8・6

例年8月6日午前8時15分、平和の鐘と共に開始される「平和記念式典」が終わる頃、同じ平和公園敷地内にある平和観音像前で「旧中島本町原爆追悼法要」が始まります。

広島平和記念公園はかつて六つの町で構成された市街地でした。原爆によって焦土と化したそれらの地域は、戦後の都市整備計画によって公園へと姿を変えたのです。そして、六つの町のひとつ、中島本町に淨寶寺はありました。

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上写真正面が「平和観音像」。写真右手の石碑には旧中島本町における原爆死没者のご芳名が刻まれており、そこには住職の両親と姉の名前も見えます。

爆心地から500m圏内にあった旧中島本町住民全員が炎に焼き尽くされました。1945年当時小学六年生だった住職は学童疎開により、家族の内ただひとり原爆の難を逃れたのです。

その住職と同じように、掛け替えの無い家族を原爆に奪われたご遺族によって、この「旧中島町原爆追悼法要」は毎年欠かさず営まれています。

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法要後、丹念にしたためたご法話の原稿をゆっくりと読み上げる住職。

もちろん住職は、その気になれば原稿なしで3時間でも4時間でも話せます。しかし、この日に限っては用意した原稿を注意深く読み上げるのです。一字一句に至まで揺るがせにできないという、反戦争、平和、そして失った家族に対する強い思いが伝わってきます(以下は、私が聞いて要約したものです)。

『人間の煩悩に根ざした自己中心性。その独善が殺戮を正当化させ、人類史上最悪の兵器を現実にもたらした。如来の慈悲の光に照らされて、心の闇ー罪業を、身を以て知らされなければ、また同じ過ちが繰り返されるだろう。あなたの苦しみを我が苦しみとして「たすけずんば止まん」とはたらく如来の慈悲を手本と仰ぎつつ、常に我が身を顧みて慚愧し、全人類が共に敬い助け合いながら、この与えられた命を、戦争の根絶と平和の実現の内に全うすることを念願する』(文責副住職)

法要終了後、原爆ドームのすぐ傍にある「動員学徒慰霊塔」に向かいました。ここの名簿には、住職の姉の名前が掲載されています。軍国主義に煽られて、新緑の輝きのような青春を犠牲にし、国のためにと尽くしながら、極限の苦痛の中でその尊い生命を奪われていった無念の歴史があります。

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(場面は変わって、下写真は、8・6夕方の平和公園。多くの人が列をつくり、慰霊碑の前で手を合わせようと並んでいます)

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(因みに、上写真正面の、通称「原爆死没者慰霊碑」から左手10mくらい、つまり写真左側に見えるポールの前辺りに旧淨寶寺はありました)

 

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