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何となくありがたい ー諏訪令海ー

【淨寶第8巻第5号 1928(昭和3)年5月10日発行分】

何となくありがたい ー諏訪令海ー

 

「何となくありがたい。」

こうした心持ちはちょっと考えると、いかにも力なく、たよりないように思われるのであります。

私たちは何事に対しても水際立って、これこれというような、はっきりとした心持ちがつかみたい。仏様を信ずるということも、南無阿弥陀仏の親さまといよいよ親子の名乗りをあげて、これで本当に大丈夫であると安心したい、こうした確かな水際が立たなければ、安心がならないように思うのであります。

この間、私の知人の家が養子をもらいました。その家はよくお寺参りをするお母さんと養子娘とただ二人きりで、相当裕福な家であります。養子さんは昨年ある大学を出た、宗教心のある模範的な青年であるということでした。

三三九度の式もめでたく終わり、親子の盃がすんだ時、お母さんが、

「不思議なご縁で、こうして親子の因縁を結ばせたもらったことでありますが、これからは私はあんたをほんとの子と思うから、あんたも私を、ほんとの親と思うて下さい。」

と、申しました。養子がもちろん、

「ありがとうございます。私はこれからあなたを、ほんとのお母さんと思うておつかえ申します。」

と、返事する事を待っておりました。養子は何の躊躇もする様子もなしに、

「それは無理ですよ。ほんとの親でもないあなたを、ほんとの親と思えなんて、そんなことができるものですか。」と、はっきり答えました。

昔風のお母さんは実に驚いたばかりでなく、

「今度の養子は宗教心のある、よい青年であると聞いていたのに、これはまた案外不心得な者であった。」

と、非常に立腹したのであります。

あとが、どさくさもめて私に相談がありましたが、

「いや、それは却って見込みのあるよい青年であると思います。」

と、いろいろ私の考えを聞いて頂いたことであります。

「私はあんたを、ほんとの子と思う。」

「私はあなたを、ほんとの親と思います。」

と、言うことは、とりも直さず、それがほんとの親子でない証拠であります。

私は私のお母さんに対して、かつて一度も、

「私はあなたを、ほんとの親と思います。」

と、言うた覚えはありません。もし、お母さんに対してそんなことを言ったら、

「何を今更、そんなことを言うのか。お前は一体どうかしているのではないか。」

と、きっと笑われるでしょう。

真実の親子は今更らしく、水際をたてて、親子の名乗りをあげる必要のないほど、直接なそのものであります。

今更、水際立てて「親子じゃ」「子じゃ」と名乗りをあげねば安心できないと思うのは、それが即ち水くさいまま、子根性なのであります。

もっと直接に私どもと一つになっていて下さるのが、南無阿弥陀仏の親さまであります。

私はお母さんに対して、取り立てて水際だって、親を親として頂いた日暮らしをしているかというと、決してそうではありません。それどころではない、むしろ、親を親とも思わぬ不幸な日のみを送っておるのであります。しかもその中から、

「何となくありがたい。」

とでも言うより外に、言いようのない勿体なさ、尊さを感ずるのであります。

おまかせの生活(2)ー諏訪令海ー

【淨寶 1928(昭和3)年2月1日発行分】

おまかせの生活(2)ー諏訪令海ー

 

 この「如来さまにおまかせする」という真宗の信仰は、ちょっと聞けばすこぶる簡単で如何にも安っぽい信仰のように思う人もありますが、決してそうではありません。これには全く大乗仏教の尊い極致が含まれているのであります。
 仏さまを礼拝するということは、ただ本堂やお内仏の前でお木像やお絵像を拝むのだけが真に仏さまを拝む所以ではないのであります。仏さまを拝む心を以て親を拝み、子を拝み、夫を妻をお友達を、そればかりではありません。一紙一粒にいたるまで勿体ないという心で拝む生活こそ、真に仏さまを拝む人ということができるのであります。
 これと同じように、「自分の計らいにまかさないで、如来さまにおまかせする」ということは、単に死んでから先の後生の問題にのみ関してではありません。我々は何事によらず自分の我利我利の計らいにまかすところには救われた安心の生活は得られないのであります。如来さまの声を聞く、如来さまの仰せに従うところに、はじめて真の救われた生活があるのです。

 今から十数年も前のことでありました。私の家へ曽我先生(曽我量深)に来て頂きました時、先生のお話に、
 「私は親猫が可愛らしい子猫を一生懸命に舐めて可愛がっている姿を見て、静かに自分を反省してその親猫の前へ頭を下げて懺悔せずにおれませんでした。それは私たちは折角我が子を愛しながら、ただ愛することが出来ず、その心の底には、こうもしておけば、やがてこの私のために尽くしてくれるであろうという心が潜んでいるのであります。私の愛は猫にも劣って浅ましいものであります。」と、涙を流して物語られた、敬虔な先生の態度が、今に私のうちにはっきりと残っておるのであります。
 「いや、私はそんな水くさい心で自分の子を育ててはいない」と思う方があるかも知れませんが、あなたが折角辛苦をして育てた子が成人して、もし年老いたあなたを捨てた時には、あなたの心に、「今まで苦労して育てて来た親の恩も思わないで」という腹立たしさは起こらないでしょうか。我々の心の底には何事によらず、この我利我利の功利的な心が殆ど無意識的に潜んでいる。それほど根深く心の底に食い込んでいるのであります。
 我が子を育てる甲斐を、身勝手な心で我が子の上に求めるところに、我々の救われない悩みが起こってくるのであります。
 私が二度目の子を失った時に、
 「あなたのように折角お子さんが生まれても、死んで去かれては、あとに悲しみが残るばかりで、それでは子を持った甲斐はありませんね。それを思えばむしろ私のように全然はじめから子を持たぬほうが幸せでしょう」と、ある婦人が言われた時、
 「何を勿体ないことを仰るのですか」と、覚えず私は叫びました。
 この世の中で私は親に成り得たことを何より深くよろこぶのであります。それは、たとえその子が五年、六年の短い生涯で悲しみを残して私をこの世において去ったとしても、なお、我が子に対して感謝せずにおれぬのであります。ほかの何ものによっても、到底味わうことのできない深い喜びと、そして悲しみを得させてくれ、私をしてほんとの生活をさせてくれたのは全く我が子であります。
 私の子はそれほどまでに尊いものを与えてくれたのに、私は我が子に何を与えたでありましょうか。それを思えば私はただ泣いて我が子の前に合掌懺悔せずにはおれないのであります。

 去年の暮れに、養老院その他への金品を募集致しました時、日曜学校のある生徒のおばあさんがお米を袋に入れて持って来て下さいました。これは何升ありますかとお尋ねいたしましたら、何升あるか分かりませんと仰います。計っておいでたのではありませんか、と言いましたら、
 「いえ、これは毎日お米を計る時、ほんの一握りずつ、つまんで年末に養老院のおじいさんやおばあさんたしに食べて頂こうと思うて、のけておいたのをそのまま持って来たのであります」と聞きまして、本当に嬉しく、押し頂いてお礼を申しました。

 県病院の看護婦長さんが、「こんなものでも受けて頂けましょうか」と、大きな箱を持って見えられました。開けてみますと、刻み昆布のような莨(たばこ)が一杯入っております。これはまたどうしたものですかと聞きますと、
 「これは沢山の看護婦の方と、毎日溜まっている莨の吸い殻を綺麗に整理して莨だけをとって貯めたのであります」と、申されました。

