真宗学十回講座(第9講)②-梅原眞隆- 

【淨寶 1927(昭和2)年2月1日発行分】

「第9講 浄土真宗の実践的観察」②

□ 宗教と道徳

 我々は実行はとかく難しいが、ともかくも、どうかして悪いことはなるべくしないようにしたいという思いがある。これはどうして、こういう思いがあるかというに、それは対他的の道徳上の苦しみからそんな思いが起こるというよりも、悪いことをして落ち着けない、違約をしたり、うそをついたり、かくれて悪いことをしたりすると魂がおびやかされるという、むしろ芸術的の内の苦しみのために道徳を実行するのである。この心を経験して釈尊が悪いことをすなるな、よいことをせよ、そこに自ら心を浄められると、七仏通戒偈(諸悪莫作、諸善奉行、自浄其意、是諸仏教)を与えられた。自浄其意、そこに真実の救いがあり、仏教がある。これは親切な言い方であり、かなり宗教的な言い方である。釈尊は決して善いことをせよ、世間の信用が得られて、金がよく儲かるとは言われなかった。

 昔から発達した宗教が一様に廃悪修善を我々の救われる有力な道であると説く。キリスト、仏教、神道教みな然り。文化的宗教はそこに人生の救いがあると説く。これは無理のない人生に対する忠実な道を教えたものである。これらの教えは自分が極めて平穏無事の時の心もちで―自分はこれで人間らしい当たり前の道を行っている―いかにも、おめでたい坊ちゃん気でいる時は落ち着けるが、もし「真によいことをしているか」と反省の前に真に自分をながめては、さすがに落着けない。廃悪修善の教えは人生の深さを、どれだけ見ているか。これは悪いことをやめ、善いことができると仮定した上での教えである。ところが人生の実際は、善いことだけになりきることは人生の最後まで来ない。

 我々は善悪のもつれに生きているのであるから、純粋の善を望めない。廃悪修善の世界は現れないで、最後まで善悪対立に生きねばならぬ。理性的と獣的、一方に地獄、一方に浄土を拝んでいる。しかも、この二つがどこまで行っても分立している。ちょっと考えると、道徳が深められるということは、悪がなくなって善の一方になることであるように思われる。ところが実際はむしろ善悪の対立が、はっきりとなることである。こういう生活は決して悪人になることではない。悪の意識が深められることである。善をしたいということは悪を反省することである。廃悪修善は実際には人生に来ない約束である。

 道徳は人生における大事なものの一つであるが、悪になるが故に裁かれ、善なるが故に救われるという世界には我々は生きることはできない。善悪を超えて受けとる力、即ち親子の間の愛の立場、この絶対的統一の上に初めて救われる者である。真の宗教は善悪摂取である。この善悪を超えて統一するあたたかい世界を親鸞聖人は見出されたのである。

  如来のお慈悲を道徳という一つの綱でつないでいる限り、懐かしいものを見失って来た。真の宗教は道徳では救われきれない者が救われる世界である。悪いことをやめて善いことになりきれない自分に突き当たって、新しいお慈悲の世界を発見したのが親鸞聖人の宗教である。悪人を裁くという世界よりも、悪を本当に悲しみ、悪人をこそ愛して育てて行くということこそ大事なことであり尊いことである。但し、この宗教が道徳を超越したということが、悪いことをしてもよいという反道徳的の教えであると思うことは大なる誤解であり邪見である。

 びくびくしていては駄目なので、真にお慈悲に馴れるまでに親しまねばならず、馴れると兎に角お慈悲をふみにじることになる。道徳を超越することは道徳的価値を否定するのではない。宗教は道徳的感情を魔酔さすものではない。道徳を超えた宗教は道徳を受け入れながら、もっと深く超えて深められる。宗教的信者の胸にこそ、真の道徳的深い悩みがある。ただ、この悩みをお慈悲にはぐくまれるところに救いがある。つまり宗教に入れば、いよいよ道徳的意識がはっきりしてくるのである。

 道徳を超えたものが、やがて新しい道徳の基礎になる。善人になりきれない私が、そのままのお救いのお慈悲を見出したところに、悪いことを平気でやれない尊い心を与えられ、自ずから頭を下げさせて頂く。転悪成善の益を得るのである。悔い改められぬ私が、そのまんま救われるところに、真に悔い改めなければならぬ真の生活が生まれてくる。この宗教まで来てこそ真の道徳に入ることができるのである。

 宗教と生活

 我々の宗教生活は凡夫の心を捨てて如来の心一つになることではない。これは浄土に入って知る世界である。この人生では最後まで煩悩悪業の本能的存在である。この不完全な煩悩悪業の真ん中に如来の慈悲の完全を頂くのである。煩悩悪業をとりのけるのでなしに、煩悩悪業のそのまんま、ひっくり返って喜びにかわる世界、田の中の草をとってそのまま田の肥やしにする。この転悪成善こそ大乗仏教の根本精神である。

 宗教生活の味わいは考える心、感ずる心だけでない、全生命をもって全生命をうけとるところにある。故に信仰が生活の原理になる。不完全な私の生命が最も高いものと交わっていく。そこに喜びと悩みとがある。

 私はいつも、懐かしい心、素直な心で念仏して「本当にありがたいことであると喜んでおります」、という人よりも、私は喜ばねばならぬ深いお慈悲を喜べぬ浅ましい者でありますと涙を流す人こそ、如来に近い生活者である。愛しているという意識を持った人よりも、愛せられませぬと泣く人にこそ真の愛の心はある。光の内にのみ味があるのではない。闇の中に光を見る人こそ尊い。闇の中に泣く人こそ光を真に見る人である。あやまる心の涙の中こそ、尊い生命は生まれる。この掘り下げて行くところが如来の用き(はたらき)であり、この転悪成善こそ仏凡一体の妙境である。

 宗教は如来と一緒に日暮しすることである。そこには今まで知らぬ、深い喜びと深い悩みがある。これが私の生活をますます深めて頂く所以(ゆえん)である。

 宗教と生活というよりも、生活が最も純粋に高められたものが宗教である。今後我々は地上に浄土をつくり出すというような高上りの心は持たないが、しかし力一杯如来に仕えるということによって、少なくとも今日よりもより良い生活をさせて頂きたい。凡夫だから何事も浄土へ行ってからということによって、決して怠けてはならぬ。

(了)

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