不良青少年の問題と難波大助の告白(1)-諏訪令海-

【淨寶 1927(昭和2)年11月15日発行分】

不良青少年の問題と難波大助の告白(1)-諏訪令海-

 

 近来とみに社会上の大問題として、悩みを感じ出したのは不良青少年の問題であります。これがために司法省では、大正12年1月の法律をもって少年審判法が設けられたのであります。

 少年審判法は18歳以下の不良少年少女が罪を犯したり、又は犯罪の恐れのあるものに対して、これまでの悪いことをしたものは罰するというやり方でなしに、どうしたならば、その不良性がよくなってくれるであろうかということを親切に調査研究をし、これにそれぞれ適当な保護を加えて善良に導くのが少年審判法の精神であります。

 不良少年少女たちに対する保護方法としては、訓戒を加えたり、又はある条件を付して保護者に渡すとか、或いは寺院、教会、保護団体又は適当なものに委託したり、又は少年保護司(大部分は宗教家或いは教育家)の監督指導をたのむとか、やや不良の程度の進んだ者に対しては、感化院で家庭的に教養をほどこし、それでも到底望みのないものには厳格な矯正生活をさすとか、もし病的に不良な者は病院に入れるというようにして随分と苦心をするのであります。

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 不良青少年の最も多いと言われております、大阪の少年審判所を詳しくみせて頂きました時に、少年たちの不良になっていく経路やその原因等をいろいろ調べてみますと、家庭の不和、交友の不良、少年自身の心の問題など、そのほか種々の原因がありますが、一般的に犯罪に最も近い原因は、近来流行の不良のカッフェーや不良の活動写真にあるそうであります。

 何でも見たり聞いたりすれば、直にそれを真似たがる少年たちは、大道の真ん中で、ゆすり、強盗、喧嘩、人殺しなど、写真で見たまねを得意になってやるのであります。やがては、みだらな恋の場面に刺激を受けるようになるのであります。町のいたる所には白いエプロンをかけた若い女が、カッフェーの中から笑顔をもってまねいております。華やかなカッフェーや、薄暗い活動写真の中には悪い友達が網を張って待っております。

 遊びが増長する内に金に困り、つい活動写真で観た万引きやゆすりを実地にやってみるようになるのであります。こんな風で知らず知らずのあいだに深みにはまって、遂には取り返しのつかぬ金看板の不良青少年になるのが多いそうであります。

 もし、今日の日本から、あのよくない活動写真や、カッフェーをなくすることができたら、現在の青少年の犯罪者を少なくとも半減することができるであろうと、審判所の審判官は言っておられました。

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 最近経費を十幾万円もかけて、近代的の種々の設備をして、年々数万円の経常費をかけて経営して、実に理想的のものであると言われている、ある県の感化院を見せてもらいました。

 「これだけ大仕掛けのもので、一体どのくらいの人員が収容できるのですか?」と尋ねたら、「これで定員はやっと60名ほどです。」とのこと。「そして、成績はどんなふうですか?」と聞くと、「この感化院から世の中へ出して、先ず安心できるものは1ヵ年に、2、3人を数えることさえ難しいです。」とのことでありました。

 保護司の方々にも、実際の事情を色々尋ねてみましたが、これもまた、中々によい成績を得ることが難しいと嘆息の声をもらしておられました。よく考えてみると、それはその筈であります。他人の心はさて置いて、自分で自分の心が中々思う様になってくれぬのではありますもの。

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 一旦悪いほうへ足を踏み込むと、今度良いほうへ抜け出ることは実に容易ではないことを思わずにはおれぬのであります。それを思うと、やれ悪くなったからと言って騒ぐ前に、これはどうしても悪い方へ傾かぬうちからよく注意して、悪い所へ近づけぬようにすることが何より肝心なことです。また青少年に対して最も親切な当を得た処置であるのであります。ところがそれならと言って、今の青少年たちに、

 「君たちは、よくないカッフェーや活動写真に行ってはいけないよ。」と言って時、「それなら私たちは一体どこへ行って遊びましょうか。」と問い返されたら、それこそどう言って答えたらいいのでしょうか。

 少年たちが安心して遊びまわることの出来るプレーグラウンドがどこにありますか。青年達が学業や、仕事のひまに、お互いに集まって心おきなく愉快に語り合い、よい趣味を養い、読書や適当な娯楽をしたり、よいお話を聞いたりする所が、どこにあるでありましょうか。今の世間を見ますと青少年が行ってはいけないという場所はドンドンつくられつつありますが、行ってよいという所は一向に与えられないのであります。そしていわゆる社会の教育者や指導者たちからは、「今の青少年は甚だ性質がよくない。まずます悪化する恐れがある、困ったものだ。」と嘆息されているのであります。

 一方では社会自体で青少年が不良にならずにおれぬような設備や境遇を与えておきながら、一方では今更のように驚き騒いで声を大にして、不良少年の救済策のために、何百万というお金を費やしてみたところで、それは既に手遅れで、労多くしてその功は甚だ少ないという、つまらぬ結果に終わるのであります。

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 近頃、各地に青年団や青年会が盛んに出来るようでありますが、ただ月に1、2回の修養談を聞いたり、ただ一部の選ばれた者だけが晴れの運動競技に出場したりするくらいのことでは、一般的には実際に効果は薄いようであります。どうしてもこれは只時々ではなしに、毎日、いつでも、そこさえ行けば、喜んで迎えてくれ、また色々の設備によって良い方へお互いに手を取り合って進むことの出来るような所がなくてはならないと思うのであります。

 悪くなったものを良くすることの必要なことは言うまでもないことでありますが、また一方、まだ悪くならない者を悪い方へ陥らぬようにすることは、もっとより以上に大事なことであり、またすこぶる賢明なことであると思うのであります。

 お医者様のお話を聞きますと、今日では治療医学よりも予防医学のほうがより大切に考えられるようになったとのことです。全く社会の一般がそこまで進んでこなければだめであると思うのであります。

 私たちは青少年のために、もっと親切に全てのことを考えていきたいと念願をもつものであります。

                      ―(2)へ続く―

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