 人にものを施すことの尊さは、施した甲斐にやがて先で何ものか、私以外のものから私に報いられる、というところにあるのではありません。施物を受けて喜ぶ人よりも、一握りのお米をのけながら「これを養老院のおじいさんや、おばあさんに」という温かい心を毎日持たせて頂くところにこそ、施す者の恵まれた尊さがあるのであります。
 この子を育てておけば、やがては、ああもしてくれよう、こうもしてくれようというような、自分以外の子の上に、欲望を持つことは大きな間違いであります。日々、我が子を育てるというよりも、むしろ我が子によって自分が育てられていることが我々の実際であります。そこに日々、我が子に対して大いに感謝すべき甲斐があるのであります。

 わしが育ててやった、わしが施してやったと思うて、その甲斐を自分以外のものの上に求めるところには、既に真実の布施の功徳は差し引かれて、あとに残るものは「育ててやった、施してやった」という憍慢の心と、この心によってやがては「私は、ああもしてやったのに、それにあれは」という愚痴と、腹立ちの苦しみの炎が与えられるだけであります。

 私が育てた、私が施した、私がお寺へ参った、私がお念仏をした、と我が計らいにまかしたら、自分以外の向こうへその甲斐を求めるようになり、そしてそれが為に却って苦しむようになるのであります。
 自分にまかさないで、全てを如来さまにおまかせすると、育てるところに、施すところに、お寺参りをする、お念仏を申す、そのありたけのうえに、自分以外のものによってでなく、自分の内に尊いお救いを味わわさせて頂くのであります。

—(了)—

 

 

 

 

おまかせの生活(1)ー諏訪令海ー

【淨寶 1928(昭和3)年2月1日発行分】

おまかせの生活(1)ー諏訪令海ー

 

  それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。
しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。【親鸞聖人 教行信証信文類序より抜粋】

 この間、あるところへお話にまいりましたら、
 「私は今日こそご信心を得たいと決心して、いつもお参りをするのでありますが、どうも・・・・・・・・・・。」
 と、口ごもりながら言いにくそうにある方が申されました。
 「それはお気の毒であります。が、あなたの今日こそ得たいお思いになるご信心というのは、どんなご信心なのですか?」
 「それは、いつ死んでもお浄土へ参らせて頂くに間違いないというご信心をしっかりとこの私の胸に頂いて、安心がしたいのであります。」
 この人が求めているようなご信心が得たいと思うて、しかも得られないと言うて、いつまでも苦しんでいる方が随分沢山あるようであります

 「いつ死んでもお浄土へ参らせて頂くに間違いないというご信心が頂きたい。」と言えば、その言葉は一通り筋道が通っているようでありますが、その言葉の底を流れている、というよりも、もっとその言葉の土台となっている心持ちをよく考えてみますと、これは、わしがわしがの醜い我執我慢がご信心ご安心という紅白粉をつけて、いかにも美しそうに装うて化けているのではありますまいか。 

 昨晩もある方が言われました。
 「今朝、早くお寺の鐘がなりますので、お参りをしようと思いましたら、うちの人が、お前のようにお寺の石段がちびるほどお参りをしても、何こそ参った甲斐がないではないか。そんなことなら手間ひまを潰してお参りすることは、やめた方がましじゃ、と言われました。」
 この「参っても参っても、参った甲斐がない。」という心持ち。それは、私たちは何をしてもそのしたことの他に、これによって別の何ものかを得なければその甲斐はない。でなければしても全く損であるという心持ちが、いつも離れぬのであります。

 一日働けば二円五十銭になる、この学校を卒業すれば中等教員の資格が得られる、大学を卒業すれば学士になれる、女学校を卒業すれば先ず一通り嫁入りの資格ができると考えるのであります。

 働くことよりも、勉強することそれ自体よりも、お金になりさえすればよい、資格さえ取れればよい、もっと十分を言えば働かずに徒衣徒食していることが名誉ででもあるかのように思い、勉強して自分の内を充たすことは思わないで、卒業証書を握ったが最後、勉強にいとまを出す人であります。
 何をしてもただでは働かぬ、全てがそろばん勘定であり、私たちの心にはこの飽きない根性が随分根深く食い込んでいるようであります。

 お念仏をすれば、どうかなるのでありますか、ご信心を得さえすればお浄土へ参ることができるのでありますか。
 お念仏やご信心にまで、飽きない根性で取引をしようとするのであります。そして「この我が胸に、しっかりとご信心を得て」、いざ臨終の夕べになったら、これでお浄土へ参らせて下さいと、我が得たご信心でお浄土参りの取引を済まそうとするのであります。
 そんなご信心ご安心は言葉はなるほど美しいけれども、その本質の心持ちは、全くわしがわしがの我執我慢が化けたものに過ぎぬのであります。こんな心持ちのもとに、よしご信心が得られたと思うて一時はよろこぶことがあって、やがてはそれが壊れたというて泣かねばならぬ時がきっと来るでしょう。それはむしろ当然のことであります。みにくい我執我慢が信心安心という美しい紅白粉を塗って、一時ごまかしていたに過ぎぬのですもの。つけたものが剥げるのは当たり前であります。

 それならと言うて、仏法には何をしても一向にその甲斐がないのかと言うと、決してそうではありません。大いに甲斐はあるのであります。しかしそれは我々の我執我慢が望むような甲斐とは全然そのものがらが違うのであります。
 私がお寺に参り、私がお念仏を申し、私がご信心を得たからその甲斐で助かる、お浄土へ参って楽しみができるという、そんな甲斐があるのではないのであります。
 この私がお寺に参り、お念仏を申させて頂いておるありたけが、そのまま全く私の救われていく姿なのであります。私が念仏したから如来さまが手を延ばして、救うて下さるのではありません。もっと直接に如来さまのお救いが私の念仏となって下さったのであります。念仏は私の叫びであって、そのまま私を呼んで下さる如来さまのお呼び声であります。お念仏を申すとその甲斐で、やがて地獄に堕ちないで済むのではありません。如何なる苦しみ悩みも、たとえ恐ろしい地獄の炎も涼しい風とするのがお念仏であります。お念仏することそれ自体がお救いであります。このありたけに目覚めさせて頂いたのが、とりもなおさずご信心であります。

 どうも、いくらお寺に参って聴聞しても一向にその甲斐がない、折角お念仏を称えても時には飛び立つような喜びを味わうこともあるが、大抵が借りてきた猫のように、油に水を差したようにどうもしっくりしない。こんなことではまだお慈悲が頂けぬのであろう。と、こんな嘆きを持つ人は、全くお慈悲をそろばん勘定で取引しようとする人であります。自分がお寺へ参り、自分がお念仏をし、自分が信心を得ねばならぬと思うて焦っている人であります。私たちのそれらのものを、どれだけ積み重ねてみたところで、それはただ醜い我執我慢を積み重ねたに過ぎないので、積み重なるほど醜さを増すばかりであります。そこには安心どころではない、ますます不安が兆して、遂には臨終来迎をたのむより他に道がなくなるのであります。

