堪忍―諏訪令海―

【淨寶 1927(昭和2)年9月1日発行分】

「堪忍」

 京都を中心に新しい信仰生活の一団を組織して、今日では日本ばかりでなく、世界の精神界にまで異常の刺激を与えていられる有名な先生がおいでになりますが、ある年のこと先生が鳥取県下に講演をしてお周りになった時のことでありました。

 鳥取県のある田舎に源三爺さんという大変ありがたい親鸞聖人の信者がありました。求道心の強い先生は、この源三爺さんの今妙好人であることをお聞きになって、是非一度逢って行きたいとお思いになりまして、お寺の住職の紹介でお爺さんにお逢いになりました。

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 いろいろとお話のうちに先生は申されました。

 「世の中にほんとに満足して日暮しをしようと思えば何事によらず、堪えて暮らすという心掛けが何より肝心であると思いますが、お爺さんは、どういう心掛けで平生日暮しをしていられますか。」

 先生は実際、いつも自ら堪忍強い、普通の人には到底でき難いへりくだった日暮しをしていられる方であります。

 「先生、私の心持ちは先生のお考えとは少し違うのであります。」と、お爺さんは、いかにもはっきりと答えたのでありました。

 「それでも、お爺さん、もし私たちに堪えるという心持ちがなかったら、何もかも不足に思われるようになりはしませんか。お友達との間でも、親子、兄弟、夫婦の間でも、畢竟お互いに堪え合ってこそ、家庭も社会も初めて平和になるので、この自分で堪忍するということがなかったら互いに我儘になり、そこには絶えず争いや喧嘩が起こって、決して満足な歓びの日暮しはできなくなりはしますまいか。」

 「先生、それでも私は人様に対して、堪えるというような、よいものは一つも持ち合わせておりませんもの。」

 「お爺さんの言われる、その心持ちは一体どういうことなんですか。」

 「先生のお話の、人様に対して堪える、堪忍するという心持ちは、つまり自分が悪いのではない人が悪いのだが、と思うところに自分が堪えるという心持ちが起きるのでありましょう。」

 「ともかくも、どんな場合でも自分が堪えさえすれば、そこには争いが起こることはない。堪忍するところにこそ真の平和が生まれるのであります。」

 「ところが、先生、この源三爺には人を堪えてあげるというような、よいものの持ち合わせが一つもないのであります。親鸞聖人にお聞かせに与らないうちは、これでも相当によい持ちものがあるように思うておりましたが、よく聞かしてもらってみれば、それはみんな雑毒のまじりものの善であり、虚仮、うそいつわりの行であり、みんな偽物であったのでありました。それどころか、私の本当の値打ちは、地獄一定すみかぞかし、今地獄に突き落とされても不足の言えない奴、これがほんとの私なのでありました。」

 「・・・・・・・・。」

 「だから、先生、私は堪えて日暮しをするのではありません。私は只、みなさんに堪えてもらって、やっと日暮しをさせて頂くのであります。この私の浅ましい心の底を見抜かれたら・・・私は只ただ、みなさんに堪えてもらう外ないのであります。」

 これを聞かれた先生は、

 「ああ、お爺さんはだいぶ上手の日暮しをしておいでる。今日は本当によいことを聞かして下さった。有り難い。」

 と、先生は非常に喜ばれたとのことであります。

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 先生は自分の一生を信仰生活に精進没頭せられて、その名は今や世界中に鳴り響こうとしていられるほどの偉い方、源三同行は日本の片田舎に住んでいる、無学の一老爺、このお爺さんがどうして先生のような方をして頭を下げさす程の、どえらい智慧が出たのでしょうか。本当に不思議なことであります。

 ところが、よくよく考えてみると、その実一向不思議でも何でもありません。これは本当に当たり前のことでありました。

 その驚くべき智慧は実は源三爺さんの智慧ではありませんでした。人間のはからいの知識でなくて全く如来さまから頂いた真実の智慧なのでありました。

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 私たちはよく堪忍堪忍と申しますが、堪忍ということは、一体どういうことなのでしょうか。

 「私も言えば、言いたいことが山ほどあるのじゃが、まあ、今日は何も言わないで堪えておこう。私さえ堪えれば家の内は波風立たないでおさまる。畢竟私がこんなに堪えておればこそ、家の内が上手くおさまるのじゃ。」

 私たちの堪忍の心の底は、大抵こんなものでしょう。成程、堪忍すれば口にこそ怒りますまい。手こそ振り上げますまい。しかし、その時の私たちの顔かたちは、どんなものでしょうか。

 「あいつが悪い。あの奴が無理を言う。この嫁が我儘である。」

 と、その時の親子、夫婦、兄妹の心持ちは、お互いに自分はもっとも、向こうが悪いと思う・・・。怒鳴りたい、手を振り上げたいが、ともかくもい、それを堪える、しかしその時の無念さ、相手を呪わずにおれない。表面は堪えているようでも心の中では却って相手を罵り、手を振り上げているでしょう。従って目にも角が立つでしょう。ふくれ面にもなるでしょう。

 相手は顔色を見てすぐその心を読むのであります。陰うつな、うっというしい空気は益々お互いの間を閉ざすのであります。

 ああ、恐ろしい思いを抱いた、こんな浅ましい心を持ってはならない、懺悔して堪えねばならぬと、やっとのことで思い返すことができたがと思うと、今度は私が懺悔した、私が堪えたと、いつの間にか驕慢の峰に登って、相手を見下しているのであります。だからそれが度重なると、

 「私はこんなにまで堪えているのに、それにあいつは・・・今日こそ、いかな私も、もう堪忍袋の緒がきれた・・・。」と、大波乱を巻き起こすのであります。

 世間普通の道徳での堪忍は、自分の手細工の堪忍袋へ、残念なこと、腹立たしいこと、無念なこと、ねたましいこと、言いたいこと、したいことなどを、端からその袋へ詰め込んでおくのであります。だから、いろんなものが溜まれば溜まる程うっとうしくなり、苦しくなり、やがては遂にその袋が破裂する時がくるのであります。

 源三爺さんにもし堪忍袋があるとすれば、それは人間手製の袋でなくて底が無い。その底は、

 「地獄一定すみかぞかし」

 と、地獄の底に届いている。だからその袋へは、言われても言われても溜まる気遣いがないのであります。

 堪えてもらう日暮しこそ、争いのない、心から喜びに満ちた真の平和な幸福の生活を営むことができるのであります。

                      (了)

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