれる2年前の昭和6年に満州事変が勃発し、満州国が建国されましたが、それが日本の傀儡(かいらい)政権だということで国際社会の非難を浴びて、私が生まれた昭和8年に日本は国際連盟を脱退し、孤立するなかで戦争への道を突き進むことになります。

 昭和12年には日中戦争が始まり、中国大陸への侵略が本格化しました。皇紀2600年にあたる昭和15年に、私は中島小学校に入学し、その翌年の昭和16年12月8日に太平洋戦争が勃発して、日本はドイツ、イタリアと共に世界を相手に戦争をすることになりました。

 こうして考えてみますと、私の子供時代は、日本のため天皇陛下のために命を捧げることが、日本国民としての使命であるという、いわゆる戦時教育の真っ只中にあったわけです。アメリカやイギリスのことを「鬼畜米英」と教わっていましたが、子供心に、本当にアメリカ人やイギリス人は鬼や畜生のようなものだと思っていました。教育による影響の強さを痛感します。

●集団疎開

 太平洋戦争も敗色が濃くなった昭和20年春、国民学校(現在の小学校)児童は空襲を避けて、田舎に疎開することになりました。中島国民学校からは約260名が双三郡三良坂町と吉舎町の七ヵ所のお寺やお宮などに分かれて集団疎開をしました。4月13日の朝8時、多くの保護者に見送られて広島駅を出発しました。

 先ほどのスライドにも疎開生活の写真が出てきましたが、今思い出して最も心に残っていることは、いつも「ひもじい、ひもじいい」という空腹の思いでした。食べられるの草はほとんど食べましたし、イナゴやトノサマガエルも食卓に載りました。麦刈りや田植えの時期、農家に手伝いに行くと、白いご飯の「ぎんめし」が腹いっぱい食べられるのですが、子供のことですから限度をわきまえず、必ずあとで上げたり下げたりして先生を困らせました。

 それともう一つ、ホームシックにかかって親の元に帰りたいという思いが強かったことです。今ごろ両親はどうしているだろうか。姉(4歳上)はどうしているだろうかと思うのです。そして親と一緒に暮らしてきたことを振り返るのです。しかし、私の場合、親孝行をしたとか、親を喜ばせたという思い出は出てこず、親を困らせたこと、よく姉弟げんかをしたことばかり思い出されて、子供心に後悔をしたものです。

 疎開生活の間に、一度だけ親たちが訪ねて来てくれました。親に会えることが嬉しく、どうやって親を喜ばせようかとみんなで相談して、暑い時でしたので、冷たい井戸水で手ぬぐいを冷やして、親たちを待ちました。親たちも都会の貧しい配給の食料のなかから、工夫して子供たちの喜ぶ食べ物を用意してきてくれました。ほんの半日の短い逢う瀬でしたが、多くのものにとってこれが最後となりました。

 8月6日、広島に原子爆弾が投下され、広島は全滅しました。私がお世話になっていた光善寺には、爆心地に最も近い中島本町、材木町の児童がいたので、両親・家族が皆亡くなったものが多く、そうでなくとも、ほとんどのものが家族の誰かを失いました。私も両親と親が亡くなり独りぼっちになりました。このようなことは思いもせぬことであり、遺体を見たわけでもないので、信ずる気にはなれませんでした。どこか周辺に逃げておって、今日は迎えに来るのではないか、明日は迎えに来るのではないかと待っていましたが、それは詮のないことでした。皆死んだことを信ぜねばならぬと思った時、もう親を喜ばせることはできない、親の喜ぶ顔を見ることはできないと思い、じだんだを踏みたいほど悔しい思いをしたことを思い出します。夕暮れになると、みんなお寺の石段に腰をおろし、広島の方の空を見つめながら、シクシクと泣く日が続きました。そして、肉親や親戚の人が迎えに来るごとに、一人二人と疎開児童の数は少なくなりました。

 従姉が私を迎えに来てくれ、芸備線に乗り広島駅に降り立って、変わり果てた広島の街の姿に茫然としたのは、原爆投下後1ヶ月余り過ぎた9月16日でした。赤茶けた焼け野原の向こうに、広島湾に浮かぶ安芸の小富士の似ノ島だけが、昔と変わらぬ姿でよく見えました。駅前から電車道に沿って歩き、歩道が浮き上がったT字形の相生橋を経て中島に入り、すべて焼きつくされた家の跡地に立って、これから先いったいどうなるのかと、うつろな思いであたりを見回した時の感慨は、今も忘れることはできません。

●なぜ戦争をする

 戦争は武器も持った軍人だけが行い、軍人だけが影響を受けるというものではありません。いったん戦争が始まると、年寄りも子供も男性も女性も、すべてのものがその渦の中に巻き込まれてしまうのです。そこに戦争の恐ろしさと悲惨さがあります。

  「誰も戦争の好きなものはいない。みんな平和を愛している」と言います。しかし、現実には人間の歴史始まって以来、この地球上で戦争の絶えたことはないと言われています。この矛盾をどう考えればいいのでしょうか。人間はなぜ戦争をするのでしょうか。みんな自分自身に問いかけ、考えねばならぬことです。

 私が問題意識として抱いていることは、自分さえよければよいという自己中心の考え、つまりエゴイズム、また自分は正しく、悪いのは他のものであるという独善性が戦争を招くもとではないか、ということです。私自身の心の中に、あなたがた自身の心の中に、エゴイズムや独善的なものがありはしないでしょうか。もしそうであれば、目をそらさず、まずその心を直視する目を持つことが大切です。自分のあさましさに対して素直に「相済まぬことだ」と顧みて反省することが大切です。そこから、相手の痛みや悲しみを、自分の痛み悲しみとして同感する心が恵まれます。それこそが平和の原点だと思います。自分だけが正しい、自分だけは違うという独善が、自他共に傷ついてゆくもとになるのです。

 私たち人間が、核兵器や化学兵器を持つに至ったことによって、地球が破壊される危機に直面しています。46億年とも言われるこの地球の歴史を、またその中で営々と続いてきたすべての生命を、人間の性によって破壊することがあってはなりません。その愚かさに気づき、倣慢さに歯止めをかける努力をしなければなりません。

 最後に、私の母が書き残した句を紹介します。これは私が昭和20年4月に集団疎開で旅立った時のものだと思いますが、母の実家に届けていた疎開荷物のなかにありました。

 「生きのびて ともにまた見む 桜の春」

(了)

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