 真宗の信仰は南無阿弥陀仏の他にないのであります。南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に南無することであります。南無とは帰命、帰命とは阿弥陀仏の勅命に帰順すること、即ち阿弥陀仏の仰せにまかすことであります。
 私たちは自分にまかしたら我執我慢の他にないから、ろくなことにはならぬ。折角お寺に参り尊いお念仏を申しても、そろばん勘定の商い根性でガリガリの取引よりできぬ。そこで、このわしがわしがの自分にまかさないで、如来さまの仰せにまかすのであります。如来さまの仰せは、「お前に対する、私の名乗りである南無阿弥陀仏を聞いてくれ。そして、私の名である南無阿弥陀仏を称えてくれよ。」との仰せであります。この仰せに従うて仰せ通りにお慈悲を聴聞し、お念仏をさせて頂くことの他に別に、救われていく道はないのであります。
 「それなら、その仰せに従うて、お慈悲を聴聞して、お念仏さえしておれば助けて頂けるのでありますか?」
 さあ、その「こうもしたら、これで助けて頂けるか?」というその心持ちは、また商い根性のわしがわしがの手を出して、如来さまにまかしていない証拠であります。私が聴聞してお念仏したからお助け下さるのではありません。ただ仰せに従うてお慈悲を聴聞して、お念仏をさせて頂いているありたけが、そのまま救われて行く姿なのであります。

ー(2)へ続くー

慈善に対する反省(2)ー諏訪令海ー

【淨寶 1928(昭和3)年1月1日発行分】

慈善に対する反省(2)ー諏訪令海ー

 

 一昨年の暮でありましたが、年の市の賑わいで雑踏している街中を「救世軍慰問品」と貨物自動車の後ろに大書して、餅やらみかんや炭などを沢山積み、その上に男女の救世軍の人たちが得意然と乗り込んで、爆音の煙をはきながら貧しい人たちの住んでいる町の方へ走って行くのを見受けました。

 去年の暮れ、隣保館へ募集品を託して、貧しい方々に適当に分けて差し上げて下さいとお頼みした時、分配する時においでになりますか、気の毒な方々をご慰問なさいますかと聞かれましたが、私はそれをお断り申しました。それは私には、そんな気の毒な方の前に立って、何と言って慰問したらよいか、その言葉がわからんのであります。いや言葉がないのではない、全く私に慰問する資格がないのであります。自分はたらふくに腹につめこみ、今日は寒いというて温かいものをうんと着込んだ私が、飢えに泣き、寒さに震えている方々の前に立って何を言わんとするのでしょうか。私が着ている物を脱ぎ捨て、持っているものの全てを投げ出すことができたら初めてその人たちを慰める資格ができたと言えるでしょう。この資格のない私がその気の毒な人たちの前に許される言葉は「どうか許して下さい」、ただこの一言でありましょう。

 奈良の先生の言を聞き、救世軍の慰問車を思い出して、その余りに無反省な態度に憤慨して、これらの人たちの態度に反して自分の当を得た態度を色々思い出して、いつの間にか悦に入っている、おめでたい自分のすがたにふと気付いた時、私はただ一人脇の下から冷や汗を流し、顔に火のような熱さを感じたのであります。「私こそ何という無反省な恥ずかしい奴であろうか」

 奈良の先生や、救世軍の人たちの態度に対して憤慨する資格が、果たして私にあるでしょうか。もし私の心の中に、気の毒な人たちを自己売名の道具にするような浅ましい心を持っていないなら、ある人たちのような態度をとらなかったのなら、それは私に憤慨する資格があると言えるでしょう。
 「果たして、お前にはそんな恥ずかしい心は全くないか。」
 「全くありません。」と私は答えることができないのであります。救世軍の貨物自動車を見て、「あれは何だ、売名か」と思った刹那、私は眼をつぶって顔をそむけたのであります。何故あの「救世軍慰問品」を大書した貨物自動車を正視するに忍びず、眼をつぶって顔をそむけたのでありましょうか。あの浅ましいすがたは救世軍の人たちではなくて、あれは全く私の心のすがたそのものであることに気付いたからであります。
 そればかりではありません。養老院の報恩講も今では初めて思い立った時ほどの張り詰めた心はいつの間にか失って、ただ年末の行事であるからというような恥ずかしい心で、しかも自分は憍慢の峰に登って人を見下していることの浅ましさ、ただ慚愧の外ないのであります。
 「火宅無常の世界はよろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」—親鸞聖人—

ー(了)ー

慈善に対する反省(1)ー諏訪令海ー

【淨寶 1928(昭和3)年1月1日発行分】

慈善に対する反省(1)ー諏訪令海ー

 

 奈良女子高等師範学校では、去る一日、桑野教授引率のもとに、家事科四年生40名余名をして、大阪今宮の細民窟を視察せしめたが、桑野教授は視察の目的を説明して「生徒たちは明るい方面ばかりを見ている娘たちばかりですが、今日初めてこんなところを見学させたのは、育児研究以外に恵まれた生に対する感謝の意をもたしたいためです。」と語った(大阪朝日所載)。
 今日いやしくも女子の高等教育に携わっている教師の言葉として、右は甚だ物足らないものがあるように考えられる。
 そもそも、他人の貧困状態を見て「まあ私どもはあの人達に比べたら結構である、感謝せねばならぬ」等の考えを抱くのは普通人のなすところであって、これから新しい社会の構成員を教育せんとするもののために、わざわざ教うべきことではない。率直に言えば、こうしたとろい考え方を以て生徒に臨んでいるから、いつまでたっても我が国の教育が進歩せぬのである。今日では他人の貧困を見て自分の幸せを喜ぶなどの考え方は、或は不道徳に属するかも知れないし、更に一歩を進めて「こうした貧困者のあるのに、私どもは暖衣飽食して誠に相すまぬ、私たちにも一分の責任がある」という考えを抱くように誘導するのが至当ではあるまいか?

 右は、十二月八日の中外日報の記事であります。この記事を読んだ私は、毎年年末に金品を募集して養老院その他へ贈ることにしている、その動機を思い出したのであります。
 今から六年前のある日の午後でありました。街は歳暮の売り出しで、綺麗に飾られて、楽しいお正月を迎える支度で賑やかに活気づいた中を、私たち夫妻は北風に小雪の吹きつける広瀬橋を渡って、火葬場の上の養老院を訪れたのでありました。そこには全くよるべのない老人達が27、8人、貧しい部屋の寒い炭団の火にションボリとうずくまっていられました。同じ気の毒な境遇でも孤児院などなら、それでも、まだ生き生きとした活気があり、たとえ孤児でも行く先に希望を持ち、光を見出すこともできるのでありますが、養老院の方達は、それでなくても淋しい老後を、殊に慰めてくれる身寄りの者は一人もなし。ただ静かに死を待つより他にない、ほんとに火の消えたような日を送っておられるのでありました。
 寒い火葬場の土手を帰る二人は、しみじみ話ました。「あの気の毒な老人達の暮らしの様子を見ては、私たちの生活ぶりを振り返って考えずにおれない。私たちはもっともっと自分の生活を整理し、ひきしまった暮らしに立て直して、与えられた自分のつとめに精進させて頂かねば、第一あの人達に申し訳がない。それにとかく私たちは、怠けたうえに贅沢なことばかり考えて、本当に勿体ない。すまぬことである。今日は養老院の人達を慰めてあげるどころか、却ってあの人たちのおかげで非常に大切なことを教えられ、尊いものを与えて頂いた。」
 この心もちを皆さんにお話しをして、たくさんの方々から、お餅、おかし、お米、新古衣類、足袋、お金、お芋、炭などを頂いて、お正月も近い年末の日曜日に、青年会、婦人会、日曜学校の児童たちと一緒に養老院の仏前に礼拝の後、私は院の老人方にご挨拶を致しました。
 「私たちが今日皆さんをおたずね致しましたのは、皆さんは気の毒な方々でありますから、慰めしてあげるのですというような心持ちでおたずねしたのではありません。実は先日、皆さんを初めておたずね致しまして、私は本当に皆さんに対して相すまぬ生活をしていることを切に感じましたので、今日は皆さんにおことわりに来たのであります。皆さんどうか許して下さい、お詫び申します。何をそんなに詫びるのかと聞いて下さいますな。私は今それを一々述べたてるほど、今の私のしていることは、まだほんとのお詫びになっていないことを恥ずかしく思うのであります。ただ、お許し下さいと一言、言わせて頂きたいのであります。そうして今日は皆さんと共に私たちの懐かしい親鸞聖人さまの報恩講をお営みして、み佛様のお徳を讃嘆させて頂きに来たのであります。」

