「全戦争死没者追悼法要・原爆忌70周年法要」記念布教ー諏訪了我ー

「全戦争死没者追悼法要・原爆忌70周年法要」記念布教

            平成27年7月4日午前10時~ 於本願寺広島別院

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讃題『平和を願う言葉』

 「(前略)私たちの姿をかえりみる時、『さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし』という恐ろしさをそなえています。それが国家の危機、個人の危機に際して、どのような姿をとって現われるかは、先の大戦中に多くの人々が経験したところであります。私たち自身が傷つくとともに、他の多くの人々を傷つけたその反省に立ってはじめて、平和への願いが力あるものとなるでしょう。親鴦聖人は、そうした私たちのいつわりなき姿を罪悪深重の凡夫と受けとめられ、そこにそそがれる真実、無量寿・無量光の如来のまことを仰がれたのであります。そこにはすべてのいのちあるものが手をとり合い、信じ合える世界が開かれています。(後略)」

はじめに

 皆さん、おはようございます。本日は、ご門主さまのご親修により「本願寺広島別院・安芸教区全戦争死没者音庫法要並びに原爆忌70周年法要」が勤修されます。皆さま、ようこそお参り下さいました。私は、この法要に際して、記念布教を仰せつかりました浄寶寺住職諏訪了我でございます。

戦前の中島地区

 浄寶寺は、今は中区大手町にありますが、原爆が投下されるまでは、旧中島本町で、現在の平和公園内にある原爆慰霊碑から西へ10メートル余りのところにありました。今でこそ平和公園には人の住む家はありませんが、大正時代から昭和のごく始めまでは広島の繁華街で、私も子供心に覚えていますが、多くの商店が並び、映画館や飲食店、旅館などがあり、お寺も宗派はいろいろですが10か寺ありました。爆心地だったこの中島地区は、戦後、都市計画で公園になり、浄寶寺は換地として大手町に移ったのです。

集団疎開

 私は中島小学校に通っていました。当時は国民学校と言っていました。太平洋戦争も敗色が濃くなった昭和20年春、国民学校の児童はアメリカの飛行機による爆撃を避けるために、田舎に疎開することになりました。中島国民学校からは約260名が、今は三次市になっていますが、当時は双三郡と言っていました三良坂町と隣の吉舎町の7か所のお寺やお宮などに分かれて集団疎開をしました。昭和20年4月13日の朝8時、多くの保護者に見送られて、私たち疎開児童は広島駅を出発しました。私は国民学校の6年生になったばかりで、12歳でした。

 私がお世話になった三良坂町の光善寺には、相生橋のたもとから吉島の南端までの中島学区の中でも、爆心地に最も近い中島本町、材木町の児童かおりました。

原爆投下

 その年の8月6日午前8時15分、現在の原爆ドーム・旧産業奨励館の東南160メートルのところにある島病院の上空580メートルのところで、世界で初めての原子爆弾が炸裂しました。爆発の1秒後には最大半径200メートルの火の玉となり、地上の爆心地ではセ氏3千度から4千度の熱線、それに音速の2倍に相当する秒速700メートルの爆風、その上強烈な放射線によって人も建物も破壊され、広島は焦土と化しました。亡くなった多くの方は安芸門徒の方々でした。

家族を失う

 私の家族は両親と姉がいましたが、3人とも亡くなりました。それまで、空襲で誰かがどうかなるかもわからないということは考えないではありませんでしたが、皆死んで一人になるということは全く考えていませんでした。遺体を見たわけでもないので信ずる気にはなれませんでした。こんな思いもかけない人生は嫌だと思いました。しかし「それは気の毒なことだ。あなたの人生を私か代わってあげよう」と言って、私の人生を代わってくれる人はありません。思いがけない人生であろうと、意に沿わぬ人生であろうと、私の人生は私か生きていかねばなりません。『大無量寿経』の中にも

「人、世間愛欲の中にあって、独生、独死、独去、独来(独り生まれ独り死し、独り去り独り来る)。行に当たりて苦楽の地に至り趣く。身みずからこれをうくるに代わるものあることなし」

と説かれています。人生の代理人はないのです。厳しいようですが全くその通りです。

 ところで、先ほども言いましたように、私かお世話になった光善寺にいたのは爆心地の児童でしたから、家族が皆亡くなって一人になったものは私だけではなく結構多くいました。そうでなくても家族の誰かを亡くしていました。

 光善寺はちょっと小高い所にありましたが、夕暮れになると、みんなお寺の前の石段に腰をおろし、広島の方の空を眺めながらシクシク泣く日が続きました。そして肉親や親戚の人が迎えに来るたびに、1人2人と、疎開児童の数は少なくなっていきました。

