スリランカ滞在記(25)

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さて、前回から随分と間が空いてしまいましたが、今いる場所は、ポロンナルワ「涅槃像」前。全長14mの巨大な石像です。予告通り、今回はお釈迦様がお亡くなりになられたご命日、「涅槃会」について触れたいと思います。

今から2500年ほど前の2月15日(旧暦)、お釈迦様はインドのクシナガラという場所で、80年を一期として、その偉大なご生涯を終えられました。お姿は、頭北面西右脇に臥されていたと言われています。つまり、㊤写真のようなお姿だったようです。

直接の死因は「食あたり」。経典によると、信者の布施したキノコ料理を食べて、激しい腹痛に襲われます。酷い下痢で、血が混じるほどだったということです。

しかしながら、その直前まで、お釈迦様は仏法を弘め人々を救いへと導くために、お説法の旅を続けていらっしゃいました。紀元前五世紀前後、食事情や医療環境は現代に比べようもないくらい貧弱であったと思われます。そのような中、80歳でお亡くなりになられるまで布教の旅を自らの足で歩まれたお釈迦様です。よほど頑健なお身体と、卓抜した精神力をお持ちでいらっしゃったのでしょう。

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お釈迦様は沢山のお弟子さんに囲まれてお亡くなりになられたようですが、その時の様子も、経典には生々しく描写されています。

お弟子さんの中で諸行無常の道理に達した高弟が泣き乱れることはありませんでしたが、そうでない者は「両腕をつき出して泣き、砕かれた岩のように打ち倒れ、のたうち廻り、ころがった」ということです。

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横たわるお釈迦様の側に立つ高さ7mの像は、お釈迦様十大弟子の一人、アーナンダと言われています。

アーナンダはお釈迦様の従弟で、お釈迦様の身の周りのお世話を任されていました。容姿端麗でとても優しい性格。そのため、女性に大変人気があったとか。しかしながら、修行の方は中々思う様に捗らず、お釈迦様が亡くなられた時も、悟りに達しておりませんでした。

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胸の前で両腕を交差させ、じっと心の底から溢れ出る悲しみに耐えているような佇まいです。

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お顔をアップしてみると、他の仏像がとても穏やかなお顔をされているのとは対照的に、深い悲しみを湛えた表情です。

後世、この「涅槃会」の光景は、多く彫刻や絵図に取り上げられます。それらの中で、アーナンダは泣きわめいていたり、時には悲しみのあまり気絶していたりと、とても人間的な姿で描かれています。

悟りについては遅れていたアーナンダ。しかしその人情溢れる姿に、私個人としてはとても惹かれます。

ところで、この「涅槃」という言葉、「火を吹き消した」という意味があります。火を吹き消したと言っても、命の火ではありません。煩悩の火です。ですから、涅槃とはお悟りの境地のことを言います。では何故、お釈迦様の死をお悟りと言うのでしょうか。

お釈迦は35歳で真理を悟り、心は煩悩から離れ苦しみも消滅しました。しかし身体のある限り、その生命を維持するための生理的欲求と、怪我や病気などの肉体的苦痛からは離れられないので、完全な悟りとは言えません。お釈迦様は、仏法の伝道活動を行うために身体をこの世にとどめておく必要があったのです。

よって、お亡くなりなられて肉体のしがらみから解放されたことにより、初めて悟りは完全なものとなりました。そのためお釈迦様の命日を「涅槃会」と言うわけです。

ところで、悲しみに暮れるアーナンダは、その後どうなったのでしょう。

お釈迦様のお弟子方は、その耳の底に残ったみ教えを誤解したり忘れたりしないため、皆で摺合せを行いました。これを「結集(けつじゅう)」と言い、その場で暗記したお釈迦様のお説教を口伝で後世へと伝えていきました。それらが文字に起こされ、仏典が成立していくのはまだまだ先のことです。

その「結集」で大活躍をしたのが、他ならぬアーナンダでした。お釈迦様のお傍に仕えていたから、だれよりも多くお釈迦様のお説法を聞き、だれよりも正確に暗記していたのです。アーナンダが話始めると、まるでお釈迦様が生き返ったようで、お弟子方は涙を禁じ得なかったということです。

劣等生が大活躍する。仏典ではしばしばあることですが、如何なる者も見捨てない仏教の立場を示唆しているようで、とても興味深いお話です。

【続く】

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