ー(2)へ続くー

不良青少年の問題と難波大助の告白(2)―諏訪令海―

【淨寶 1927(昭和2)年11月15日発行分】

不良青少年の問題と難波大助の告白(2)―諏訪令海―

 

 東京の植田少年審判所長のお話に、今上陛下がまだ東宮殿下でおいでになった時、殿下に対して恐ろしい行為をした難波大助を入獄中に三度訪れて、彼があのような恐ろしい心持ちになった原因を色々と尋ねてみたが、彼が死刑になる二日前に、

「先生、家庭がつめたくてはだめですよ。」と如何にも淋しそうに、独り言のように言ったそうであります。

 子にとっては、いよいよという最後には、どんなことがあっても自分を許し迎えてくれる、温かい家庭があるという信念こそは、即ち彼のすさみがちな心を温め、和らげて、如何なる困難をも忍び、暗いどん底から彼を救いだす唯一の光であり、力であります。

 彼の故郷には大きな邸宅と沢山の田地を所有している親はあったそうでありますが、家庭は不和で、彼にとっては冷獄に等しいものであり、最も温かく親しむべき者をさえも、呪わずにはいられないという、可哀相な境遇にあったそうです。最後のものから見放された彼は、家庭を呪い、親を呪い、やがては世の中の総てのものを呪わずにいられなくなったのでありましょう。彼は自然、何者に対しても温かい心を持つことが出来ず。何事にもやぶれやけの心に流れて、遂に救うことのできぬ恐ろしい淵に落ち込んだのであります。

 これは決して遠いよその話ではありません。人間は実に危ないものであります。我々は自分の内に深く省みなければなりません。

 我々は今、日々の日暮しの内に、互いに親しむべき者に親しみ、温かい心で互いに手を取り合っているでありましょうか。もしや親しむべき者と冷たい白い眼で睨み合い、心の中で互いに傷つけ合うことがありはしないでしょうか。上は何とか人間らしい体裁をつくっておりますが、とかく内心は恐ろしい苦闘、争闘を続けているのではないでしょうか。難波大助に温かい家庭がないために救われなかったように、私たちの浅ましく恐ろしい心にも何らの自覚もなく、またそれを受け容れて温め、育んで頂く心の家庭がなかったら、到底浮かぶ瀬のない暗い淵に陥らねばならぬでありましょう。

 これを思えば、単に青少年のためばかりではなく、お互い、親子、夫婦、兄妹一家そろって、みほとけさまの温かいお慈悲と、明るい真実の智慧の前に自己を内省させて頂き、尊い合掌の生活を送らせて頂きたい念願をもってやまぬのであります。

                       〇

 今日まで皆さんの御後援によりまして、経営しております、淨寶仏教青年会、同婦人青年会、同日曜学校の事業は、実際の効果から言えば、会員や生徒たちの一部を、せめて悪い方へ陥らぬようにするというだけでも、やれ悪い者ができたと驚いて、何十万円という設備と数万円の経常費を費やして、しかも中々思う様な成績が得られぬというて悩んでおられる、あの大きな感化事業にくらべて、勝るとも劣らぬ大事な尊い事業であることを切に感ずるのであります。

 今では左の事業をしておりますが、何分にも会場が在来の建物へ少しの改造を加えただけでありますから、ピンポンや音楽の練習をすれば、折角相当の図書がありながら落ち着いて読書が出来ず、日曜日の午前中などは、二階に二室と下に二室、それに本堂との五か所で日曜学校の分級教授をし、奥の離れ座敷では、婦人青年会のお茶のお稽古があるというように、家中を使っても、まだ各部が不便で思う様に発展することが出来ないというような窮状であります。

 ここに有志の方々の力を得て、大事な尊い事業が十分に発展することができるように「会館建設」を発起して頂き、一日も早くこの念願を成就さして頂くよう、諸兄姉のご援助を伏してお願いする次第であります。

                       ―了―

不良青少年の問題と難波大助の告白(1)-諏訪令海-

【淨寶 1927(昭和2)年11月15日発行分】

不良青少年の問題と難波大助の告白(1)-諏訪令海-

 

 近来とみに社会上の大問題として、悩みを感じ出したのは不良青少年の問題であります。これがために司法省では、大正12年1月の法律をもって少年審判法が設けられたのであります。

 少年審判法は18歳以下の不良少年少女が罪を犯したり、又は犯罪の恐れのあるものに対して、これまでの悪いことをしたものは罰するというやり方でなしに、どうしたならば、その不良性がよくなってくれるであろうかということを親切に調査研究をし、これにそれぞれ適当な保護を加えて善良に導くのが少年審判法の精神であります。

 不良少年少女たちに対する保護方法としては、訓戒を加えたり、又はある条件を付して保護者に渡すとか、或いは寺院、教会、保護団体又は適当なものに委託したり、又は少年保護司(大部分は宗教家或いは教育家)の監督指導をたのむとか、やや不良の程度の進んだ者に対しては、感化院で家庭的に教養をほどこし、それでも到底望みのないものには厳格な矯正生活をさすとか、もし病的に不良な者は病院に入れるというようにして随分と苦心をするのであります。

                        〇

 不良青少年の最も多いと言われております、大阪の少年審判所を詳しくみせて頂きました時に、少年たちの不良になっていく経路やその原因等をいろいろ調べてみますと、家庭の不和、交友の不良、少年自身の心の問題など、そのほか種々の原因がありますが、一般的に犯罪に最も近い原因は、近来流行の不良のカッフェーや不良の活動写真にあるそうであります。

 何でも見たり聞いたりすれば、直にそれを真似たがる少年たちは、大道の真ん中で、ゆすり、強盗、喧嘩、人殺しなど、写真で見たまねを得意になってやるのであります。やがては、みだらな恋の場面に刺激を受けるようになるのであります。町のいたる所には白いエプロンをかけた若い女が、カッフェーの中から笑顔をもってまねいております。華やかなカッフェーや、薄暗い活動写真の中には悪い友達が網を張って待っております。

 遊びが増長する内に金に困り、つい活動写真で観た万引きやゆすりを実地にやってみるようになるのであります。こんな風で知らず知らずのあいだに深みにはまって、遂には取り返しのつかぬ金看板の不良青少年になるのが多いそうであります。

 もし、今日の日本から、あのよくない活動写真や、カッフェーをなくすることができたら、現在の青少年の犯罪者を少なくとも半減することができるであろうと、審判所の審判官は言っておられました。

                        〇

 最近経費を十幾万円もかけて、近代的の種々の設備をして、年々数万円の経常費をかけて経営して、実に理想的のものであると言われている、ある県の感化院を見せてもらいました。