 親戚の者が私を迎えに来てくれて、芸備線に乗り広島駅に降り立って、変わり果てた広島の街の姿に茫然としたのは、原爆投下後、1か月と10日過ぎた9月16日でした。赤茶けた焼野原の向こうに、広島湾に浮かぶ安芸の小富士の似の島だけが、昔と変わらぬ姿で、すぐ目の前に見えました。1発の爆弾でこのようになったことに驚きました。

 駅前から電車道に沿って歩いて、中島に向かいました。爆風で歩道が浮き上がった相生橋を経て中島に入り、全て焼き尽くされた寺の跡地に立って、これから先いったいどうなるのかと、うつろな思いであたりを見回した時の感慨は、今も忘れることはできません。今年、あれから70年が経ちました。

戦争とは

 戦争は、武器を持った軍人だけが行い、軍人だけが影響を受けるというものではありません。いったん戦争が始まると、年寄りも子供も、男も女も、みんなその渦の中に巻き込まれてしまうのです。そこに戦争の恐ろしさ、悲惨さ、やりきれなさがあります。

 人間はなぜ戦争をするのでしょうか。お互いに自らに問うてみねばなりません。仏さまの教えを聞く身として私自身思うことは、自分さえよければよいという自己中心の考え、また自分は正しく悪いのは相手であるという独善性が、戦争を招くもとではないかということです。

 戦争を行う時、双方が、相手が悪く自分の方が正しいのだと主張します。日本もかつての戦争を「聖戦」と言っていました。平和への願いも、その起点が単に戦争の悲惨さ、恐ろしさ、恨みというところに留まり、被害者とか加害者ということに固執しているならば、立場を異にした人間の自我の衝突は免れ得ないでしょう。

 先程、ご讃題で読みました『平和を願う言葉』は、昭和57年3月6日に開催された安芸門徒結集大会の時、平和公園の慰霊碑の前で、大谷光真前ご門主が述べられたもので、その一部を読みました。その中で「私たち自身が傷つくとともに、他の多くの人々を傷つけたその反省に立ってはじめて、平和への願いが力あるものとなるでしょう」と述べられています。

平和の原点

 如来さまのお心を聞かせていただくことを通して、我を是とし、他を非とする独善性の恐ろしさに気づかされ、仏さまの大慈悲のもと、すべてのものが煩悩具足の凡夫として救われればならぬ命であることに目を開き、同じ立場で同悲同感していく心こそ、平和の原点ではないでしょうか。

被爆親鸞聖人像について

 ここで是非皆さまに聞いていただきたいことがあります。それは、広島で原爆に遭われた親鸞聖人の銅像が、今、国連本部のあるアメリカ・ニューヨークの浄土真宗の仏教会の玄関入口の横に立っておられます。時間の関係で詳しいことは話せませんが、これは昭和12年に大阪の信仰篤い実業家・広瀬精一氏が南無阿弥陀仏の六字にちなんで、六体の旅姿の親鸞聖人の銅像を制作され、その一体をご法義篤い安芸門徒の広島にということで、広島市街を一望できる三滝の高台に安置されました。昭和20年8月6日、原爆が投下され、爆心地から約2.5キロメートル離れてはいましたが、もろに強烈な熱線・爆風を受けられ、市中が破壊・焼失してゆく惨状を見つめられた聖人像です。

 戦後、広瀬精一氏が二度とこのようなことがあってはならぬと、核兵器廃絶と平和を願う像として、国連本部のあるニューヨークにお渡りいただきたいと発願され、昭和30年に実現したものです。

 実は、私は昭和35年から38年まで、南米開教師としてブラジルに行きましたが、帰国の途中、ニューヨーク仏教会に参りまして、この親鸞聖人像に手を合わせました。 しかし、その時、それが被爆聖人像とは分かりませんでした。

 それから19年後の昭和57年、当時の光真ご門主が『平和を願う言葉』を述べられたのを機に、安芸門徒を中心に反核・平和の署名運動を展開し、30万を越える署名を得て、安芸教区代表として三篠の光隆寺前住職・光寺重信師と湯来の西法寺住職・吉崎哲真師の2人が、第2回国連軍縮総会開催中の国連本部に届けました。その時光寺師が、仏教会の前に立っておられる親鸞聖人像が被爆聖人像であることを確認しましたが、その由来を語る何ものもありませんでした。帰国後、その報告を聞き、是非顕彰碑をということで募金活動を行い、縦70センチ、横1メートルの広島産赤御影石2枚に和英両文を刻んだ顕彰碑が完成し、昭和60年、前述の光寺師と草津の教専寺前住職・故選一法師の2人が代表として参列し、除幕式が行われました。

 このことを知っておられる方もありましょうが、知らない方も多いのではないかと思います。是非語り継いでいきたいものです。

 私の話はこれで終わります。ご静聴有り難うございました。

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