 「これだけ大仕掛けのもので、一体どのくらいの人員が収容できるのですか?」と尋ねたら、「これで定員はやっと60名ほどです。」とのこと。「そして、成績はどんなふうですか?」と聞くと、「この感化院から世の中へ出して、先ず安心できるものは1ヵ年に、2、3人を数えることさえ難しいです。」とのことでありました。

 保護司の方々にも、実際の事情を色々尋ねてみましたが、これもまた、中々によい成績を得ることが難しいと嘆息の声をもらしておられました。よく考えてみると、それはその筈であります。他人の心はさて置いて、自分で自分の心が中々思う様になってくれぬのではありますもの。

                        〇

 一旦悪いほうへ足を踏み込むと、今度良いほうへ抜け出ることは実に容易ではないことを思わずにはおれぬのであります。それを思うと、やれ悪くなったからと言って騒ぐ前に、これはどうしても悪い方へ傾かぬうちからよく注意して、悪い所へ近づけぬようにすることが何より肝心なことです。また青少年に対して最も親切な当を得た処置であるのであります。ところがそれならと言って、今の青少年たちに、

 「君たちは、よくないカッフェーや活動写真に行ってはいけないよ。」と言って時、「それなら私たちは一体どこへ行って遊びましょうか。」と問い返されたら、それこそどう言って答えたらいいのでしょうか。

 少年たちが安心して遊びまわることの出来るプレーグラウンドがどこにありますか。青年達が学業や、仕事のひまに、お互いに集まって心おきなく愉快に語り合い、よい趣味を養い、読書や適当な娯楽をしたり、よいお話を聞いたりする所が、どこにあるでありましょうか。今の世間を見ますと青少年が行ってはいけないという場所はドンドンつくられつつありますが、行ってよいという所は一向に与えられないのであります。そしていわゆる社会の教育者や指導者たちからは、「今の青少年は甚だ性質がよくない。まずます悪化する恐れがある、困ったものだ。」と嘆息されているのであります。

 一方では社会自体で青少年が不良にならずにおれぬような設備や境遇を与えておきながら、一方では今更のように驚き騒いで声を大にして、不良少年の救済策のために、何百万というお金を費やしてみたところで、それは既に手遅れで、労多くしてその功は甚だ少ないという、つまらぬ結果に終わるのであります。

                        〇

 近頃、各地に青年団や青年会が盛んに出来るようでありますが、ただ月に1、2回の修養談を聞いたり、ただ一部の選ばれた者だけが晴れの運動競技に出場したりするくらいのことでは、一般的には実際に効果は薄いようであります。どうしてもこれは只時々ではなしに、毎日、いつでも、そこさえ行けば、喜んで迎えてくれ、また色々の設備によって良い方へお互いに手を取り合って進むことの出来るような所がなくてはならないと思うのであります。

 悪くなったものを良くすることの必要なことは言うまでもないことでありますが、また一方、まだ悪くならない者を悪い方へ陥らぬようにすることは、もっとより以上に大事なことであり、またすこぶる賢明なことであると思うのであります。

 お医者様のお話を聞きますと、今日では治療医学よりも予防医学のほうがより大切に考えられるようになったとのことです。全く社会の一般がそこまで進んでこなければだめであると思うのであります。

 私たちは青少年のために、もっと親切に全てのことを考えていきたいと念願をもつものであります。

                      ―(2)へ続く―

堪忍―諏訪令海―

【淨寶 1927(昭和2)年9月1日発行分】

「堪忍」

 京都を中心に新しい信仰生活の一団を組織して、今日では日本ばかりでなく、世界の精神界にまで異常の刺激を与えていられる有名な先生がおいでになりますが、ある年のこと先生が鳥取県下に講演をしてお周りになった時のことでありました。

 鳥取県のある田舎に源三爺さんという大変ありがたい親鸞聖人の信者がありました。求道心の強い先生は、この源三爺さんの今妙好人であることをお聞きになって、是非一度逢って行きたいとお思いになりまして、お寺の住職の紹介でお爺さんにお逢いになりました。

                       〇

 いろいろとお話のうちに先生は申されました。

 「世の中にほんとに満足して日暮しをしようと思えば何事によらず、堪えて暮らすという心掛けが何より肝心であると思いますが、お爺さんは、どういう心掛けで平生日暮しをしていられますか。」

 先生は実際、いつも自ら堪忍強い、普通の人には到底でき難いへりくだった日暮しをしていられる方であります。

 「先生、私の心持ちは先生のお考えとは少し違うのであります。」と、お爺さんは、いかにもはっきりと答えたのでありました。

 「それでも、お爺さん、もし私たちに堪えるという心持ちがなかったら、何もかも不足に思われるようになりはしませんか。お友達との間でも、親子、兄弟、夫婦の間でも、畢竟お互いに堪え合ってこそ、家庭も社会も初めて平和になるので、この自分で堪忍するということがなかったら互いに我儘になり、そこには絶えず争いや喧嘩が起こって、決して満足な歓びの日暮しはできなくなりはしますまいか。」

 「先生、それでも私は人様に対して、堪えるというような、よいものは一つも持ち合わせておりませんもの。」

 「お爺さんの言われる、その心持ちは一体どういうことなんですか。」

 「先生のお話の、人様に対して堪える、堪忍するという心持ちは、つまり自分が悪いのではない人が悪いのだが、と思うところに自分が堪えるという心持ちが起きるのでありましょう。」

 「ともかくも、どんな場合でも自分が堪えさえすれば、そこには争いが起こることはない。堪忍するところにこそ真の平和が生まれるのであります。」

 「ところが、先生、この源三爺には人を堪えてあげるというような、よいものの持ち合わせが一つもないのであります。親鸞聖人にお聞かせに与らないうちは、これでも相当によい持ちものがあるように思うておりましたが、よく聞かしてもらってみれば、それはみんな雑毒のまじりものの善であり、虚仮、うそいつわりの行であり、みんな偽物であったのでありました。それどころか、私の本当の値打ちは、地獄一定すみかぞかし、今地獄に突き落とされても不足の言えない奴、これがほんとの私なのでありました。」

 「・・・・・・・・。」

 「だから、先生、私は堪えて日暮しをするのではありません。私は只、みなさんに堪えてもらって、やっと日暮しをさせて頂くのであります。この私の浅ましい心の底を見抜かれたら・・・私は只ただ、みなさんに堪えてもらう外ないのであります。」

 これを聞かれた先生は、

 「ああ、お爺さんはだいぶ上手の日暮しをしておいでる。今日は本当によいことを聞かして下さった。有り難い。」

 と、先生は非常に喜ばれたとのことであります。

                       〇

 先生は自分の一生を信仰生活に精進没頭せられて、その名は今や世界中に鳴り響こうとしていられるほどの偉い方、源三同行は日本の片田舎に住んでいる、無学の一老爺、このお爺さんがどうして先生のような方をして頭を下げさす程の、どえらい智慧が出たのでしょうか。本当に不思議なことであります。

 ところが、よくよく考えてみると、その実一向不思議でも何でもありません。これは本当に当たり前のことでありました。

 その驚くべき智慧は実は源三爺さんの智慧ではありませんでした。人間のはからいの知識でなくて全く如来さまから頂いた真実の智慧なのでありました。

                       〇

 私たちはよく堪忍堪忍と申しますが、堪忍ということは、一体どういうことなのでしょうか。

 「私も言えば、言いたいことが山ほどあるのじゃが、まあ、今日は何も言わないで堪えておこう。私さえ堪えれば家の内は波風立たないでおさまる。畢竟私がこんなに堪えておればこそ、家の内が上手くおさまるのじゃ。」

 私たちの堪忍の心の底は、大抵こんなものでしょう。成程、堪忍すれば口にこそ怒りますまい。手こそ振り上げますまい。しかし、その時の私たちの顔かたちは、どんなものでしょうか。

 「あいつが悪い。あの奴が無理を言う。この嫁が我儘である。」

 と、その時の親子、夫婦、兄妹の心持ちは、お互いに自分はもっとも、向こうが悪いと思う・・・。怒鳴りたい、手を振り上げたいが、ともかくもい、それを堪える、しかしその時の無念さ、相手を呪わずにおれない。表面は堪えているようでも心の中では却って相手を罵り、手を振り上げているでしょう。従って目にも角が立つでしょう。ふくれ面にもなるでしょう。

 相手は顔色を見てすぐその心を読むのであります。陰うつな、うっというしい空気は益々お互いの間を閉ざすのであります。

 ああ、恐ろしい思いを抱いた、こんな浅ましい心を持ってはならない、懺悔して堪えねばならぬと、やっとのことで思い返すことができたがと思うと、今度は私が懺悔した、私が堪えたと、いつの間にか驕慢の峰に登って、相手を見下しているのであります。だからそれが度重なると、

 「私はこんなにまで堪えているのに、それにあいつは・・・今日こそ、いかな私も、もう堪忍袋の緒がきれた・・・。」と、大波乱を巻き起こすのであります。

 世間普通の道徳での堪忍は、自分の手細工の堪忍袋へ、残念なこと、腹立たしいこと、無念なこと、ねたましいこと、言いたいこと、したいことなどを、端からその袋へ詰め込んでおくのであります。だから、いろんなものが溜まれば溜まる程うっとうしくなり、苦しくなり、やがては遂にその袋が破裂する時がくるのであります。

 源三爺さんにもし堪忍袋があるとすれば、それは人間手製の袋でなくて底が無い。その底は、

 「地獄一定すみかぞかし」

 と、地獄の底に届いている。だからその袋へは、言われても言われても溜まる気遣いがないのであります。

 堪えてもらう日暮しこそ、争いのない、心から喜びに満ちた真の平和な幸福の生活を営むことができるのであります。

                      (了)

我が子の恩―諏訪令海―

【淨寶 1927(昭和2)年8月1日発行分】

「我が子の恩」

                                             ◆高師仏教青年会講演の一節◆

 昔から「子をもって知る親の恩」ということをよく申しますが、私は我が子に対しては、むしろ「子をもって知る子の恩」ということを、しみじみ感ずるのであります。

                     〇

 まだ、令爾(れいじ※1)が生きていてくれたことの頃でありました。

 ある日のこと、私たち夫婦はつまらぬことから争いの心もって、互いに白い眼でにらみあっておりました。そこへ、外で遊んでいた令爾が大きな声で、「お父さんただ今かえり!・・・」と言って、勢いよく襖をがらっと引き開けて、部屋の中へ駆け込むなり両手を広げて父親の膝へ飛び上がろうとした刹那、敏感で直覚力に富んでいる子は、両親の闇(くら)い心の影をちらっと感じました。今まで抱きつこうとして張りつめていた両手の力はいつの間にか抜けて、冷たい両親の顔をうらめしそうに見返りながら、また、すごすごと外へ出て行きました。

 それを見送った両親は、間もなく互いの頬にあたたかい涙が流れているのに気づきました。

 冬の夜の氷のように、閉ざされていた二人の心は次第にとけていきました。

 夫は、しみじみとした心もちで妻に語りました。

 「令爾は私たちのような者でも親だと思って、広い世界にまたとない、懐かしい頼りとして力にしているのです。それは丁度如来さま(※2)を畢竟依(ひっきょうえ※3)として、頼りにしているように。

 それに今の私たちは、懐かしいここで抱きつこうとする令爾の前に、やさしい仏さまでなく、互いに白い眼でにらみ合っている恐ろしい鬼になっていた。折角素直に伸びようとする令爾のやさしい心の芽を、踏みにじってしまった。ほんとに恐ろしいことでした。すまぬことであった。」

 「私たちはお互いに、ただ妻であり夫であるばかりでなしに、可愛い令爾の親であることを忘れますまい。そして、お互いに体を大事にして、あたたかい心を養って、いつまでも可愛い令爾のほんとの親にならして頂きましょう。」

 二人の心はいつのまにか春のような、喜びに満たされました。

                     〇

 獣(けもの)の寄り合いになりがちの私たち夫妻を、いつも人間に呼び覚ましてくれるのは我が子であります。

 親は子を育てるといいますが、私たちは我が子に対して何を与え、如何に育てているでしょうか。

 衣食住を与えて育てているといいます。しかし肉体だけなら、あながち人間でなくても、犬でも猫でもそれだけはしております。

 日々の生活の上に私たち夫婦は我が子の前に何を教えているでしょうか。

 それは口では随分、仁義忠孝を教えております。しかし、「百日の説法屁一つ」ということがありますが、百日の説法もお互い夫婦のいがみあい一つの行為によって全ては差し引かれて教えるどころではない、常にマイナスマイナスで日を送っているのであります。百日の説法よりも尊い行為生活こそ、真に我が子を育てるのであります。

 今日一日の間に私は我が子の前に何をしてみせたかを反省してみましょう。

 よくよく反省してみると、私は我が子を教育するよりも、我が子の心を傷つけ、むしろ我が子に教育せられることの方が多いことに驚くのであります。

                     〇

 かつて令爾が大病で枕に就いたなり、頭の上がらぬことが八か月、医師を煩(わずら)わしたことが一年半、その間、暑い真夏も寒い厳冬の時も厭わないで、病んでいる我が子のために苦労を苦労ともせず、一心に看護している私をみて、私の母が申しました。

 「いかに我が子のためとはいえ、あんたのような横着な者が、よくもああ世話ができたものじゃ。」と感心いたしました。

 楽がしたくて苦労することの嫌いな、得手勝手な私が、我が子に対すると不思議に苦労を苦労としないで、むしろ「喜んでその苦しみを引き受ける」のであります。

 功利的な心を離れて、タダでは一と足も動きたくない貪欲な私の心に、「喜んで苦しみを引き受ける」というような、あたたかい尊い心を生んでくれたのは我が子であります。私にもしも令爾がいなかったらなら、こういう尊い心持ちは恐らく一生涯味わわないで過ぎただろうと思います。

 そうした意味から言えば、我が子を生むということは、ほんとの意味での自分自身を生むことであります。

                     〇

 私は私の子に対して、ただ「可愛い」というだけでは我が子に対する心持ちの全てを尽くすことができないのであります。もう一つ尊いということを付け加えて、初めて私の心持ちが落ち着くようであります。この「我が子の恩」を知ると同時に親としての自覚をい得て、初めて真に親子の親しみを味わい、そこに今まで単なる概念的であった「親の恩」も、私には無理なしに子として、しみじみと「親の恩」を感ずるのであります。ここに「子をもって知る親の恩」という真の意義を味わうことができるのであります。

                     〇

 「子をもって親の恩を知り、子をなくして神の愛を知る。」ということがありますが、令爾が生きている間は日々尊い反省を与えてくれました。そして今の私に、「聞かして頂きたい」という求道の心があるのは、全く死んだ令爾の尊いたまものであり、私のような怠け者に念仏させて頂くのは、死んだ令爾からの尊い贈り物であります。

 私は三十五歳のとき初めて無常ということを知り、死を知ったのであります。僧侶である私が三十五歳の時、初めて死を知ったというのは如何にうかつな人間のようでありますが、全く私はそれ程にうかつな人間なのであります。私はそれまでに度々人の死に接しているのでありますが、それはただ死の概念を得ただけであって、私が心から無常を、死を知ったのは、可愛い我が子の死に接して、初めて、うかつな私も真に驚きをたてたのであります。

                     〇

 令爾が亡くなった当分に、悔やみに来て下さったお友達が、

 「あなたのように、折角お子さんが生まれても、あんなに死んでしまわれては、むしろ私のように、てんで子のない方が幸せかも知れませんね。」と言われた時、私は、

 「あなたは、何をそんな勿体ないことをおっしゃるのですか。死ぬる程ならいっそ生まれてくれない方がよい、というような、私と令爾の仲は、そんな薄っぺらなものではありませんよ。」 

 私の令爾は、私にとっては生死を超えた最も尊い妙有の存在であります。全く私の生死に対する救いの善知識であり、求道の根源であります。

              

                       (了)

                                          

(※1)諏訪令海の次男。大正13年寂、享年8歳。

(※2)阿弥陀如来(阿弥陀仏)

(※3)究極の依りどころ

私たちはこの世へ何しに生まれて来たのでしょう-諏訪令海-

【淨寶 1927(昭和2)年4月1日発行分】

「私たちはこの世へ何しに生まれて来たのでしょう」

                                ◆日曜学校(※1)追弔会講話(昭和2年3月10日)◆

 淨寶日曜学校と言えば、すぐ童話劇「浦島」を思い出します。それは、創立当時に開いた大会の時、大変評判が良かったからであります。「浦島」と言えば、すぐに浦島太郎になって非常に好評を得た瑛三(てるぞう)さんを思い出すのであります。

 しかしその瑛三さんはもうこの世にいないのであります。瑛三の亡くなる前には、小田の喜久治さんも、諏訪の令爾(れいじ※2)さんもいなくなりました。

                    〇

 「私たちは、いったいこの世の中へ何しに生まれて来たのでしょう。」

                    〇

 私は、この間、学校の生徒たちの通りの多い鷹野橋のところを、丁度授業の終わった時刻に通りかかりましたら、とても数えることのできぬ程の沢山の男女生徒は恐ろしい勢いで、河に満ちてくる潮(うしお)のように実にものすごい様でありました。

 「これは、まあ何という盛んなことか。」といかにも生き生きとした賑やかさと、喜ばしさとを感じましたが、その次の瞬間・・・

 「今、この元気なやさしい生徒たちの前へ60年という時間(とき)をなげかけたら、どうであろう。」

 こんなことが、ふと私の胸に浮かんだのであります。

                    〇

 「そこの花組のすみさんは、今年いくつになったのですか・・・11ですか。そのとなりのまさえさんは?・・・12。小早川先生は21。瀬川先生は26。私は38です。」

 「今、私たちに60年ずつの年を貰ったら、どうなりますか・・・。すみさんは今11ですから60年後には71。まさえさんは72の白髪頭にしわくちゃ顔のお婆さん。小早川先生は81。瀬川先生は86のキンカ頭(※2)のおじいさん。私は98の・・・いや、そんなにはとても生きられますまい。」

 今から60年の後には、恐らく世界中にいるあの沢山の人たちの半数以上はいなくなるでしょう。何せ、今年やっと生まれた1歳の赤ちゃんが60のおじいさん、おばあさんになるのですからね。今ここにいる、懐かしい私たちのお友達の八分方は裏のお庭の、瑛三さんや喜久治さんや、令爾さんたちが入っている、あの私たちのお墓の中へ一緒に入っているでしょう。

 やがては、懐かしいお父さんや、お母さんとも、兄さんや姉さんとも、可愛い弟や妹とも、好きなお友達とも別れねばならぬ時が来るのであります。何という淋しいことでしょう。

                    〇

 みんなは、よくうまいものが喰いたい喰いたいと言いますが、私たちはこの世の中へうまいものを喰いに生まれて来たのでしょうか。それとも面白くてみたくてたまらんという、あの活動写真(※3)を見るために生まれて来たのでしょうか。

 すきな遊びをしに来たのでしょうか。それとも勉強をしに来たのでしょうか。

 それでなければ、お金をためるために生まれてきたのでしょうか。立派な家を建てたり、或いは倉の中へよい道具やお宝ものを積み込むために生まれて来たのでしょうか。

                    〇

 令爾さんは死んで行きました。

 大事にしていた学校の本も、クレヨンも、洋服も、帽子も残して行きました。

 毎月、月の初めに本屋さんからもって来てもらうのを待ちかねて、楽しみにしていた絵本の「コドモノクニ」も持って行かないで、今は毎日皆さんに見てもらっております。絵本の一番終わりのページには、大きくはっきりと「スワ レイジ」と書いてありますが、書いた持ち主の令爾さんはもうこの世の中を、どこを尋ねてもおりません。色々なおもちゃも二階へ残して置きました。

 会館建築の話が持ち上がった頃、

 「早く、僕らが思うように、とんだり、はねたりして遊べるような、広いのを建てて頂戴。」と言いますから、

 「お金が沢山たくさんいるんだから、そんなに簡単に建てるわけにはいきませんよ。」と言いますと、

 「お金が足らねば僕が貯めているのを出すから・・・。」と言った、貯金が60円余りになっていましたが、それも皆残して行きました。

 すきなお友達の皆さんや、このお父さんや、お母さんや、おばあさんとも別れて行きました。

                    〇

 「私たちは、いったいこの世の中へ何しに生まれて来たのでしょうか。」

                    〇

 令爾さんは病気で寝ている間、なんまんだぶつ、なんまんだぶつとよくお念仏を申しておりました。

 「令爾さんは、もし今死んだらどこへ行くの?」

 「みほとけさまのところへ・・・。」

 と、はっきり答えました。

 「そうです。そして、みほとけさまの所には令爾さんの兄さん(※5)や、おじいさんや、誓導さん(※6)や、日曜学校の小田の喜久治さんが待っていて下さいます。そしてお父さんやお母さんや日曜学校のお友達も、一所にみほとけさまの所へ行く。みんな仲良く楽しく暮らすのです。だから、今でもこの世の中から、みんな仲良くしましょうネ。」

 とお父さんがお話をしますと、

 「エーッ・・・。」

 と言って、どこかひと所を見つめた瞳は、いかにも楽しい世界に憧れるようにして、にっこりとほほ笑みました。

                    〇

 キンエン(筋炎)という苦しい病気で、長い間床についていた尋常四年(※7)の小田喜久治さんは、死ぬる二日前にお父さんやお母さん、兄さんや姉さんを枕元へ呼んで、

 「僕は今度どうしても死ぬような気がします。しかし僕は死んでも、どこへ行ったろうかと気遣うては下さんな。日曜学校で聞かしてもらっております。僕はみほとけさまの所へ参らしてもらいます。みんなも、きっと間違いのないように後から来て下さい。待っておりますよ。」

 と、合掌して、なまんだぶつ、なまんだぶつとお念仏を申しながら、

 「兄さんは一生懸命勉強して、えらい人になって下さい。姉さんはお裁縫を勉強してお母さんのお手伝いをしてあげて下さい。そしてみんな、みほとけさまのお話を聞いて、みんな仲良く、暮らして、あとから来て下さい待っておりますよ。」

 お母さんは、たまりかねて泣かれますと、

 「お母さん泣きなさんな、そんなに泣きなさると僕は気に掛かるけん。みんな一所にみほとけさまの所へ参らして頂くのじゃけん。泣きなさんな。」

 と、悲しむお母さんを、なぐさめておりました。

 それから苦しい中から、ただお念仏を申しておりましたが、

 「淨寶寺の日曜学校の先生へよろしく・・・。」

 と、だけで、あとは聞き取れないで、これを最期に息をひきとりました。

 

                   (了)

                                            

(※1)毎週日曜日に近所の子供を集めて開くお寺の私塾。

(※2)諏訪令海の次男。大正13年寂、享年8歳。

(※3)禿げ頭の意。

(※4)映画

(※5)諏訪令海の長男、令我。大正9年寂、享年7歳。

(※6)三上誓導、大正10年寂。淨寶寺衆徒(所属僧侶)。

(※7)現在の小学校四年生

「問と答」-諏訪令海-

【淨寶 1927(昭和2)年4月1日発行分】

「問と答」

 私がかつて光道学校(※1)を訪ねました時、松本先生(小学校教員)は何か熱心に、生徒のしらべものをしておられました。のぞいて見ると綴り方(※2)らしい。

 「どうです、面白いのがありますか。その綴り方の題は何というのです。」

 「題は『私』というのです。」

 「私、私・・・。それは面白い、まあ見せて下さい。」

 私は興味をもって一つ一つ読んでいきました。これは(小学校)6年生のでありますが、中には、「私という題はむつかしく、とてもわかりませんから『私のかばん』という題に変えて書きます。」と前置きをして鞄について色々面白い、如何にも子供らしい観察を書いているのがあります。次々に読んでいくうちに実に驚きました。

 「松本先生、これはどうです。実にすばらしいものを書いているではありませんか。私は最前、題は『私』というのですと聞いた時、これは面白い、流石は松本先生じゃと思いました。しかし相手が小学校の6年生でしょう。いかに松本先生の生徒でも、とてもこれは書けまいと思ったのです。ところが実に驚きました。これをご覧なさい。」

                                        

 『私』

 私、私、私。いったい私といふものはなんだらう。

 いくら考へても私といふのは、やはり私だ。

 この体の全体が私なのか、心が私なのか、わからない。

 ふつう友達にでも、お父さんお母さん等に私、私といってゐるが急に、先生が私という字を黒板に書かれると、なんだか深い、いみがありそうに見える。

 体の全部が私とすると指一本でもやはり私だ。

 けれども指一本をもって私といふ馬鹿は居ない。

 ほんとに私といふものは何をさしていってゐるのでせう。

                                        

 これは行も点も、井東ハルさんの書いたそのままで、振り仮名は私が付けたものです。

 「松本先生、あなたは生徒に『私』とはどんなものですとお話なさるつもりでこの題を出したのですか。」

 「全く問題は出しましたが、先生も、そう簡単に答えるわけにはいきませんネ。」

 「松本先生、これは誰の句か知りませんがこの間見つけました。なかなか面白いからお目にかけましょう。」

さびしき鳥よ こちらむいたれば 我居たり

                  〇

 ハルさんの「私」は、「私」という問題に対して、「私は・・・こんなものであります。」というような、いわゆる普通の答えにはなっていないのであります。

 我々は、とかく答えと言えば、2に2を加えると4になる、2に3を加えたら5になるというような意味での答えでなければ、真の答えでないように思っているのであります。そういう意味から言えば、ハルさんの「私」はいわゆる答えになっていないのでしょう。

  しかし、このハルさんの「私」は普通の答えよりも、もっともっと深い大きな、これこそ真実の答えになっていると私は思うのであります。

 2に2を加えれば4になる。4を2で割れば答えは2になるというような、我々の普通の理智の頭で割り切れたような小さな答えではありません。「私とは・・・です。」と答えることのできるような小さな答えではありません。むしろ、それは割っても割っても割り切れることのできぬ程に、深い大きな問題で、しかもこの問題に対して、「私は・・・であります。」と、化石した安価な答えを与えないで、「私というものは、ほんとに何をさして言っているのでしょう。」と、真の問題を問題として、その前に突っ立つところにこそ、無限に進展する生きた答えがあるのであります。

 私はとかく、安価な解決の答えを得て、何とか早く問題を片づけて、そこに腰をおろして安心しようとするのであります。そうする方が苦しみが少なくて楽だからであります。そうした答えは化石した信仰の死骸にすぎぬのであります。

 私は2×2は4と割り切ることのできる安価な信仰の答えを求めようとしないで、むしろ割り切ることのできぬ程の大きな問題を真の問題として、それに突き進む全体の上に、常に生きて流れ動く大きな答えを味わって行きたいと思うのであります。

 いつかも、日曜学校(※3)をすまして生徒たちと縁で日向ぼっこをしていると、そこにいた(小学校)三年生のすみさんが、阿部先生(日曜学校教師)に、「先生、わたしたちはこの世の中へ何しに生まれて来たのでしょうか・・・聞かして下さいな。」と言ったそうであります。

 私はそれを聞いた時に、非常な驚きを感ずると同時に、私自身の内に省みてつくづく淋しさを感じましたが、その刹那、翻ってまた大きな喜びを感じたのであります。それはこの一少女によって大きな尊いものを与えて頂いたからであります。それは一つの答えでなしに、大きな問題を与えてくれたのであります。

 この大きな問題を与えられたことによって、近頃、行き詰った苦しさを感じていた私の日曜学校の問題に対して、広い広い道を開いてくれたのでありました。しかもそれは単なる日曜学校の問題にとどまらず、それはそのまんま、私自身の全体の問題に対する道であります。

 しかしそれは、苦しんでいた問題に対する、2×2が4と割り切れた答えの道を与えてもらったのではありません。とかく私が問題に対して、「それは・・・まあ、こうしたものだ。」と、いい加減に安価な答えを得て、化城に閉じこもって、惰眠をむさぼろうとする私をゆすぶり起こして、真の問題の前へ連れ出してくれ、そして、私の真剣に歩むべき尊い道を与えてくれたのであります。

 それは、いわゆる、いい加減なところへ、落ち着きを得た、安心したというようなところではありません。これから私はこの与えられた問題の道に一生けんめいに歩まねばならぬのであります。

 与えられた水火二河の真ん中の白道(※4)に、仰向けになって安心して眠りこむのではありません。眠りこんだ時は堕ちるときであります。恐ろしい炎に焼きつくされ、さかまく怒涛にのまれ溺れるときであります。

 私は、「来たれ」という本願招喚の御声(※5)の前に、ただ徒らに安心して腰をおろさないで、喚ばるる御声のまにまに力強く歩まねばなりません、進まねばなりません。

                        (了)

                                        

(※1)浄土真宗のみ教えに基づく私塾が前身となる、広島市内にあった私立小学校。当時としては珍しい、1学年1学級、男女共学の教育体制であったという。原爆により壊滅し廃校となる

(※2)現在でいう作文のこと

(※3)毎週日曜日に近所の子供を集めて開くお寺の私塾

(※4)search→「二河白道」

(※5)生きとし生けるものを真実の悟りへと至らしめる阿弥陀仏の「わが救いに疑いなくまかせよ」という呼び声。「南無阿弥陀仏」のお念仏のこと